「フィルバート様……」

怒りを発させたかつての主人を見ながら、ジャスティンは苦痛に満ちた聲を出した。それでなくても傷ついていた長兄の心は、さらに大きな痛手をけたはずだ。

フィルバートはと聲を震わせて、支離滅裂なことを言い続けている。

「私は……私には選択の余地はなかった……お前たちに勝てないことが、心の中で重いしこりとなって……。私は人並み以上の能力がしいんだ……夢にまで見た、劣等のない人間になれるんだ……」

そう言ってフィルバートはを押さえ、をむしばむ痛みに耐えるような表になった。

「う……ううぅ……」

「フィルバート様、がお苦しいのですか？　フィルバート様っ！」

ジャスティンが何度も呼びかける。

「お前が心配する必要はない！　お前など、私の人生には不要な存在なんだっ！！」

ジャスティンが自らに向かってばした指先を、フィルバートは無理やり引きはがした。

明らかに苦し気なうめき聲をらすかつての婚約者の姿に、ミネルバのは千々にれた。心に刻み込まれた記憶がよみがえり、さまざまなが押し寄せてくる。

（フィルバートが口にした言葉が真実なら……私たちはお互いに、相手を深く傷つけていたの……？）

頭の中まで混沌としてきた。

７歳で婚約してから１７歳で破棄されるまで、ずっと寄り添えないままだった。近くにいるのに、一番遠い存在だった。

靜かで幾帳面なミネルバと、やんちゃで気ままなフィルバート。たしかに、ふたりの格はかけ離れていたけれど。

初顔合わせのとき、第一聲で「可くないし不想で、何を考えているのかちっともわからない」と言われたことを思い出す。

フィルバートの馬鹿にしたような口調から、自分の姿かたちが見苦しいと思われていることが察せられた。

１１歳のフィルバートの目には、ミネルバは理想的な婚約者として映らなかったのだ。鋭い視線を向けられて、がびくっと震えたことを覚えている。

フィルバートは常に不機嫌だった。せめて面を気にってもらおう、打ち解けようと側に近づくたびに、彼の苛立ちをでじた。

ミネルバはいつも不安で──心が落ち著くのは、王太子妃教育をけている間だけだった。夫となる人からされないのなら、國のために役に立つ人材になるしかないと思っていた。だから、力を振り絞って勉學に勵んだ。

（だってそれ以外、どうすればいいのかわからなかったから。でも私のその行いが、フィルバートの心に爪を立て、傷つけたの？　すべて私のせいなの……？）

息が苦しい。から力が抜けて、腳がふらつく。間髪をれずにたくましい手がびてきて、ミネルバのを支えてくれた。

「ミネルバ、自分を責めるな。この狀況は君のせいではない」

ルーファスの熱い息が耳をかすめた。背中に固い筋をじる。ルーファスが後ろから包み込むように抱きしめてくれているのだ。

の震えが止まり、沈んできた気持ちが浮上する。ミネルバは目にたまっていた涙をまばたきで払った。

ミネルバは深呼吸をして気持ちを切り替えた。冷靜になってみると、室全に邪気のようなものが充満し、空気を重く淀ませていることに気づく。

ルーファスの結界に守られていないふたりの側近たちは、し息が苦しいのだろう。をよじらせて顔をしかめている。

「フィルバート様！　フィルバート様っ！」

ジャスティンが聲を張り上げる。

「うる……さい……私をわせるな……もう、うんざりなんだ……」

フィルバートがかすれ聲で言葉を返した。

ミネルバは首をねじってルーファスと目を合わせた。

「ルーファス様。やはりフィルバートのの中に、何かが潛んでいるように思えます」

「ああ、よくない兆候だ。明らかに悪いものを抱え込んでいる」

床の上でを丸めるフィルバートの脇に両手をつき、ジャスティンが奧歯を噛み締めている。

「くそっ！　セリカの魔力はフィルバート様も狙っているのか？　自分の夫を殺そうとしているのかっ！？」

玉の汗を浮かべるフィルバートを見ながら、ジャスティンは絶の漂う聲でんだ。

「違う……！　これはセリカから私への贈りだ。私を守るため……私の勇気が……くじけないように……っ！」

フィルバートは髪がれるほど激しくかぶりを振った。

「セリカの力は……まだ未なんだ。それでも私に強さを授けてくれた……これは、彼のが誠である証……」

フィルバートはぎゅっと目をつぶり、部を抱え込んでいる。痛みのあまりか、悲鳴のような聲がからほとばしる。

ルーファスの右手がミネルバのから離れた。鞄から取り出した翡翠を握り締めて、意識を集中させているのがわかる。彼が右手を突き出すと白い霧が渦を巻き、一本の筋となって床を走り、あっという間にフィルバートの全を覆った。

結界はすぐに無明に変わった。ジャスティンが驚きに目をみはっている。

「結界で封じておけば大使公邸にいる人間は安全だが、フィルバートは……。そろそろロアンが戻ってくるはずだが……」

ルーファスのつぶやきに言い知れぬ恐怖が込み上げてきたとき、誰かが廊下を駆けてくる音がした。

「マーカスさんもっと、もっと速く走ってっ！」

「人使いが荒いなロアン、文句言うなら自分で走れええっ！」

ルーファスとミネルバは顔を見合わせ、廊下の角まで走り出た。

長い廊下の先に視線が引きつけられる。こちらに向かって長の男が突進してくる。背中に誰かを抱えて、驚くほど軽々とした足取りで。

悪態をつきながら、ものすごいスピードで走っているのは次兄のマーカスだった。筋骨たくましいで、軽い荷を運ぶかのようにロアンをおぶっている。

「僕はお腹が空いてふらふらなんです。大勢を浄化するのってめちゃくちゃ力を使うんですよ！　ご飯食べたいご飯っ！」

「時間が無いんだから我慢しろ、つーかお前、攜帯食俺の分まで奪ってたよな！？」

「あんなもんで足りるわけないでしょおおお」

マーカスが一歩進むごとに、彼の背中にいるロアンが弾んでいる。

「じるじる、セリカの邪悪な魔力！　さっさと片付けてご飯食べたいっ！」

ロアンが手首を持ち上げる。手のひらに白いの球が浮かんでいる。

「あとちょっとだよマーカスさん。ルーファス様ミネルバ様、大変長らくお待たせしましたっ！」

マーカスの背中に擔がれたロアンが、いたずらっ子のような笑みを浮かべた。

「うおおおおっ」

マーカスが腹の底から咆哮を上げ、ミネルバたちを通り越して角を曲がり、フィルバートのいる室に飛び込んだ。

次の瞬間、真っ白いが炸裂した。いくつもの太が発するような、すべてを吹き飛ばすようなロアンの強い力が室に充満する。

天才児が持てる力をい起こして放った、邪悪なだけを浄化する。である水晶によって増幅されたしく明るいが、ジャスティンごとフィルバートを包んでいた。