《星の海で遊ばせて》寄り添う二羽(4)
柚子はそう言うと、晝休みの終わりを待たず、教室を後にした。職員実で擔任から詩乃の住所を聞いて、そのまま駅に向かう。ホームで電車を待っている間に、詩乃に『心配なのでこれから伺います』のメッセージをれる。程なくして、銀に緑のラインのった電車がってきた。柚子は、深呼吸をして乗り込んだ。
ポワンポワンした発車メロディーが、二回ほど繰り返される。
――四番線、ドアが閉まります。
短い放送を合図にして、扉が閉まる。
もう後戻りはできないのを、柚子はじた。電車が進み始めてから、柚子は座席に腰を下ろした。二つの駅を挾んで、三つ目の停車駅が北千住――詩乃の一人暮らしをしている家の最寄り駅である。スマホのナビゲーションアプリを立ち上げて、それを頼りに歩き始める。
改札を西口の駅前デッキに出て、バスターミナルの上を橫斷し、階段を降りる。徒歩四分という表示を見て、柚子はつばを飲み込んだ。迷わなければ、四分後には水上君の家に著いている。そのことが、まだ信じられない柚子だった。
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自転車がすれ違えるかどうかという路地裏の細長い道を通り、そこよりはし広い、車一臺が辛うじて通れるほどの道に出る。その道路を一分も歩かないうちに、スマホの電子アナウンスが、『目的地に到著しました。案を終了します』と告げた。
道の曲がり角、二階建ての安アパート。
建一階のベランダには背の低い手すり格子があり、その前一メートルの空間には、もはや「庭」と呼ぶにはあまりに雑で小さな、カタバミの小群生地がある。その気になれば、道から數歩でベランダに侵できてしまうような、柚子には信じられない騒な件である。その一階の二部屋あるうちの一部屋が、詩乃の家である。
柚子は建にり、101號室を探した。探す、と言っても右か左の部屋しかない。詩乃の部屋は向かって右手だった。いかにも薄そうな扉の『101』の文字。その扉の左側、黒いインターホンの上の表札れに、『水上』という筆文字の書かれた薄い用紙が挾まっている。
――ここだ。
柚子は、インターホンを鳴らした。
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小さい音が、扉の向こうからも聞こえてくる。
しかし、反応が無い。
再び、押してみる。それから一分ほど待ったが、反応は無かった。中で人がくような気配すらない。柚子はもう一度インターホンを押して、ノックもしてみた。
「新見です。水上君、いますか?」
文蕓部の部室にるときのように、聲も掛ける。
しかし、これもはやり、反応が無かった。
留守かなと思い、詩乃はドアノブを回して、扉をし引いてみた。これで鍵がかかっていたら留守だから、帰ろうと思った。留守ということは、きっと風邪ではないだろう。風邪じゃないのなら、心配いらない。會いたいけれど、風邪じゃないなら――。
扉が、開いた。
半分まで開ける前に、開くことのみを確認した柚子は、あわてて扉を閉めた。
「え……これ……」
どういうことだろうかと、柚子は考えた。
インターホンにも、ノックにも、聲にも反応が無い。部屋の中で何かがくような音も気配もない。それなのに、扉は開いている。柚子は、妙な騒ぎを覚えて、紗枝に電話をかけてみた。
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紗枝はちょうど、五時間目の授業中だったが、柚子からの電話に気づいて、授業を抜け出し、二階の自販機橫まで走ると、柚子からの電話に出た。
『柚子、何かあった?』
「どうしよう、今水上君の家の前なんだけど、呼んでも出てこなくて。でも、扉は鍵かかってないの。どう思う?」
『それ、まずいんじゃないの……?』
「そうだよね……」
『っていいと思うよ』
「うん、ありがと」
柚子はそう言うと、電話を切って、一度深呼吸すると、再びドアノブを回し、玄関の扉を開けた。短い廊下の先にある開き戸は、微かに開いている。玄関にった柚子は、もう一度部屋の中に聲をかけてみる。
