下ごしらえの済んだ野菜、類を早速鍋で炒め始める。ごま油の香りがリビングに漂う。ジュワーという派手な音に、奈は目を輝かせた。キッチンでく柚子の姿を見て、柚子が料理慣れしていることが、奈にはすぐにわかった。料理の企畫に出ているより、よっぽど慣れている。

「あ、くつろいでていいからね。三十分はかからないと思うから」

カウンター越しに柚子が言った。

奈は、柚子の背中の棚を見ていた。々な種類の酒が、ガラスの棚に並べられている。グラスも、一種類や二種類ではない。奈の視線に気づいて、柚子は応えた。

「カクテルの勉強の時に、一式そろえたんだ。で、ほとんど飲み切らないでそのままになってるの」

「普段飲まないんですか？」

「うーん、ワインが多いんだよね。でも、そんなに飲まないよ。週一回か二回」

「なんか、飲めるのにもったいないですね」

柚子は、奈の顔をちらりと見やった。

奈は、柚子の視線にドキリとした。新見さんは、私のことをどこまで知っているのだろう、と思う。心のを全部見かされているような気さえする。最近まで全然気づかなかったけれど、新見さんは、人の表だけでなく、その心の中までよく見ている気がする。

「あの、新見さん」

「うん？」

「私、一つ謝らないといけないことがあるんです」

「え、どうしたのそんな、改まっちゃって」

柚子は、炒める手を止めず、視線も鍋の中に落としたまま言った。

奈は、ぐうっと腹の蟲が鳴り終わるのを待ってから口を開いた。

「飲酒の報道あったじゃないですか、私の」

「うん」

「あれ、本當なんです」

奈は、口に出してそう言ってしまうと、急に、その場で泣き出してしまいそうな罪悪に襲われた。

「私、高校生の時、あの報道にあった通りで、ちょっと悪い友達とツルんで、飲酒とか、平気でしてました」

奈が告白すると、かさず、柚子は聲を上げて笑った。

「それくらい普通だよ！」

ジュー、ジューと、鍋と木ベラをかしながら、柚子が言った。

「いや、でも、新見さん、私を庇ってくれたのに、なんか――」

申し訳なくて、と奈は言おうとしたが、それを言う前に、柚子が言葉をかぶせた。

「アイドル時代だよね？」

「はい」

「んな境遇があると思うんだ。誰もわからないよ。お酒が必要な時も、私はあると思うな。大変だったんでしょ、きっと、その頃」

柚子の言葉を聞くと、奈の眼に、じんわりと涙が浮かんだ。

「でも、もし本當だってバレたら、新見さんまで……立場悪いじゃないですか。上の人に食って掛かって、その挙句私が……本當だってわかったら……」

「いいのいいの、私がそうしたくてしたことなんだから」

柚子は、干ししいたけの戻しに調味料を加え、それを鍋にれた。それから、二枚のクッキングシートにご飯を平に敷き詰める作業はし始めた。

「――私、父親がアル中で、今施設にいるんですよ」

柚子は手を止めて、顔を上げた。

「まぁ、良くある話と言うか、そういう家庭だったんです。だから、それってある意味、チャンスじゃないですか。私、〈悲劇のヒロイン売り〉する覚悟はできてるんです。『池奈、元アイドル子アナの壯絶人生、母に捨てられ、父親はアル中』……なんて、別に捨てられちゃないですけど、みんな好きそうじゃないですか、そういうの。だから私、もし落ちても、復活してやりますよ」

ショックをけて固まる柚子を見て、奈は笑ってしまった。新見さんらしい反応だなと奈は思った。哀れっぽいの上話なんかするものかと、ずっと奈は思ってきたが、相手が柚子だと、不思議と嫌ではなかった。

「新見さん、ぶん取っちゃえばよかったんですよ、〈晝いち！〉のメインＭＣ。もったいないことしましたね」

奈はそう言って笑った。しかし柚子が神妙な表を崩さないので、奈は慌てて続けた。

「冗談ですよ。新見さん本當に、よく生き殘ってきましたね」

柚子はそこでやっと、表を緩め、おこげを作る作業を再開させた。

二人分のご飯を二枚のクッキングシートに敷き詰めた後、二段にしたオーブンレンジにそれを乗せる。それが終わってから、柚子はぽつりと言った。

「――私、何もないんだ」

ピっと、スイッチが押され、ブーンと、オーブンレンジが仕事を始める。

ふつふつと、鍋が煮え立つ。

火を弱火にして、用意しておいた水溶き片栗を混ぜながら、鍋の中にれる。そしてまた、しずつ火を中火に戻していく。その作業をしながら、柚子は言った。

「出演を増やしたいとか、番組持ちたいとか、こうなりたいっていうのが、なんにも」

柚子の言葉の寂しさに、思わず奈は立ち上がって、キッチンで料理を作る柚子のもとに近寄った。

「――何か手伝いますよ。お箸とかお皿とか」

奈はそう言って、軽く柚子の肩にれた。

ありがと、と柚子は呟くように禮を言い、奈に食の準備を任せた。

二人分のおこげとスープを奈がテーブルに運び、柚子は、おこげにかける餡を、鍋ごとテーブルに運んだ。柚子は二人分のグラスを用意し、今日のために買っておいたリースリングを注いだ。その黃金のしさに、奈は息を呑んだ。ワインなんてこれまでも、それこそ、何十萬するとかいうものも、それを誇りにする男との會食では飲んできたが、今日ほどそのをしいと思ったことはなかった。

柚子がお玉で、鍋の八寶菜風の餡を奈のおこげにかけた。

じゅわあっと、おこげがいかにも旨そうな音を発し、湯気が立ち上った。奈は聲を上げて喜んだ。スープは黃金のとろりとしたオニオンスープ。どんなコース料理も、これには及ばないだろうと奈は思った。

