《星の海で遊ばせて》名殘の袖(1)

一月八日に冬休みが明けた。

一二年生は通常登校だが、三年生は、大學試が始まるので、三學期は自由登校となる。塾に通う生徒、自宅で勉強をする生徒、學校の自習室にやってくる生徒、勉強會やテスト演習に參加する生徒。中には、浪人すると決めて、最後まで部活に參加する生徒もいる。柚子の場合は、もう進學先が決まっているので、一月からはまた、ダンス部の活に參加するようになった。

詩乃も、始業式の翌週の月曜日に、久しぶりに、文蕓部に顔を出した。

放課後、詩乃が部室にやってくると、部員たちは驚いた様子で詩乃を迎えた。次の部誌についての相談や卒業旅行のことなど、健治や理とはメッセージのやり取りはしていたが、二人も、直接詩乃が部室にやってくるとは思っていなかった。何しろ、週末にはセンター試験がある。そのことを健治が言うと、詩乃は笑いながら応えた。

「センターはけないよ」

國語一教科試験のある二校だけをけると詩乃は皆に言った。

り止めとか、大丈夫なんですか?」

理が健治に続いて質問した。

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らないから」

詩乃が答えると、流石に皆、詩乃の自信に顔を見合わせて、「おぉ」と聲を上げた。

「先輩、コーヒー飲みます?」

「あぁ、うん」

健治が気を利かせて、コーヒーの準備を始める。由奈もそれを手伝う。

詩乃はその間にこっそりと井塚に近寄って、銀のペンを渡した。

「え、なんですか?」

「小説、次巻おめでとう」

井塚は驚いた。

プレゼントというよりも、自分の書いているライトノベルの報を、詩乃がチェックしているとは思っていなかったのだ。ライトノベルのことは、詩乃は今まで、ほとんど話題にすら上げたことがなかった。

「……ありがとうございます」

急なことで、井塚も素直に反応した。

「先輩、俺のラノベ読んでたんですか?」

詩乃は含みのある笑みを浮かべた。

二人のやり取りをこっそり近くで聞いていた花依は、ギクリとした。もしかして先輩、私がネットにあげているBL小説も読んでるのだろうか、と思ったのだ。花依の小説についても、詩乃はほとんどあまり、れたことが無かった。

「あの、先輩もしかして――」

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もごもごと、花依も詩乃に訊ねる。

詩乃は、微笑を浮かべるに止め、自分のPCデスクに向かった。

詩乃はまず、パソコンに殘してある文章ファイルを、持ってきていたメモリーカードに移した。それから、自分と柚子のために使っていたコーヒーセット一式を、皆の使う食れてある食棚に運んだ。PCデスクの橫にくっつけていた機と緑クッションの椅子もそこから離して、プリンター臺の隣に移させた。

「先輩、片付けはまだいいんじゃないですか?」

機周りの整理を始めた詩乃に理が言った。

詩乃は、遠くの風景を眺めるように、理の目の奧を眺めた。

「ここは自分のものじゃないからね」

「そんなことないですよ。その機、先輩の場所じゃないですか」

詩乃は機に目をやった。ペンやメモ帳や小説や雑誌。自分の空間を作ろうとした痕跡。その必死さの、何と痛ましいことだろう。

「もう違うよ」

詩乃はそう言うと、機の上に散らかしていた書籍類をまとめ始めた。

詩乃が機を片付ける様子を見て、理をはじめ、文蕓部の後輩たちは、詩乃の卒業を実するのだった。

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センター試験の終わった翌週、詩乃は柚子に招かれて、柚子の家を訪れた。

お晝時、柚子は當たり前のように、晝食に親子丼を作って詩乃を待っていた。家には柚子の母だけがいて、詩乃はリビングで、柚子の母に挨拶をした。

二人は柚子の部屋で親子丼を食べた。

そしてその後、柚子は詩乃に告げた。

「――やっぱり赤ちゃん、できなかったみたい」

これまでも週ごとに柚子は妊娠検査薬を使っていて、その結果を詩乃に報告していた。一回目、二回目は。そして今回の三回目も、だった。柚子も、には何の変化もなく、二週目に予定通り生理が來ていたので、たぶんできていないだろうとは思っていた。