「水上くーん、新見です。いますか?」
しんと靜まり返っている。
反応が無い。
柚子は靴をいで、そおっと廊下を進んだ。扉の前で數瞬だけ躊躇ったが、ここまで來て後には引けないと、柚子は軽く扉を押した。扉は、ゆっくりと開いていった。正面右手には布団、ここには誰もいない。そして扉が左方へ開いてゆき、部屋正面がになる。
扉の前にはラック型のPCデスクと、その上にはパソコンモニター。そしてそのモニター越しに、詩乃がいた。デスクチェアーに座り、顔は天井を向いている。
「水上君!?」
ただ眠っているにしては様子がおかしい。
柚子はPCデスクの右側から回り込み、屈みながら、詩乃のと膝を揺すった。
「ふぅー……」
詩乃は、薄っすらと目を開けた。
「水上君、大丈夫? 熱あるの?」
詩乃は、目の前に柚子がいるのに気づき、腫れぼったい目を開いた。
なぜここに新見さんがいるのだろうか、という疑問が詩乃の頭にぼんやり浮かび上がる。しかし熱のせいで頭が回らず、聲を出すのも辛いので、はぁ、はぁと、深く、い息遣いの隙間から、詩乃はうめき聲のように「うん」と返事をした。
「大丈夫? どこか痛い?」
「熱が……」
「ける? 布団行こう?」
「うん……」
詩乃は背もたれから頭と背中を離した。しかし、嘔吐に苛まれ、そのまま上半を前に折って、機の端に突っ伏した。柚子は、詩乃の背中をさすった。
「あぁ……」
吐き気と熱の辛さに、詩乃の口から弱弱しいきがれる。
「ゆっくりでいいよ、大丈夫だから」
詩乃は腹を抱えるようにしてゆっくり立ち上がり、そのまま掛け布団の上に両ひざをついて蹲った。柚子はその橫にちょこんと屈み、詩乃の背中に手を置いた。
「気持ち悪い?」
「うん……水……」
「水? 持ってこようか?」
「うん……」
柚子は臺所の流しでコップに水をれ、詩乃のもとに戻ってきた。詩乃はコップをけ取ると、ぐいっと一気に水を飲み干した。それから背中を丸めて立ち上がり、トイレにった。詩乃は、今飲んだばかりの水を吐き出した。昨日の夜から、胃もすっからかんになるほど何度も吐いたので、出てくるのは、水だけである。トイレットペーパーで口を拭き、水と一緒に流す。
一度吐くと、吐き気はだいぶましになって、意識もしはっきりする。
詩乃が部屋に戻った時、柚子は枕元の布団の脇にぺたんと座っていた。詩乃は枕の反対側に、崩れるように座った。
「寢た方がいいよ、はい」
柚子は立ち上がりながら、布団の上でぐしゃぐしゃになった掛け布団を抱えてどかした。詩乃は、言われるがまま、こてんと枕に頭を預けた。柚子は詩乃の足元に移しながら、掛け布団を整えて、詩乃にかけた。
詩乃は息を吐き、心配そうな柚子の顔を見上げた。
「風邪治ったの?」
思いのほかしっかりした詩乃の低い聲に、柚子はドキリとしてしまう。
「うん。水上君のおかげで」
「ゼリーが効いた?」
「うん。ゼリーが効いた」
柚子は優しく微笑む。詩乃もそれを見て、自然と目元が緩む。
新見さんにとっての特別が、自分になったらいいのになと、詩乃は思った。でも、そんな幸せは想像できない。これは、昨日お見舞いに行ったことへの義理だ。新見さんは義理堅い。知っている。
詩乃は目を閉じて、言った。
「學級委員長も、大変だね」
「え?」
意外な言葉をかけられて、柚子は驚いてしまった。學級委員長であることが、今のこの狀況と、何の関係があるのだろう? しかし詩乃は、それ以上は何も言わなかった。學級委員長としての役割としてここに來たんでしょと、それくらいは、吐き気がマシになった今なら聞くには聞けたが、その言葉を肯定されたらと思うと、詩乃は怖くて、その質問を言葉には出せなかった。今新見さんにそんな冷たい反応をされたら、自分はどうにも、立ち直れそうにない。
「楽になったから、もう大丈夫だよ」
目をつむりながら、詩乃が言った。
詩乃の聲の中に、柚子は微かな諦めのようなものをじた。今回が初めてじゃない。水上君の言葉――聲の中には、ほとんどいつも、それがある。一瞬、打ち解けたような気がしても、次の瞬間には、遠くへ行ってしまう。心を隠してしまう。
