《星の海で遊ばせて》ためらう風鳥(2)
夏休みに突して三週間が経った。
詩乃は、ワンルームの自宅で、パソコンを前に思い切りをばしていた。次の短編のプロット作りがひと段落したところだった。
実は、小説の方は、育祭からこの一月ちょっとの間に、四編も完させることができていた。ほとんど、一週間に一話ペース。自分でも驚くくらいに、詩乃は調子が良かった。〈貓〉の短編と合わせるとすでに五編完したことになる。この時期にここまでノルマを達できていれば、文化祭の部誌の心配はもう、しなくて良いだろう。
しかし、小説の進みは調子の良い詩乃だったが、そのことで神が安定しているわけでもなかった。むしろ、神的に不安定になってからのほうが、調子が良かった。全ては、育祭のあの瞬間――新見さんが知らない男子と踴っていたのを見てからだ。あれが、神的な安定を破壊する一撃であり、創作活のトリガーでもあった。
わかっていた。新見さんは人気者だ。あれだけ格も良くて、顔もスタイルも良ければ、男なんて選び放題だろう。たぶん自分なんかは、十ストックある男のうちの一つでしかないか、あるいは、おもちゃのように思われていて、ストックホルダーにすらっていなかったかもしれない。
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分かっていたことだけど、辛いものは辛い。
ペアダンスだからって、あんなに著することないじゃないか。まるで、見せつけるように。いや、まぁ、ダンスは見せつけるものなのかもしれないけど。
「はぁああっ!」
び聲のようなため息をつく。
もう何度この雄たけびを上げたことか。
恥ずかしいやら、格好悪いやら、思い出すと嫌になる。新見さんは、もしかして、自分に気があるのでは、なんて思っていた。あぁ、なんという悲しい勘違い。モテない男の質だろうか。これだからだとか、人のというのは信用がならない。小説に出てくる人のはロジカルでわかりやすいのに、一歩本の外に出れば、そこにいる人間の心というのは、本當にわからない。自信満々に、それを捕まえたと思うことは多いのに、実際は、何も捕まえていないことばかりだ。
詩乃は、小さく息を吐いた。
見っともないなぁと、顔を覆う。薔薇を優に送って、その優が驚く顔を見て、それで満足している蕓家。そんな蕓家になりたいなぁなんて思いながら、自分の態度ときたらどうだろうか。新見さんから逃げ回るようにして。まぁ、そんなことしたって、新見さんがどうこう思うことはないだろうけど、蕓家なら蕓家らしく、自分の一旦好きと決めた子には、見ているだけで幸せというような謙虛さと慎みを持つべきじゃないのか。
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あぁ、自分はなんての塊なのだろう。
新見さんが、他の男を好きだから、何だというんだ。自分が何番だろうが、羽蟲程度にしか思われていなかったとしても、それが何だというのだろう。それで自分の、新見さんへの思いが変わるとでもいうのか。
詩乃は、両手で髪をぐしゃぐしゃにした。それから、とんとんと、手をグーにして、自分のの前を貧乏ゆすりの細かいリズムで叩く。
だから、これだから、新見さんに近づくのは怖かったのだと、詩乃は今更後悔した。同じ班になって、聲をかけられて。いつもそうだ。ちょっと可い子、そして、自分のことを理解してくれるかもしれない子がいると、すぐに気持ちをかしてしまう。だからダメなんだ。それでうまくいった試しはないじゃないか。だから、最初から関わりたくなかったのに。
しかし、もう関わってしまった、隨分と二人の時間を過ごしてしまった。新見さんにとっては道草にもならないような暇つぶしだったかもしれないけど、自分にとってたぶん、一生の思い出になるだろうという、つまり、永遠に近いような長い時間だった。そして、好きになってしまった。覆水盆に返らず――好きになったら、あとはもう、どこまでも好きでいるしかない。