えへへ、と恥ずかしそうに柚子は笑った。

柚子は、ホッとした気持ちと、殘念な気持ちとがごちゃ混ぜになった不思議なでいた。詩乃も、柚子から報告をけるたびに、それをじていた。

「そっか」

詩乃は短く応えて、深く頷いた。

「詩乃君、殘念?」

そう聞かれて、詩乃は困り笑いを浮かべながら、「両方」とだけ答えた。柚子もそれを聞いて「私も」と笑った。それから柚子は、優しい口調で詩乃に呼びかけた。

「ねぇ、詩乃君」

「どうしたの?」

「何か、困ってることあるんでしょ?」

柚子の問いに、詩乃は黙り込んだ。

柚子は、大晦日、詩乃が自棄になって、危険な行をしていたことをまだしっかり覚えていた。そしてその機が、まだ解消されていないということも。詩乃君が話してくれそうな時まで待とうと柚子はそう決めて、あの日の出來事は、無かったように振る舞っていた。

詩乃も、この期に及んでは誤魔化せないと、頷いた。

「一人で悩まないで。私じゃ、詩乃君の力になれないかもしれないけど、でも……」

「違うんだよ、力になれないとかじゃないんだ」

詩乃は、柚子を見た。

詩乃の瞳は、弱弱しく揺れていた。柚子は詩乃の隣に這い寄って、詩乃を抱きしめた。

「話して」

詩乃は、ほうっと息をつき、それから柚子に告げた。

「借金がある」

「借金?」

「父さんがね」

「どれくらい?」

「二千萬ちょっと」

柚子は、その額に驚いた。家が裕福とはいえ、柚子も、一般的な金銭覚はしっかり持っている。二千萬、それは柚子にとっても、目の回るような金額だった。

「払うかどうか、迷ってた」

「払わなくてもいいの?」

「法的には、その方法もとれるんだ。でも――」

と、詩乃は一旦言葉を切った。

柚子の背中を両手でで、それから続けた。

「今、払うことに決めたよ」

柚子は息を呑んだ。

「でも、悩んでたのはそのことじゃないよ」

「え?」

「新見さんの事なんだ」

柚子の心臓がドキンと鳴った。

しかし柚子は、すぐに気持ちを落ち著かせた。

言いにくいことだから、言えなくて、詩乃君は一人で悩みを抱えてしまったのだ。だから私は、どんなことでも、れる覚悟を持たないといけない。それが悲しいことでも、詩乃君が、自棄を起こして危険な行為に及ぶくらいだったら。

「うん。いいよ、話して」

柚子は、詩乃に先を促した。

詩乃は口を開きかけたが、は震え、聲帯は凍ったようになって、言葉を発することができなかった。詩乃は元を押えた。首を絞められているような覚に陥り、言葉の代わりに、出てきたのは涙だった。

柚子は、詩乃の頭を抱えるように抱いた。

詩乃は、柚子のの中で、首を橫に振った。

借金を返すなら、新見さんとは別れなければいけない。そうしなければ、きっと自分は、新見さんの優しさに甘えてしまう。けれど、新見さんに別れを告げるなんて、そんなことはとてもできない。そんなことは……。

「詩乃君が悩んでるのは、私の事なんだね?」

詩乃は応えなかった。

しかし柚子には分かった。

「私と、別れようと思ってる?」

詩乃は、柚子のの中で靜かになった。

やっぱりそうなんだと、柚子は思った。実のところ、柚子も察しはついていた。私との関係のことで詩乃君がここまで悩むとすれば、それはもう、別れ話くらいしかないだろう。

「お金の事、関係ある?」

詩乃は、今度は頷いた。

そういうことかと、柚子は靜かに納得した。柚子にとっては、難しい推理ではなかった。負わなくても良い借金を負おうとしていることも、そのために別れの選択を取ろうとするところも、いかにも詩乃君らしいと柚子は思った。

