「小さなころの私は、父や母が構ってくれないと泣きべそばかりかいていた。両親は五歳離れた兄にかかりきりで……私はいつも母や教育係とすごしていた。いながらも、我がを兄と比べては嫉妬していたよ」

ミネルバの肩に頬をすり寄せて、ルーファスが靜かな聲で言う。ミネルバは無意識に彼を強く抱きしめた。

ソファに座って寄り添い合っている狀態だが、ルーファスのの重みがしっかりとじられた。彼は本當に大きかった。よく鍛錬されたたくましいが、ミネルバをすっぽりと包んでくれている。

「多くの屬國を従えるグレイリングは、父の代ではずっと安定していた。唯一の不安材料は、後継者である兄のが弱いこと。両親はグレイリングの勢力圏から醫者や薬學研究者をかき集めた。兄の養育に細心の注意を払い、できることは何でもした」

ミネルバの腕の中で、ルーファスのが小さく震えた。

「夜となく晝となく……両親を獨り占めする夢を見たよ。もちろん父と母は私をしてくれていたし、私の養育を人任せにすることに対して罪悪を覚えていることも知っていた。でも嫉妬というものはが深くて、ずっと私の心を蝕み続けるんだ。どれほどの理由があっても、自分を納得させることが難しかった」

ミネルバのじゅうを切ない思いが駆け巡る。小さなころのルーファスのそばにいてあげたかったと、痛いほど思ってしまう。

「グレイリングは厳格な長子相続制をとっている。しかし４歳か５歳のときにはもう、自分が微妙な立場にいることを悟っていた。兄はいまでこそ健康だが、當時は生死の境をさまようこともあったほどで……グレイリングの有力者たちは、兄が人まで生きられないのではないかと噂していた。そんな狀況で次男の私が、人々のどんなにれていたかは想像がつくだろう？」

「はい。野心とですね」

ミネルバは小さな、しかしはっきりした聲で答えた。そしてルーファスの背中に回した腕にさらに力をこめた。の痛みが大きすぎて、そうせずにはいられなかった。

「そうだ。兄がこの世を去ったら、皇太子の稱號をけ継ぐのはい私だ。早いうちから私を取り込んでおけば、グレイリング勢力圏で圧倒的な影響力を持てる。自分や一族に莫大な利益がもたらされる。貴族たちのぎらつくや薄汚い野心が混じりあって、私を中心にものすごい勢いで渦巻いていた」

ミネルバはを固くした。

やむを得ない事があるとはいえ、生まれたときから親に甘えられず、を求めて泣いていた小さなルーファス。服従と敬意をもって近づいてくる人間たちのお目當ては、彼がもたらすであろう長期にわたる繁栄や権力や財産だけ……。

「ほとんどの國と同じように、グレイリングでも妻帯せずに皇位を継承することがじられている。だから多なりとも権力のある貴族たちは、私と自分の娘に……是が非でも繋がりを持たせたがった。たとえ皇帝になれないとしても、私がけ継ぐ予定の領地は広大な上に天然資源が富で、娘の婿として申し分ない。だから私に群がる人間は、兄よりもずっと多かった。両親は対応に苦慮し……い私に制約を與え、自由を狹めることにした」

ミネルバを抱いたまま、ルーファスがしを引く。そしてミネルバの顔を覗き込むように目を合わせた。

「両親はい私に、己の立場がいかに不安定かを言って聞かせたんだ。海千山千の貴族たちの手にかかれば、たやすく餌食になってしまう存在なのだと。私は後継者ではない、選ばれた存在ではない、しかし私の行のひとつひとつにグレイリングの平和がかかっている。隙を見せてはならない、兄弟間の危うい均衡を崩してはならない、兄が基盤を固めるまでは人をすることをずる……」

「そんな……」

「仕方なかったんだ。フィルバートには、がなくて不正を嫌うバートネット公爵という守護者がいたが、私にはいなかったから。襲い掛かる狼たちを追い払ってくれる忠義者の三兄弟や、高い倫理観と品位を保って行する理的な婚約者がいてくれたら、どれほどよかったか」

ルーファスは額をミネルバの額に軽く押しつけ、薄く笑った。

「両親から警告をけた日から私は、自分の殻に閉じこもるようになった。子どもらしいを表に出すことをやめた。父や母の言いつけを守るために、それ以外に方法が思いつかなかったから。兄よりも目立たないために黒づくめの格好をして……群がってくる令嬢やその父親を傲慢に突き放した。おかげで悪魔の申し子、暗黒の皇弟殿下などという二つ名で呼ばれるようになった」