「それじゃ、食べよっか」

「はい」

いただきます、と言って二人はワインを飲んだ。

おこげは、絶品だった。さやいんげんの緑が鮮やかで、厚のエビがぷりぷりしている。仄かに香る柚子の香りが、後味を爽やかにした。それがまた、リースリングとよく合う。

奈は手始めに番組やスタッフの愚癡を柚子に投げかけた。柚子はいつもの通り、安易にそれに同調することなく、楽しそうに笑っている。今までは、柚子のそのやり方を「ズルい」と思っていた奈だったが、自分の価値観では柚子という人間が測れないことを知ると、柚子の態度に対する捉え方がガラりと変わった。

もしかすると新見さんは、私が思っているほど難しくないのではないか。面白いと思うから笑って、答えられないと思うから答えない、ただそれだけの事なのではないか。実は、打算なんかは、ほとんど働いていないのかもしれない。そんな人間いないとは思うけれど、だけど、どうなんだろう。

そんな事を考えながら奈が味しそうにおこげを食べていると、ある時にふっふっふと、柚子が笑い始めた。

「え、なんですか？」

奈も、釣られて笑いながら柚子に聞いた。

「いや、なんか、そんな良いドレスで中華料理食べてるっていうのが、なんか面白くて」

「そうですか！？」

奈は、意外なことを言われたような気がした。

偉そうなフレンチやイタリアンのコースなんかより、よっぽど価値がある。キャビアやトリュフやフカヒレがなんぼのもんだと奈は思った。――今日は、この裝でやっぱり正解だった。

「普段絶対著ませんけどね」

奈が言うと、柚子は笑った。基本的にアナウンサーは、高級すぎるものはにつけない。生放送の帯番組では局の用意したものを著、その影響で自然と、通勤時の服裝も、〈子アナ〉っぽくなっていく。同から嫉妬されない程度の、清潔で、ほどよく明るい印象を他人に與えるいい子ちゃんファッション。

「――の反買って支持率落ちるのも馬鹿らしいじゃないですか」

からっとした口調で奈が言った。

柚子はにこにこ笑いながら、奈の言葉を聞き、グラスに口をつける。その微笑みの中に、奈はどうしても嫉妬のを見つけられず、そのことにやきもきしてしまう。

「新見さん、嫉妬とかしないんですか？」

「え！？」

「だって、新見さんって、違うじゃないですか。私は正直、ついこの間まで、打倒新見柚子でしたよ。フォロワー數、視聴率、グッズの売り上げとか、なんでも競って、私の方が良い數字だと、それで舞い上がってたんですよ。なのになんか、全然張り合いないじゃないですか――新見さんが私にライバル心とか、そういうの燃やさないと」

柚子は、歯に著せぬ奈の言いに、笑ってしまった。

「私、池さんのこと好きだよ」

「やめてくださいよ！」

ぐいぐいっと、奈はワインを飲みした。

柚子は早速、奈のグラスにワインを注いだ。

「嫉妬は、するよ」

柚子が応えた。奈はじっと、柚子の顔を見つめた。

「結婚した友達とか」

「仕事とか、キャリアの方じゃないんですね」

「うん。高校の時の友達は隨分結婚しちゃってさ。いいなぁって」

「新見さん、結婚したいんですか？」

「そう言われると、どうだろう」

柚子は首をひねり、おこげを齧った。

「池さんは、思わない？」

「私はとりあえず、ここで知名度上げて、人脈作って、三十までにフリーになって、それから結婚っていう人生設計があるんです」

「おぉ……」

「――って、思ってたんですけど、なんか最近、グラついてます」

「何かあったの？」

今度は奈が笑う番だった。

その原因は、まさに柚子だった。

「新見さんは、フリーになるつもりないんですか？」

「ないかなぁ」

「新見さんだったらフリーでも充分やっていけると思いますよ。話、來てないんですか？」

「來てないことはないけどね……」

柚子は難しい顔をして考え込んだ。

「新見さん、どうしてアナウンサーになったんですか？」

「……」

「私は、んなものを見返すためです。アイドル時代、私を裏切ったメンバーとか、私を馬鹿呼ばわりしたプロデューサーとか、親も……アナウンサーは踏み臺です、私の」

奈は、手持ちのカードを全部曬し出したような気分だった。

どうして柚子を前にするとそうしたくなるのか、やっぱりまだ柚子に対する、庇ってもらった後ろめたさをじているのか、それとも、貸しを作りたくないという心理が自分にそうさせているのか、奈にはわからなかった。

「私、そういう強い気持ちが無いんだ」

柚子は、そう言って、最後のおこげを齧った。

「別に強いわけじゃないですよ。単なる復讐心っていうか、ドロドロした自己顕示というか、虛栄心というか……皆そんなものだろうって思ってたんですけどねぇ」

奈は、ワイングラスをくるくる揺らして、金ののくのを眺めた。

「不思議なんですよ。普通……新見さんみたいな人が、この世界にいるっていうのが、なんか、すごく似合わないって言うか――いや、変な意味じゃないですよ。良い意味で、私、今まで會ったことないですよ」

奈にそう言われて、柚子は俯いた。

何で褒めているのに落ち込むのと、奈は慌てた。仮にも、新見さんは先輩だ。先輩らしく私の事なんて池って呼び捨てにして、上から目線で説教の一つ二つ垂れればいいのにと思う。まして、貸しが一つある相手なのだから、それくらい威張ったって罰は當たらない。私だって、助けてもらったんだから、それくらいは許容する。私もそこまで恩知らずではないし、わからずやでもない。それなのにどうして、私なんかの言葉を真にけるのだろう。