《星の海で遊ばせて》三歩進んで(2)

川野の顔は、真っ赤になっていた。

立て板に水というよりは、悪口の洪水である。それに飲み込まれて、川野は言い返すこともできなかった。そうなると暴力しかないが、毆ったら、それはそれでプライドが崩れてしまう。

「まぁでも、本當はね……新見さんは自分のことを好きではないし、自分も、新見さんに、川野君の言う、〈好き〉っては持ってないよ。新見さんと自分の関係は、そういうのじゃない。だからといって川野君にチャンスがあるかって言えば、たぶんノーチャンスだろうけど」

川野は、侮辱をけたのはわかったが、一度にいろんな報がりすぎて、頭が追いつかなかった。もうしわかりやすく、短い啖呵だったら、川野はこの場で詩乃に毆りかかっていたことだろう。

詩乃は、鈍い反応しか示さない川野の様子を見て、ため息をついた。

もうし食い下がってきてほしかったと、がっかりしていた。怒った拍子に、自分の思いもよらないような価値観や言葉を出してくれるのではないか、という期待も、実はしていた。しかし蓋を開けてみれば、一方的に言われ続け、反論も態度も月並みで、何も面白くない。詩乃はそれで、もう川野とのやり取りに飽きてしまった。

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「用が済んだら出てってね」

川野は、キッと詩乃を睨みつけ、何も言わずにそのまま、部室を出ていった。やっと扉を閉めてくれたかと、詩乃は満足し、PCモニターに視線を戻した。

十月一週目は六時間目の後、連日短いホームルームがった。

クラスの出しを決めるための會議である。學級委員長の柚子が司會進行を務め、文化祭実行委員、書記が前に出て會議を進行する。それを連日やるのには、それなりの理由があった。茶ノ原高校では、文化祭に対してクラスがどのように參加するのか、生徒が決められる。まず、クラスの出しをやるか、やらないか。そしてやる場合でも、他のクラスと合同でやるのか、単獨でやるのか。當然、出し容も、かなり広範囲に決めることができる。

二年A組はと言うと、週末の金曜日までに、たこ焼きの店をクラス単獨でやることまで決まっていた。ホームルームの様子を座って見ているだけの大谷教諭も心するほど、A組はまとまっていた。しかしここに來て、會議は問題にぶち當たった。

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「誰か、やれる人いませんか?」

柚子が、クラス全に呼びかける。

決めようとしているのは、〈たこ焼きリーダー〉なる役職である。早い話が、このクラス企畫の現場責任者だ。文化祭実行委員だけでは回し切らないという判斷で、この役職が置かれることになった。しかし、誰も立候補者がいない。なぜかというと、クラスの生徒の殆どが、部活にっているからだ。部活は部活の出しがある。運部でさえ、茶ノ原高校では、文化祭で出しを出す。収益を部費として使えるので、どの部活も必死なのだ。

――どうしよう。

柚子は、困ってしまった。ダンス部は文化祭の二日間は大忙しだ。毎年、ダンス部のステージは、この文化祭の見どころの一つである。當日は當然として、すでに始まっている文化祭に向けての部の練習を休むわけにはいかない。今年二年生の柚子は、後輩を引っ張る、教えるという仕事もある。無理に引きけてしまったら、結果的に、ダンス部にも、そしてクラスにも迷が掛かってしまう。

「いなければやります」

ホームルームが膠著狀態にりかけた時、突然、詩乃がそう言って手を上げた。

皆、驚いて詩乃に注目する。しかし一番驚いたのは、柚子だった。水上君は目立つのが嫌い――そう思っていたのだ。それなのにどうして……。

そう考えて、柚子はが苦しくなった。

きっと、私のためだ。私が困っているから。

しかし柚子は、數日前の放課後、詩乃と川野の舌戦を、文蕓部の部室の前で聞いていた。詩乃に謝りに行こうと部室に行くと、空いた扉から二人のやり取りが聞こえてきたのだ。そのやりとりの細かい所は、柚子はもう覚えていなかった。

たった一言、詩乃の強烈な一言だけが、柚子の心に突き刺さって、今もその傷はふさがらないでいた。『好きっては持ってないよ』――柚子はそれを聞いた瞬間、頭が真っ白になってしまった。真っ暗だったかもしれない。とにかく柚子は、自分は失したんだ、と思ったのだ。

それなのに……私の事を好きじゃないのに、こうやって助けてくれる。嬉しいのに、憎らしい。憎らしいというよりも、とにかく悲しい。水上君の優しさが、私にだけ向ける特別なものだと思いたい。でも、そうじゃない。なぜなら、水上君は、私を好きじゃない。そういうは持ってないと、はっきりそう言っていた。