ミネルバは息が詰まりそうだった。目を閉じたルーファスが、傷つきやすい小さな年に見えてくる。

「嫉妬というものは恐ろしい。取りつかれると、フィルバートのように人生が破壊されてしまうことがある。私は兄のことを、嫉妬する以上にしていたからよかったが……一歩間違えば、フィルバートと同じことになっていたかもしれないな」

ルーファスが目を開けて、小さく吐息をらした。彼の溫かい息がミネルバの頬をくすぐる。

「心に鉄の鎧をまとっていても、長するにつれ危険は多くなる一方だった。蹴散らしても蹴散らしても、たちは熱い視線を送ってきた。詳しいことはミネルバには到底聞かせられないが、私の妃になるために父親とグルになって卑怯な手段に出る者もいたほどだ。あまたのから、自らの手で我がを救い続けた結果、守りを固める能力が人よりも発達したんだ」

ルーファスがまたを引き、長い指先でミネルバの前髪をかきあげた。

「１５歳のとき、放浪しているロアンを見つけた。８歳とは思えないほどガリガリに痩せた小さな子どもだったが、恐ろしいほどの能力を持っていた。彼のためにあれこれと奔走しているうちに、自分に結界を作る能力があることに気が付いたんだ。新しい治療法で兄が健康を取り戻して、真剣にし合える人と家庭を築いて、跡取り息子が生まれて……兄の基盤がしっかり固まるまで、結界は大いに役に立ってくれたよ」

ミネルバはルーファスの頬に手をばした。指先に彼を慈しむ気持ちを込める。

「兄が即位したとき、謝罪の言葉とともに言われたんだ。これからは自分の人生を生きてくれ、と。鎧をいでする人を作れと。でも私はそれまでの生き方に、しされる喜びとは無縁の暮らしに、すっかり慣れてしまっていた。さまざまなが麻痺していて、新しい人生を目指そうにもやり方がわからなかった」

ルーファスの目が切なそうに細められた。

「あのときは我ながら混したな。特別な人がしいと思っても、捨ててしまったは永久に戻ってこないのだと絶した。だから私は、それまでまとってきた心の鎧をまた引き寄せて、いままで通りの暮らしを続けた。気持ちをわかちあえる相手など、一生見つけられないと思っていた」

ルーファスがミネルバに回している腕に力を込めて、優しくを近づけてくる。とが再び著すると、彼の鼓がさっきよりも早まっているのがわかった。

「だが、ときとして人生は思いがけないほうへ向かう。家族以外の人間をする気持ちを失ったはずの私が、初対面のにをしたんだ。私は心を失ったんじゃなかった、長い間心の奧に隠れていただけだったんだ。ミネルバ、君が私に新しい世界を教えてくれた。心の底から正直になる幸せを與えてくれた。ミネルバがいなかったときのことなど、もう思い出したくない」

「ルーファス……」

ミネルバはがいっぱいになって、目に涙が浮かぶのをじた。ルーファスをする気持ちが募って苦しいほどだ。

格上のグレイリングに嫁げば、つらいこともあるかもしれない。それは覚悟している。でもルーファスがくれた言葉さえあれば、何があってもミネルバのが薄れることはないと思えた。

「私は生涯……ミネルバをし続ける。君がむ通りの夫になれるように努力すると誓う……」

ミネルバの肩に顔を埋めて、ルーファスがし眠そうな聲を出した。今日は朝早くから活している上に何度も結界を使っているから、いよいよ限界が來たのだろう。

「私も生涯ルーファスをし続けます。私のは、どんなことがあっても負けません。だからしい人、ほんのし休みましょう。起きたらまたたくさん話しましょう。１５分……いえ、３０分たったら起こしますから」

「１５分で構わない……ミネルバの膝枕なら、最高級の寢で眠るよりも回復するに違いないから……」

そう言ってルーファスはの向きを変え、ミネルバのに頭を乗せてくる。

ルーファスの髪はすっかりれていた。ミネルバは彼の端整な橫顔を見下ろしながら、黒髪を梳くように頭をでてあげた。そして、彼が夢の世界にっていくのを優しく見守った。