《星の海で遊ばせて》リトマス紙(3)

そうしてそこに、意外な人が立っていたので、息を呑んだ。多田紗枝である。同じ班であるため、詩乃も、紗枝のことは他の生徒よりは多は知っていた。家が道場で、腕っぷしが強い。バトルコックとか、戦闘系料理部とか、男子からそう呼ばれたりしている。そして何より、自分のことを嫌っている。そんな子がこんな人気のない所で聲をかけてくる理由は、恐ろしいこと以外、全く浮かばなかった。

「水上、どこ行くの?」

にこっと笑顔を振りまいて、紗枝は詩乃に質問した。

詩乃はの危険をじながら、答えた。

「部室、だけど」

「水上、何部なの?」

「ぶ、文蕓部、だけど」

「へぇ。じゃあ、小説とか書いたりするの?」

「……まぁ、書くけど」

よし、と紗枝は心の中でガッツポーズを決めた。まずは立ち止まらせて、無理やりにでもターゲットを會話に引きずり込む。一対一なら、いくらなんでも、水上とはいえ、応じるしかあるまい。

「林間學校でさ、カレー作りの時の事、覚えてる?」

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「まぁ……」

「柚子の火傷」

「ちょっと大袈裟すぎたね」

「いやいや、あれはポイント高いよ」

「ポイントねぇ……」

「柚子のこと助けてくれてありがとね」

「え……」

「やっぱ、それはちょっとね、友達として言わなきゃなって思ってたんだ。あの時の水上、ちょっと格好良かった」

「いいよ、気使わなくて」

詩乃が照れ隠しに俯くのを、紗枝は見逃さなかった。再び、計畫通りというガッツポーズを心の中で決める。男子は、とにかく褒める。褒めれば誰だって悪い気はしない。柚子には必要のないテクだろうが、私のようなパンピー子にとっては必修科目だ。

「噓じゃないよ。でも、水上って、すぐどっか行っちゃうでしょ? 皆でいるの苦手?」

「まぁ……」

「こうやって、二人で話すのは」

「まぁ、それなら……」

柱の後ろで二人のやり取りを聞いていた柚子は、そこで、焦りのようなものをじた。詩乃の言葉の続きが気になってしまう。『それなら』何だというのだろうか。夜食の思い出が、柚子の脳裏によみがえる。あの時も二人だった。暗い森の中に二人きり。あの思い出が、薄れていくような不安に駆られる。

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「水上さ、実は、彼とかいるの?」

「え? なんでそんなこと……」

にやっと笑う紗枝。その質問はちょっと、とさらに焦る柚子。柚子は、自分でも一何を焦っているのか、よくわからなかった。

「だってほら、気になるじゃん」

「どうでもいいでしょ」

「じゃあさ、好きな子とかいないの?」

どくん、と柚子のが高鳴る。雨の音が、急に小さくなった。

「知ってどうするの」

「どうもしないけど」

あ、これは急ぎすぎたな、と紗枝は悟った。本當はここで、俺に気があるのかと思わせて、さらに浮かれさせようと思ったのだが、水上には逆効果だったようだ。なぜだが、不機嫌そうである。不機嫌というより、聲音も目も冷たさを増している。

「じゃあ何か、あだ名とかある?」

詩乃は眉間にしわを寄せる。これだからの子との會話は嫌いなんだと詩乃は思う。話の要點も、目的も、全然わからない。伏線を発した挙句、どれ一つ回収せずに終わるミステリーのようだと、詩乃はこの手の會話を聞いているといつもそうじるのだった。

「ないけど」

「じゃあ、私が作ってあげよっか」

「別に――」

「ミーナは?」

「ふぇ?」

間の抜けた聲を出す詩乃。柚子は、しかし、その聲そのものの面白さをじる余裕は全くなかった。あだ名って何? そんな聲、私初めて聞いたんだけど? なんでそんな私の知らないところを、紗枝ちゃんにはさらっと見せてるの! 柚子は、シャツの裾をぎゅっと摑む。

「水上だから、ミーナ。どう?」

詩乃は、皆の前で〈ミーナ〉と聲をかけられる自分を想像した。すぐに、最悪だと思った。の子っぽいからミーナ。華奢だからミーナ。どっちにしても、それを呼ばれた後は、いたるところでケラケラと、笑いものにされている映像しか思い浮かべることができない。他人にどう思われようと構わないが、そうは言っても、人の醜いに曬されるのは、嫌な気分になる。とはいえ、もうすでにこの子は自分をからかおうとしているようだから、手遅れだろう。やっぱり多田さんは、自分のことが嫌いなんだ。

もう、勝手にしてくれと詩乃は思った。

「……呼びたきゃ、勝手に呼べばいいよ」

ひょおおっと、紗枝は急に、真冬の風に煽られたような気がした。冷たい聲と、乾いた眼差し。紗枝は、自分の本質的な醜さを指摘されたような気がして、思わず呼吸を止めてしまった。

