《星の海で遊ばせて》ハリネズミ(3)
棲常明――人懐こそうな丸い瞳と、それとは縁遠いナイフのような鋭い顔だちの男である。歳は三十半ば。パーマのかかったセミロング髪を真ん中で分けている。
「仕事お疲れ様」
明はそう言いながら運転手の差している傘をけ取った。
「棲常さんも、お疲れ様――ありがと」
柚子は、明のエスコートに禮を言い、小さく笑みを浮かべた。
二人は大理石造りの小さなエントランスホールにり、明は傘を閉じた。
車がエントランスを出て行く。
明がセキリティボードで付を済ませると、自ドアが開いた。自ドアの正面には、エレベーターとは違う黒い扉がある。廊下も階段も見當たらない。
明がその扉を開けると、目のギラギラしたホテルマンのような男が、扉の先で二人を待ち構えていた。
「棲常様、新見様、お待ちしておりました」
黒い大理石のインテリア、そのカウンターの前で、男は白い手袋をつけ、直角のしいお辭儀で二人を出迎えた。
「取れてよかったよ」
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棲常は余裕そうな笑みを見せた。
二人は個室に案された。
広々した部屋に扇型の木製テーブル。その扇の側にはかまぼこ型の調理用プレートが嵌っている。明と柚子は、扇の真ん中に、隣り合って座った。
「本日はお越しいただきありがとうございます――」
と、白手袋の男が、口上を述べ始める。
今日の料理コースの説明、使うや酒の事など。
柚子の眼がきらきらって見えるのに、明は思わず頬を緩めた。
明が柚子と知り合ったのは一月ほど前、食事の席だった。その席では明は、スポンサーとして接待される側だった。それが、柚子と一対一になった今は、自分が柚子を接待している。そのことだけで明は、男としてのプライドが満たされる興を覚えていた。
もっとも、プライドのために柚子をここに連れてきたわけではない。
「お腹空いてる?」
「はい。ペコペコ」
そう言って、柚子ははにかむ。
明と柚子が二人で會うのは、これが三度目だった。「敬語はやめてよ」と、明が柚子にタメ口を使わせ始めたのが先週――二回目のデートだった。しかしまだ、柚子はぎこちない。しかし明は、不満どころか満足していた。自分のために努力をしてくれているということが、満足の第一。そして第二の満足は、柚子の子供っぽい健気さを楽しめることだった。
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食前の日本酒が、チューリップのようなシャンパングラスで運ばれてきた。
普通の店には出回らない特別な生酒だと、酒を運んできた接客係の男が二人に説明した。
酒と一緒に、前菜の小皿が、二人の前に置かれる。
二人は顔を見合わせ、にこりと笑いあった。
「乾杯」
明は靜かにそう言うと、互いに軽くグラスを持ち上げ、酒を口にした。
ぽつ、ぽつと、窓ガラスに雨粒がつき、それが、高速道路のオレンジのできらきらとった。柚子は、明との食事へと向かう間、窓の外を見ていた。つい數時間前まで、柚子は橘昴のインタビューをしていた。浮島の工場群を眺めながら、昴とのやり取りを、頭の中で何度も繰り返していた。
昴と會うのは、実に十年ぶりだった。
昴はスイスの音楽學校に進み、柚子は大學にった。大學卒業後、柚子はテレビ城東のアナウンサーになった。一方昴は、スイスからアメリカに渡り、そして今年、日本に帰ってきた。昴は、今や世界的に注目される、若手のジャズピアニストになっていた。今月は橫浜、來月は東京、十一月は名古屋、そして十二月はクリスマス・イヴを最終日にしたコンサートを京都は嵐山のコンサートホールで行う。今回の獨占取材は、昴のその宣伝も兼ねている。
インタビュー會場は、橫浜港エリアにあるホテルの三階、昴が滯在している部屋で行った。
インタビューの前には打ち合わせがある。昴に失禮の無いようにと、現場スタッフは、その張にヒリヒリしていた。音楽家や蕓家は、機嫌を損ねると帰ってしまうことがある。番組に出ることで食っているタレントとは振る舞い方が違う。
製作スタッフを伴って柚子が現れると、西洋貴族のようなバスローブをゆったりとに著けた昴が、一人掛けのソファーから立ち上がった。
柚子も昴も、素然と頬が上気する。
「こんな形で再會できるとは思ってなかったよ」
昴は脇をし開いて、手のひらを天井に向けた。
本當にその通りだと、柚子も思った。高校生の時、誰がこのシーンを想像できただろうか。
しかし柚子は、インタビューの前に、昴と話し込むのはやめようと決めていた。昔のことを々思い出して、冷靜でいられる自信が無かった。ひとまずは仕事を――インタビューをしてしまおう。そう決めて、スタッフをえた打ち合わせをし、撮影のセッティングの間も、昴とは余所余所しい會話に終始した。
撮影準備ができると、柚子とスタッフは一旦部屋を出た。昴はまたソファーに座る。
