《星の海で遊ばせて》リトマス紙(4)

「毎日雨ならいいんだけど」

柚子は、詩乃の詩乃らしい返しに、思わず顔が綻んでしまう。晝休みが終わるまであと五分。せめてあと六分、と思う。

「雨、好きなの?」

「うん」

「そうなんだぁ」

柚子は、ガラス越しに雨を眺めて、それから言った。

「落ち著くよね」

「うん」

詩乃は、テーブル橫に放置されているパイプ椅子に腰かけた。パイプ椅子はもう一つあり、柚子は詩乃のあとに続いて、それに座った。そこでふと、柚子は詩乃の持っているプリントに気づいた。

「それ、なぁに?」

「うん……短編」

「え、出來たの!?」

「試し印刷だよ。まずこれで読んでみて、改稿して――まぁでも、つまらなかったらボツかな」

「すごい! 読んでもいい?」

座ったと思ったら、すぐに立ち上がって、柚子は前のめりに詩乃に迫る。詩乃は、どうしようかと考えた。未完のものを他人に見せるのは、正直なところ、嫌だった。しかし、題材をくれたのは、新見さんだ。題材が無ければ、きっと今頃、まだパソコンの前でくだけで、一行も、下手をしたら一文字も、書けていなかったかもしれない。

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そしてもう一つ、詩乃は、〈貓〉の短編が書けたら、最初に見せるのは新見さんにしようと、心の中で決めていた。新見さんの「読んでみたい」というのは社辭令に過ぎないのだろうけど、それでも、自分にちょっとでも興味を持ってくれたのだから、それについては謝を伝えたい。詩乃はそう思っていた。

「ちょっと待ってね」

詩乃はそう言うと、PCデスクまで行き、マウスを作した。すると再び印刷機がき出した。新たに十枚の印刷が終わると、詩乃はホッチキスでそれをまとめ、柚子に渡した。まだ溫かい印刷用紙をけ取った柚子は、その用紙の仄かな溫かさが、手を伝っての奧にまで広がってゆくような気がした。

「読んで、いいの?」

「うん。あ、でも、たぶん誤字字あると思うから、そしたら――」

と、詩乃はパソコン橫のペン立てからノック式の赤ボールペンを摘まみ取り、柚子に差し出した。

「これで印付けておいてくれると嬉しいかな。あとで直せるから」

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「わかった」

柚子は赤ペンをけ取った。

丁度その時、チャイムが鳴った。あっと、柚子は小さく聲を上げる。詩乃は天井のあたりを見上げ、それから、パソコン機に向かった。

「戻らないとね」

はにかむような苦笑いを浮かべながら、柚子が言った。

しかし詩乃は、戻る気は無かった。五時間目、六時間目は欠席すると、さっきホッチキスを閉じた瞬間に決めていた。

「授業は休むよ」

さらりと詩乃は言った。

「え? どうして?」

「今日中に完させたいんだ」

「放課後は?」

「今が大事だと思う」

あぁ、やっぱり水上君は面白いなと、柚子は思った。その面白さというのは、おもちゃが提供する面白さではない。映畫や絵畫を見た時に思う、面白い、というのに近い、そういう面白さだ。水上君の世界では、きっと、私や他の生徒が絶対だと思っている常識――例えば校則や友達関係のルールなんかは、ないのだろう。そんな世界に、自分も行ってみたいと、柚子は思った。

柚子は、ドアノブに出しかけた手を引っ込め、再びパイプ椅子に座った。

詩乃は眉を顰め、柚子に言った。

「授業、始まっちゃうよ?」

柚子はふふんと得意げな笑みを浮かべて答えた。

「これを読む方が大事なんです」

「今でいいの?」

「今じゃないと」

詩乃はそれを聞いた瞬間、誤魔化しようのないの高鳴りを覚えた。

六月末に予定されていた育祭は、大雨による二度の延期を経て、七月の第一日曜日に、ついに開催されることになった。三度目の正直とばかり、當日の天気は快晴。蟬が気兼ねなく聲を出せる真夏日となった。人工芝のグランドに照り付ける太はすさまじく、出しと出しの隙をって、スプリンクラーがびしびしとグランド中に水を撒く。

『吐き気やめまい、強い疲労などのある方は、我慢せず木や教室など、風通しが良く、直の當たらない場所で休憩をとるようにしてください。各校舎一階は開放していますので、気分の悪い方はどなたでも、るようにしてください。各教室にはスポーツドリンクが配布されているので、必要な方は、飲むようにしてください。また、気分の悪そうな人を見かけたら、放置せず、互いに助け合うよう、よろしくお願いします。その他健康上の問題がある場合は、グランド中央、本部橫の救護テントまたは、SL棟一階の保健室までお越しください。本日は大変気溫が高くなっています。熱中癥に気を付けながらの競技、観戦をお願いいたします』

グランド中央の本部の橫には救護テントが敷設されている。ベージュをした大きめのハーフテントで、中は大人五人ほどが橫になれるほどの広いスペースがある。NASAで開発されたという特殊な素材を使っているため、テントは二十度を超えず、しかも、風通しが良い。