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「嫌だなぁ……」
詩乃は呟いた。
好きでいることは慘めではない。でも、葉わないを見上げている姿は、慘めだ。そしてもっと慘めなのは、見上げているうちに、自分もそこに行けるのではないかと思ってしまうことだ。もっと潔い格になりたかった。さっぱり諦めるか、葉わないと心から理解しながら好きでいるか、手にれるために泥まみれでもがくか――そういういづれかの潔さ、男っぽさが自分にあれば、もうし違う生き方もあったのではないかと思う。
でも、それでも良いこともあった。
この出來上がった短編五つ。これは、この慘めさと、失を対価にもぎ取った、いうなれば寶だ。発力が無ければ、きっと書けなかった。これを書くためには、確かに、新見さんからの一撃は必要だった。辛いけれど、そのおかげで、短編ができたのだ。そういう因果だったと、決めつけてしまおう。
詩乃は、時計を確認した。
六時。外を見れば、朝とも夜ともつかない、微かに明るい住宅の景があった。
今は一、朝なのだろうか、夕方なのだろうか。
「もう、なんでもいいや……」
詩乃はそう呟くと、椅子から転げ落ちるようにして、出しっぱなしの布団に倒れこんだ。明日――いや、今日かもしれないけど……完した短編を、學校に、印刷、しに行こう。印刷代は、馬鹿に、ならないから――。
そこで、詩乃は意識を手放した。
八月第二週の火曜日、夕方の出來事だった。
九月の前記テストのための講習會が始まった。
実技科目以外の全教科の講習が行われ、生徒は、好きな講習會に、勝手に出る。講習の一コマは大抵二部構で、授業テーマの講義と、その後は自習というのが流れになっている。自習時間にわからない部分を直接、専科の教員に聞きに行けるのが、この講習の最大の強みである。
日本史、生、古典と、柚子はじゅんぐり、一日二つから三つ、講習をけるようにしていた。柚子の不得意な三科目だった。しかし、講習で苦手分野を克服する、ということの他に、柚子にはもう一つ、講習に參加する目的があった。みは薄いかもしれないが、學校にいれば、もしかすると、何かの偶然で、水上君に會えるかもしれない。その希が、柚子を學校に來させていた。
會ったら何て言おうか、というのはまだ決まっていなかった。
でもとりあえず、會わなければ何も始まらない。
講習會が始まって數日、講習會は講習會として、柚子はしっかり、テストのための勉強に取り組んでいた。一緒に出られるところは、紗枝と一緒に出た。しかしそんな紗枝も、実は難しい立場にいた。
夏にる前、川野から柚子と復縁したいから協力してくれと言われていた。柚子の気持ちを知っている紗枝としては、答えは「ノー」だった。しかし、そうはっきり言えない事があった。柚子のはたぶん、周りが騒ぐと上手くいかないのではないかと、紗枝はそう思っていた。思いのほか柚子はに関してポンコツだし、水上は水上で、意気地なしだ。そんなところに、元カレという看板を引っ提げて、他の男子が登壇したら、間違いなく柚子のは、上手く進まない、紗枝にはそんな確信があった。だからといって、川野に下手に「協力しない」と言えばそれは、柚子に好きな男子がいるという報を、川野には與えることになりかねない。あいつは々しい男で、も小さいから、柚子と水上の仲を知ったら、平気でそこに割り込んで、壊しにかかりそうだ。
勉強嫌いの川野が、今年は真面目に講習會に出てきているのは、柚子に會うためだ。そのことを知っている紗枝は、なお複雑である。これが、もし柚子にその気があるのなら、もちろん応援していた。しかし紗枝は、柚子の心の行方を知っている。
窓の外からちょくちょく外の道を確認する柚子、そんな柚子を、教室の真ん中あたりからそれとなく見ている川野。
勘弁してよと、紗枝は思うのだった。