「でも私、詩乃君に何があっても、気持ちは変わらないよ」

詩乃は柚子のから顔を出して、柚子の肩の上で応えた。

「わかってる。今更、新見さんの気持ちに疑問を持ったりなんて」

「うん」

柚子は頷いた。

柚子も、今更詩乃の自分に対する信頼に疑問を持ったりはしていなかった。

「――でも、私は、別れたくないよ。別れなくても良い方法、ないかな」

柚子は、優しい口調で提案した。

別れたくない――けれど、それをに任せて強い言葉でぶつけても、きっと詩乃君を追い詰めるだけになってしまう。『子供を産んでほしいって言ってたのにどうして』、『結婚の事、詩乃君したいって言ってたでしょ』、『全部噓だったの?』――柚子の心には、ぱっと疑問が湧き上がっていた。しかし反的に出てくると言葉は、しかし全部、詩乃の口から答えを聞くまでもなく、また、誰に答えてもらうまでもなく、柚子は、自分の心の中にもう答えがあるのを知っていた。

「――ずっと、悩んでたの?」

「うん」

「……そっか」

柚子は小さくつぶやいた。

もうそれなら、詩乃君の答えをれるしか仕方がないかなと、柚子は思った。

もし私が泣いて頼めば、に訴えかければ、もしかすると詩乃君は、考え直してくれるかもしれない。詩乃君の優しさに付け込めば、この関係を続けられる。でもそれをしてしまったら、表面的な〈付き合っている〉という関係は続くかもしれないけれど、一番大事なものを失ってしまうだろう。詩乃君が〈死〉に直面してまで考えてくれていることを蔑ろにするようなになりたくない。

「ごめん……」

「……謝らなくていいよ。詩乃君の気持ちは、ちゃんとわかるから」

ぎゅうっと、柚子は詩乃のを包み込み、抱きしめた。

「――でも、ずっと別れてるのは、やっぱり嫌だよ」

詩乃は柚子の言葉を聞き、口を開きかけた。

柚子は、その気配をじ取り、詩乃を抱きしめている腕の力をし抜いた。

「五年くらいはかかると思う」

詩乃は、これからのことを柚子に話した。

任意整理という方法で借金を返済していくつもりであるということ。そのために、住み込みで働ける働き口を探そうと思っていること。大學は、試はけ、合格すれば學はするけれど、早期に退學するつもりであるということ。

「――進學するって約束で転できたんだから、高校との約束は守らないと」

詩乃は、進學のことを柚子にそう話した。

「働くの、住み込みがいいんだ」

柚子が訊ねると、詩乃は頷いた。

「甘えちゃうから」

「遠く?」

「うん、たぶん。地方の求人が多そうだから、そこから選ぼうと思う」

遠距離でもいいよ、という言葉を柚子は吞み込んだ。

「待ってても良い……?」

柚子の言葉に、詩乃は首を振った。

柚子は鼻をすすった。

「そうだよね……ごめん」

「新見さんが謝ることじゃないよ。自分がいけないんだ。我が儘だよ、自分の」

詩乃が言うと、今度は柚子が首を振った。

説明されなくても、確かな言葉を聞かなくても、柚子は詩乃のけ取っているという実があった。いつだって純粋に自分に向き合ってくれる。それが、詩乃君のの形なんだ。最初からそうだった。だから私は、どうしょうもなく詩乃君のことが好きなんだ。も心も全部あげてしまってもいいなんて、盲目的すぎるけれど、やっぱり本當に、今この瞬間もそう思う。

「詩乃君、じゃあ、私も一つ我が儘言わせて」

「え? 何?」

「お別れの瞬間まで、最後までちゃんと、彼でいさせて」

詩乃は一瞬驚き、それから頬を緩めて笑った。

「うん」

詩乃は、柚子のを抱きしめた。

柚子のわかりの良さが、詩乃には余計に辛かった。

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