「う、噓噓、呼ばないよ。あだ名は、嫌いなんだね、ははは……」

何とかフォローする紗枝。なんでこんなに不機嫌になるの、と驚いてもいた。柚子の気持ちを確かめるための実験で、自分が言い出したことではあるが、なんで水上に、こんな気を使わなきゃならないのよと、遅れてそんな不満を覚える。

「――でもちょっとね、水上と、話してみよっかなって思って」

完全な作り笑顔を浮かべる紗枝。それを、疑の目で見つめる詩乃。

「ほら、私って、知ってると思うけど、暴力系じゃない?」

「暴力系?」

詩乃は突然紗枝の口から飛び出してきた言葉を繰り返し、思わず、くすくすと笑ってしまった。子高生をタイプ分けするという発想はわかるが、それに暴力系というグループがあるとは知らなかった。

「だから、誤解されちゃうこと多いんだよね」

「あぁ、そうなんだ」

あれ、と紗枝は思った。急に水上の張というか、敵対心のようなものが綻んだような気がする。し笑ってるし。

「多田さんも、大変だね」

そんな労いの言葉を、詩乃は自然と口にする。突然勵まされて、紗枝は、この男子は本當に、やっぱり全然わからないなと思った。そして、思っていたより、嫌な奴ではないかもしれないともじるのだった。

「――皆で話すのは苦手だけど、こういうじだったら、話せるよ」

「なんか、水上の事、私ちょっと、誤解してたかも」

そう言う紗枝に、詩乃は微かな笑みを浮かべて言った。

「いいよ、誤解してても。打ち解けようとしない自分のせいだから」

詩乃はそう言うと、會話を一方的に終えて、CL棟にっていった。やっぱり変わった男子だなぁと、紗枝はその背中がCL棟の玄関口から消えるのを眺めていた。詩乃の気配が消えると、柱のから柚子が出てきた。

「さて、それで、柚子、何か――」

気持ちの変化はあった? と聞こうとした紗枝だったが、言葉を言い終える前に柚子に正面から抱きつかれ、驚いてしまった。

「何、どうしたの!?」

「紗枝ちゃん……」

「う、うん? どうした?」

紗枝は柚子を抱きとめ、ぽんぽんと背中を、あやす様に叩いた。雨で寒かったのだろうか。シャツにも髪のにも雨粒が付いている。

「――ら、ないで」

「え?」

小さな柚子の聲。

紗枝が聞き返すと、柚子は顔を持ち上げて、下からすくう様に紗枝を見つめていった。

「水上君、取らないで!」

「ええぇ!?」

予想外の反応に驚愕する紗枝。これは何かの冗談だろうかと、思わずあたりをきょろきょろしてしまう。

「なんであだ名とか付けるの! ずるい!」

「ちょ、ちょっと柚子!?」

「笑わせたりするの!」

「えー……」

紗枝は、こんな柚子を見るのは初めてだった。我が儘とは縁遠い、駄々をこねないことで有名な思いやり子である新見柚子。そんな柚子が……。

柚子の反応と、そこから導き出される結論を認めたくない心によって、紗枝の思考はフリーズしてしまう。紗枝は、詩乃との會話の後、あっけらかんと出てくる柚子を想定していた。『ね、水上君って面白いでしょ、紗枝ちゃんも友達になってみなよ』とか、そんなことを言うはずだろうと思っていた。

ところがこれは――。

「マジ、で……?」

柚子の頭をでつけながら、紗枝は大きく息を吸い込んだ。

ギュ、ギュ、ギュ、シャッ。

ギュ、ギュ、ギュ、シャッ。

印刷機がA4用紙に文字を刷り、排出する音が部屋に響く。十ページ、約一萬文字の短編。題材は〈貓〉。たった十枚が印刷されるのが待ち遠しく、詩乃はホッチキスを片手に印刷機の前でうろうろしながら、印刷が終わるのを待っていた。

やっと印刷が終わると、詩乃はすぐに、ミスプリントがないかをざっと確認し、十枚をまとめた。パチンと、用紙の右上の角にホッチキスを打つ。この瞬間の達は、ランナーがゴールテープを切った時のそれと等しい。

柚子が文蕓部部室の扉を叩いたのは、ちょうど詩乃が、達を一人堪能している時だった。っていいですか、という聲。詩乃は、その主がすぐに柚子だとわかった。

「どうぞ」

いつもより大きい聲だなぁと思いながら、柚子は扉を開けて部屋にった。

「いやぁ、雨だねぇ」

開口一番骨な話題作りをする柚子に、詩乃は不意を突かれて小さく笑った。部室にまでやってきてそれは無理があるだろうと思ったのだ。とはいえ、柚子がここに來る理由が、詩乃にはまだ全くわからない。単に面白がっているだけ、というのが、今のところ詩乃の中では最も信憑の高い説だった。

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