古典の神原が熱く語っている六條息所と源氏の掛け合いのことなんて、二人とも聞いちゃいない。テストにこんなコアな問題出そうとするなよ、という容だが、それはともかく、二人のことが気になって、紗枝もあまり、講義の容は頭にっていなかった。
そんなことなど知らない神原教諭は、一人靜かな興を抱えつつ講義を進める。授業の主目的は古典文法の総復習なので、単語の意味や活用を問うような発問を投げかけながら講義は進んでいく。
「あっ!」
そんな時、突然、柚子が聲を出した。
何の脈絡もなく、突然聲を上げたので、皆柚子に注目し、神原教諭も言葉を止めて、眼鏡の奧から柚子を見た。
「――新見さん、この景が思い浮かびましたか?」
神原教諭が、名指しで柚子に質問した。
「えと、あの……」
「秋ごろの夕方、夕日が、この時にはもう、沈んだ後ですね。病床の、昔の人が、幾帳の向こうにいる。幾帳の中から、明かりが差している。新見さんは、人の看病をしたことがありますか」
「い、いえ、ありません……」
柚子は、顔を赤くして答える。紗枝は柚子の後ろにいたが、その表は、座っている後ろ姿だけでもわかった。窓の外に何があったのか、紗枝は気になって見下ろしてみた。
生徒が一人、CL棟の方に向かって歩いている。
その後ろ姿には、紗枝も見覚えがあった。水上詩乃、いかにもそれらしい男子生徒だ。
「病気の人を見て、しかった頃の彼を、そこに重ねる心境、わかりますかね」
神原教諭が、遠い目で教室の天井あたりを見やる。すでに六十をとうに過ぎた老教師である。白髪に四角い眼鏡、男子生徒は「じじぃ」などとで呼んでいるが、この神原教諭の古典の講義は、テスト勉強という以上に、子生徒にはかな人気があった。
「私はこの時の息所の、〈まことに、淺からずなむ〉が、まだ読み取れないでいます。これは、新見さん、どういう意味か分かりますか?」
柚子は、授業初めに配られたプリントの該當部分を慌てて探した。〈まことに〉は、〈本當に〉と訳して問題なさそうだ。〈淺からずなむ〉――〈淺からず〉は〈淺くない〉で、まぁ、大丈夫そうだ。でもこの〈なむ〉は一何者だろうか。助詞、ということしかわからない。柚子は、自分でも文法が苦手なのを知っていた。
あぁ、水上君っぽい後ろ姿を見て思わず聲を出してしまったばっかりに、こんな――。
しかし柚子は、何にせよ一応答えようと思った。〈なむ〉が何なのかわからないが、とりあえず、雰囲気で訳してみる。
「〈本當に、淺くないようですね〉、なんて、どうでしょう……」
全く自信のない解答だったが、神原教諭は、靜かに頷いた。
「新見さん、この言葉には、皮めいたものがあったと思いますか?」
「え?」
思いもよらぬ質問に、柚子は首を傾げる。
それは他の生徒も同じだった。てっきり、文法的なことの解説が始まるものだと思っていたのだ。
「それが私は、ずっとわからないのです。淺からずなむ……」
うーんと、教壇の上で悩んでしまう神原教諭。
なんかし、水上君に似ているなと、柚子は思ってしまった。水上君が年を取ったら、こういう風になるのかもしれない。そんなことを考えて、柚子は楽しい気持ちになった。
後ろから、紗枝が柚子の肩を叩いた。
「行って來たら?」
「え、でも――」
「違ったら帰ってきなよ。出てったって、別に何も言われないから」
小聲で、紗枝と柚子はそんなやり取りをする。
柚子は、紗枝に背中を押されて、しずかに席を立ち、教室の後ろから部屋を出た。神原教諭は、柚子の出ていくのを見屆けたあと、皆に言った。
「折角なので、ここを考えてみましょう。〈淺からずなむ〉を品詞分けしてください」
神原教諭の指示で、皆一斉に、ノートやプリントに文字を書き始める。川野は、柚子の出ていった教室の後ろ扉を悲しそうに見ている。ドンマイ、川野――紗枝はそう思いながら、その間の抜けた表が面白くて、一人くすくす笑ってしまった。
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