柚子はそれが悔しくて、ぎゅっと手を握った。
水上君は、口では大丈夫なんて言っているけど、そんなわけはない。こんな狀態で、どうやって食事を摂るのだろうか、作るのだろうか。辛いことをどうやって、紛らわせるのだろうか。
柚子は、橫たわる詩乃の右手を両手で握った。
「無理しないで」
柚子のやわらかい聲。しかしそこには、有無を言わさぬ妙な迫力があった。新見さんのこんな聲は初めてだ。今のは、叱られたのかもしれない……。
詩乃は靜かに息を吐いて、そのまま、寢息を立てて眠ってしまった。柚子は、詩乃が眠った後も三十分くらいはそのまま手を握っていた。
そうしてふと、柚子は傍らに放ったまま、その存在を忘れていた自分のスマホを見た。
ラインメッセージが、たくさんってる。――紗枝からだった。慌てて柚子は、メッセージを返して狀況を伝えた。心配するから連絡しなさいと、いつものように叱られる。ごめんなさいのスタンプを探しながら、柚子はふと、詩乃のことを考えた。私には紗枝ちゃんがいる。こうやって、気にかけて連絡をくれる。でも、水上君はどうなんだろう。そういう友達が、いるのだろうか。
柚子は一度詩乃の家を出て、近くのコンビニでゼリーやスポーツ飲料水の買い出しに向かった。その帰り道、ビニール袋を片手に歩きながら、この狀況にわくわくしている自分がいるのに柚子は気づいた。
柚子は、家族以外の人の看病はしたことがなかった。男の子の家に上がるのは初めてではないが、こんな風に、完全に二人きりということは今まで経験したことが無い。しかも、まだ學校は授業中だ。だからこれは、いわゆる、ズル休みみたいなもの。授業を休んで同級生の男の子の家に上がり込んでいる、高二子。柚子にしてみれば、これは立派な不良行為だった。
誰も知らない路地を通って、誰にも気にも留められず、水上君の一人暮らしの家に戻ってくる。誰も、ここに水上君が住んでいることを知らない。通りをすれ違った人たちも、學校の生徒も、先生も、知っているとしても住所くらいだ。世界の片隅でものすごい兵を作っているような気分になってくる。背徳の興が、罪悪を圧倒的に押し込んでいる。
しんとした詩乃の部屋に戻ってきた柚子は、ゼリーや飲料水を冷蔵庫にれて、寢ている詩乃の傍らに座り、その寢顔を覗き込んだ。文蕓部の部室前の廊下で、寢ている詩乃のを奪った記憶が、柚子の脳裏に浮かんでくる。そしてあの時の、雷に打たれたような覚が蘇ってくる。
6/15発売【書籍化】番外編2本完結「わたしと隣の和菓子さま」(舊「和菓子さま 剣士さま」)
「わたしと隣の和菓子さま」は、アルファポリスさま主催、第三回青春小説大賞の読者賞受賞作品「和菓子さま 剣士さま」を改題した作品です。 2022年6月15日(偶然にも6/16の「和菓子の日」の前日)に、KADOKAWA富士見L文庫さまより刊行されました。書籍版は、戀愛風味を足して大幅に加筆修正を行いました。 書籍発行記念で番外編を2本掲載します。 1本目「青い柿、青い心」(3話完結) 2本目「嵐を呼ぶ水無月」(全7話完結) ♢♢♢ 高三でようやく青春することができた慶子さんと和菓子屋の若旦那(?)との未知との遭遇な物語。 物語は三月から始まり、ひと月ごとの読み切りで進んで行きます。 和菓子に魅せられた女の子の目を通して、季節の和菓子(上生菓子)も出てきます。 また、剣道部での様子や、そこでの仲間とのあれこれも展開していきます。 番外編の主人公は、慶子とその周りの人たちです。 ※2021年4月 「前に進む、鈴木學君の三月」(鈴木學) ※2021年5月 「ハザクラ、ハザクラ、桜餅」(柏木伸二郎 慶子父) ※2021年5月 「餡子嫌いの若鮎」(田中那美 學の実母) ※2021年6月 「青い柿 青い心」(呉田充 學と因縁のある剣道部の先輩) ※2021年6月「嵐を呼ぶ水無月」(慶子の大學生編& 學のミニミニ京都レポート)
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