救護テントの長いひさしの下には機が置かれ、その機には放送マイクが乗っかっている。その放送マイクの前には、詩乃が座っていた。後ろにはサングラスをかけたグラマーな白人須藤教諭が座っている。保健委員の生徒の殆どは、時間を割り振られて、グランド外を救護パトロールしているが、詩乃と數名の生徒だけは、救護テントと保健室に専屬で配置されている。詩乃を救護テント専屬にしたのは須藤教諭だった。朝からすでに十人近い生徒が、軽い熱中癥の癥狀で救護テントに運ばれてきていたが、詩乃の働きによって、どの生徒も三十分も休むと、すっかり良くなってテントを出ていった。生徒以外の患者は須藤教諭がすべて擔當して、そっちも重傷者は出ていない。

「私の人選に狂いは無かったわね」

詩乃が校放送を終えると、須藤教諭はにやりと笑みを浮かべてそう言った。保健委員會の校放送の文面を考えたのは、実は詩乃だった。毎年放送しているテンプレートの文面を渡すと、詩乃はそれの要點をしっかり拾い上げながら、自分の放送しやすい形にそれを変えてしまった。この子は、できるわねと、須藤教諭は掘り出しを見つけたような気分で、機嫌が良かった。

「水上君、お晝は?」

「食ないです」

「まさか……熱中癥?」

「軽い夏バテだと思います」

それは困ったわね、と須藤教諭は立ち上がり、クーラーボックスの蓋を開けた。

「點滴打つ?」

「う、打ちません!」

気軽に點滴が打てるほど、詩乃は注慣れしてはいなかった。須藤教諭は、殘念そうにクーラーボックスを閉じる。

そこへ、柚子と紗枝がやってきた。詩乃は登校すると直接保健室に行き、そこに荷を置いて保健委員の仕事にってしまったため、朝教室で二人と顔を合わせることはなかった。柚子は生徒や観客の人ごみの中から詩乃を探そうとしたが、とうとう午前中は見つからず、諦めかけていた。そんな時、救護テントからの放送が流れてきたのだ。

「ヤッホー、水上」

最初に詩乃に聲をかけたのは、紗枝だった。渡り廊下で話して以來、紗枝の詩乃に対する態度は、かなり化していた。一つには、詩乃がそんなに悪い人間じゃないとその時にわかったことが理由である。そしてもう一つは、柚子が本気でをしているらしい男子だから、であった。そのことについては未だにれがたいと思っている紗枝であったが、半分くらいはもう、諦めている。

「放送聞いたよ」

紗枝に遅れてそう言ったのは、柚子である。

「あぁ……」

詩乃にとって、放送は別に特別なことではなかった。マイクに向かって必要なことを言っただけで、それ以外のは無い。それよりも今は、こんな時に柚子と會ってしまった事の方が、詩乃にとっては重大事だった。今は夏バテのせいで頭がぼんやりして、目もちゃんと明いていない。そんな姿は、柚子には見せたくなかった。

「ずっとここにいたの?」

「うん」

詩乃が答えると、その後ろから、須藤教諭が付け加えた。

「水上君朝からよく働いてくれてるのよー。私大助かりよ」

「よっ、保健委員の鑑!」

「何それ……」

よくわからない紗枝のおだてに、詩乃は辛うじて返事を返す。

「水上君、お晝は、もう食べた?」

食べてなければ一緒に食べない? お弁當、作ってきたんだ。柚子はそう言おうとした。しかし詩乃の答えは、予期しないものだった。

「食無くて……」

そう言って機に突っ伏する詩乃。

ガーンと、ショックをける柚子。しかし柚子は、はっとした。目の前の詩乃は、すごく合が悪そうだ。目にも、いつものような力が無い。も華奢で顔もポーカーフェイスだが、詩乃の目にはいつも、妙な力強さがある。しかし今は、それがない。お弁當を食べてほしいと、自分の都合を考えるあまり、水上君のことが全然見えていなかったと、柚子は反省する。

「大丈夫?」

柚子は、気を取り直して、詩乃に言葉をかけた。

「うん……」

明らかに元気のなさそうな聲で詩乃は返事をする。

「でも水上、ちょっとは食べた方が――」

「食べたくない時は、あんまり無理に食べない方がいいもんね」

紗枝の言葉を遮るようにして、柚子が言った。須藤教諭は、サングラスを傾けた。

「柚子、いいの?」

「うん」

こそこそと、柚子と紗枝は小聲でやり取りをする。

須藤教諭が、一緒にここで食べたらと提案しようと口を開きかけた時、男子生徒の聲が柚子と紗枝にかかった。

「おー、いたいた。なぁ、一緒に晝食べね?」

短髪で、程よく格の良い男子生徒――川野と、その連れが他二人。柚子と紗枝は顔を見合わせた。ほうっと、須藤教諭はため息をつき、張りのある聲で言った。

「ほら、テントの前でたむろしない。行った行った」

須藤教諭に追い払われるような形で、柚子と紗枝、そして男子トリオは救護テントを離れていった。五人が離れていく様子を、詩乃はぼんやりと見ていた。柚子の白Tシャツの背中、その隣に並ぶ、格の良い同級生。詩乃は目を閉じた。

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