柚子と昴の再開の映像を録りたいということで、臺本通り、その場面から撮影を始めることになった。
柚子が部屋にると昴は椅子から立ち上がり、柚子に手を差し出した。「新見さん、久しぶりだね」、「橘君も、久しぶり」二人は握手をわす。
使えそうな良い場面だったらしい、ディレクターが興気味に頷いている。
「合宿を思い出すね」
昴が、柚子の手を握ったまま、こっそり言った。
柚子は、を結んだ。
二人は椅子に座り、インタビューが始まった。
柚子は、當たり障りのない高校時代の話を昴に持ち掛け、昴もそれに答えた。柚子は、事前の短い打ち合わせで、高校時代の友人の名前は出さない、ということを昴に約束させていた。昴は、柚子に言われた通り、思い出話をする時も、出てくる人の名前は伏せながら話した。
高校當時から昴は「王子」と呼ばれていたことなど、昴が自分から言わないようなことを、柚子は話題にあげた。自分が昴のインタビュアーに選ばれた意味を、柚子はしっかり理解していた。
昴のも溫まってきた頃、柚子は昴の、スイスでの音楽活について聞いた。昴は、印象的な話を二つほど紹介した後、し考えてから、「実はね――」と話し始めた。
「スイスに行く予定は無かったんだ」
「そうなんですか?」
昴は、インタビュアーの仮面をかぶった柚子の、瞳の奧を抜く様に見た。
「中學のコンクールで結果が出なくて、高校時代は、逃げるためにジャズをやってたんだ。でも高校三年の夏過ぎにね、ちょっと僕に、のライバルがいて――」
にやっと、昴は柚子に微笑みかけた。
柚子は、気が気ではなかった。
「その彼とは、まともな會話は一回しかしていないんだけど――文蕓部の男の子でね、その彼の、そうだな……理想から逃げないというのかな、その態度に化されて、スイス行きを決めたんだ。もう一回、クラシックをやろう、とことんやってみようってね」
「そして今はまた、ジャズの世界に――」
「そうなんだ。向こうで、ずっとクラシックに向き合っているうちに、だんだんとね、自分の心が何を求めているのか、わかってきたんだ。それで、やっぱり自分は、ジャズに向いているって気が付いた。今は――今彼はどうしているのかな。今なら、彼に、を張って僕のジャズを聴かせられるんだけど」
インタビュー終了後、カメラも音聲スタッフも撤収した後、柚子と昴は、ホテルのラウンジで落ち合った。
「――焦ったよ。まさか本當にインタビューだけで終わりかと思った」
昴が言った。
高校生時代、「王子」と呼ばれていた昴は、今はプリンスと呼ばれている。甘いマスクに、燃えるような瞳。日本人離れした、くっきりした目鼻立ち。端正な眉。昴の祖母がポーランド人なのだと、インタビュー中に柚子は初めて知った。
「ごめんね。あんまり懐かしい話すると、インタビュー、ちゃんとできなくなっちゃうかと思って」
「なるほどね」
昴は昴で、柚子を懐かしく思っていた。
昔好きだったの子――今はもう婚約者もいる昴だったが、柚子に対しては、特別な思いがあった。昴は、一番聞きたかったことを柚子に質問した。
「水上君とは、今は?」
柚子は息を呑んだ。
しかしすぐにほほ笑みながら、首を振った。
「高校卒業したとき、別れちゃったんだ」
昴は口元に手を當てて、「そうか」と、殘念そうに語尾をばして言った。それから昴は、高校時代の、インタビューではできなかった思い出話を、柚子と話した。當時、自分たちを取り巻いていた噂の事、合宿の思い出。昴は、自分が柚子の事を好きで、詩乃から奪おうとしていたことを柚子に打ち明けた。柚子はそれを、驚きながら、笑って聞いていた。今となっては、全てが懐かしかった。あの當時は傷ついたことさえ、今では寶のようになっている。二人は、紅茶が運ばれてきて、それがすっかり冷めてしまったのにも気づかずに、話に夢中になっていた。
「――卒業の日にね、冗談で、君の彼がしいって、水上君に言ったんだよ。水上君、笑ってたな」
それを聞いて、柚子も笑った。
「でも、そうか……どこにいるかもわからないんだね」
「うん……」
昴は眉を顰め、そこでようやく、紅茶を口にした。
「彼がいなかったら、今の自分は無いよ」
ぽつりと、寂しそうに昴が言った。
それから昴は、ポケットから一枚の手紙を引っ張り出して、テーブルに置いた。それは、高校三年生の夏休みのあと、詩乃が昴に向けて宛てた手紙だった。柚子は、二度、三度と、その手紙を読み返した。
「インタビューで出してもいいかななんて思ってたんだけどね」
昴はそう言ったが、柚子の耳には屆いていなかった。
柚子は、數秒おきに目を拭った。
「懐かしいね」
赤い目で、柚子は手紙を昴に返した。
昴はそれをけ取り、また懐にしまった。
「一昨日、水上君の誕生日だったんだよ」
「あぁ、そうなのか」
昴は、何と言っていいかわからなかった。
そんな昴の、困った様な表を見て、柚子は微笑んだ。
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