「――それじゃあ、水上君で、いいですか?」

柚子は、できるだけ自然に、クラス全に訊ねた。

拍手はまばら。水上に任せるのは気が進まない、という雰囲気。

「他が良ければ、好きにしてください」

詩乃は手を下ろしてそう言った。

なんともいえない、嫌な雰囲気がクラスに流れる。もうし言い方があるでしょうがと、紗枝は詩乃に視線を投げるが、詩乃がそれに気づくことはない。しかし詩乃は、空気が読めないがために、場の空気が悪くなるような言い方をしているわけではない。柚子が、困りながら何かを発言するより先に、詩乃が言葉を點け足した。

「やるからには、責任持ちます。自分は文蕓部なんで、みんなみたいにやることないから、當日も、大ここにいられます。部誌を配るだけだから、教室に部誌を置かせてもらえれば、二日とも、ずっと教室いられます。調理の方も、ちゃんとやれるようにしておきます」

皆、詩乃の言葉を聞いたのはほとんど初めてだった。こいつ、言葉喋れたんだと、男子たちは驚く。子も、詩乃の意外な一面を見たような気がして、それなら水上でいいんじゃない、という空気になっていく。

「水上でいいんじゃね?」

男子の一人が言った。

いいよそれで、と誰かが応え、役職決定の拍手が起こる。書記が、黒板に詩乃の名前を書いた。〈たこ焼きリーダー〉が決まったことで、ホームルームはそれ以上長引かずに済んだ。ホームルームの後、詩乃はすぐに文化祭実行委員の近藤悠里のもとに、〈たこ焼きリーダー〉の仕事のことを聞きに行った。悠里の近くには、柚子と書記もいる。

「何すればいいの?」

「あぁ、水上君――」

悠里は、當たり前のように詩乃が話しかけてきたので、思わず警戒して表くした。悠里と詩乃が言葉をわすのは、これが初めてである。

「調理と材料関係かな。何がどれくらい必要とか――」

悠里は、的なことを詩乃に伝える。

詩乃は、顎に手を當てて、容を頭の中で整理した。

「部活、行ってくるね……」

柚子は三人にそう告げると、逃げるように教室を離れた。

――水上君が自分以外のの子と話している。そんなことは、今までに無かった。それにさっき、一度も私を見てくれなかった。

柚子はML棟を出て、育棟のダンス部の部室に行く。九月の最初の頃ははまだ夏の気配が殘っていたが、今はもう、風も草花も寂し気で、空気も秋のに変わっている。秋の空気は冷たく、冷たいだけでなく、乾いてる。夏のあの空気は、じとじとじめじめして良いものではないけれど、今はそれがしいと思う柚子だった。特に九月の――水上君とお散歩をしたときにじたあの空気。気のせいで、草や土の匂いが濃厚だった、あのベンチ。たった三週間前の出來事なのに、その三週間で、そんなに何かが、決定的に変わってしまったのだろうか。

すれ違う生徒の服裝を見て、柚子は悲しくなった。そして、確かに変わってしまったんだと思った。今はもう、誰も彼も、シャツの上にセーターかブレザーを著ている。學校OBのデザイナーがデザインしたという、可いよりもカッコイイ寄りの制服。私立制服コンテストというので優勝したらしい。しかし柚子には、今はもう、その制服は喪服のようにしか映らなかった。もう、諦めなさい――そう言われているような気分になる。

しかし柚子も、詩乃に対する自分の気持ちや、詩乃のことなどをずっと考えているわけにもいかなかった。文化祭に向けて、ダンス部の練習も熱がってきている。後輩に教えながら、自分のダンスも完させていかないといけない。

部室兼更室にり、ダンス部のメンバーと挨拶をわす。

「柚子、どうしたの? 顔悪くない?」

早速、同級生の友人が、柚子にそう聞いてきた。さすがに鋭いと、柚子は思った。紗枝もそうだが、隠そう隠そうとしていても、見抜く友達は見抜く。全員ではないけれど、紗枝とこの子――千代は勘が良い。勘なのか、よく見ているだけなのか。気にかけてくれているという嬉しさと安心、その反面、もっとしっかり隠さなきゃという焦りをじてしまう。

「ちょっと寢不足なんだ」

柚子はそう答えて、著替え始める。

千代は、そんな友人に向かって口をとがらせる。千代からすると、柚子が隠し事をしているのは明らかだった。柚子とは仲が良いけれど、仲良しの奧に踏み込もうとすると、そこには壁がある。二年生に上がってから、その壁をより強くじるようになった。柚子は何かを隠している。でも言わない。今も寢不足ではなくて、何か別のこと――悩みがあるに違いない。ダンスのことなら柚子は言ってくれる。部の事、クラスのこと、誰と誰が喧嘩をしているから仲裁をしたいとか、そういう相談ならしてくれる。だからたぶん別の事――とまではわかっている千代だったが、柚子が話さないのなら、それはそれでしょうがない。しょうがないと思いながらも、千代は、そこに一抹の寂しさと苛立ちを覚えるのだった。

「怪我だけはやめてよね柚子!」

千代はそう言いながら、柚子のスポブラ越しの背中をタッチした。ひゃんっと、可い柚子の反応を背に、千代は部室を出た。

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