《ドーナツから蟲食いを通って魔人はやってくる》1話 姫様に足蹴にされる

(ユゼフ)

憎悪のこもった咆哮が荒野に響く。

獣か、魔か──

人間ではない、それだけは明らか。

なぜなら、獣の表現方法は人間とは違う。

鳴き聲で全てのを表現するのだ。単音だけでなく重音も使う。ぎ、吠え、泣く。音聲が異なるから、人間の聴覚では捉えられない音も出す。

時に背筋を凍りつかせ、呼吸を忘れさせ、を震わせる。聴覚で捉えられなくとも、皮や第六──別のじ取るのである。

怨み、憎しみ、怒り……そして、深い悲しみを。

仲間を殺されたのか?

それとも、人? 家族??

いや、違う。

きっと、ありふれた悲劇ではないのだ。

自己嫌悪? 無論それもあるだろう。自が度を越してボロボロになって、それでも滅びなかったら? それは他へと向かう。

これはこの世の全てを憎悪する聲。世界の破滅を強く願う。魔王の咆哮だ──

ユゼフは自分の聲で目覚めた。

まず、網を刺激したのは

眩すぎてクラクラする。

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闇から逃げ出して來た者にとっては、ランタンのですら痛い。ユゼフは目を細めた。

ぼんやりした視界が郭線を認識するまで、時──

ここは暖かなオレンジのに包まれた天幕だ。手背を額に當てれば、汗でヌルッとする。

悪夢から目覚めたばかりの彼の名は、ユゼフ・ヴァルタン……名家ヴァルタン家の私生児。王護衛隊の隊長ダニエル・ヴァルタンの弟である。

恐る恐るユゼフの顔を覗き込む老人がいる。

王室付學士グランドマイスター、シーバート。

腰は曲がっていても、脳は衰え知らず。膨大な知識と察力はこの大陸で隨一を誇る。この隊で隊長の次に権威を有する老人である。この上品かつ厳とした老人は、ごくごく近な者に対してのみ好々爺となった。

不安を滲ませたシーバートの目元の皺を見て、ユゼフは「やってしまった」と思った。

汗を拭う手に隆起する管をじる。

──ああ、昂(たかぶ)っているな

普段は大人しく優しい仮面を被っていても、本當は意固地で気が強い。如何にも貴族のボンボンといった風と反し、ユゼフは期を庶民として生活していた。らかく、従順なのは貴族社會で生き抜くためのだ。

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を表に出すことは滅多にない。だから、夢の中でもがいていた様を見られたのではないかと、ユゼフは恥ずかしくなった。

恐ろしい夢のせいで、顔が強ばっているのも然り。しかも、微笑んでごまかそうとしたところ、顔皮が痙攣した。

「大分うなされておった」

芯の通ったしゃがれ聲。

老人シーバート。

「申し訳ございません」

掠れ聲でユゼフは答える。

「水を飲んだ方がいい。すごい汗だ。服も代えないと。ああ、さっきの聲で王様がお目覚めでないといいのだが……」

の天幕はすぐ隣だ。さっきのび聲は筒抜けだろう。隣に筒抜けどころか、宿営地中、響き渡ったに違いない。

そう思うと、恥ずかしさとけなさでユゼフはこまらせた。暗く、悲観的な格が拍車をかける。

気にかけてくれる老人の優しさが煩(わずら)わしかった。

年老いた學匠が不遇な自分を憐れんでいる。それだけで一層慘めな気持ちになる。

──そう、優しさなどいらぬのだ

シーバートは安心を與えようとしたのだろう。ゆったりした所作でコップに水を注いだ。

ユゼフは気持ちをざわつかせたまま、ボンヤリそれを眺めた。

「まだ、寢ぼけておるな? ここはカワウの土漠じゃ。我々が王様の婚約儀式に付き添い、カワウ王國に滯在中……」

「時間(とき)の壁が現れた……」

「そうじゃ。お前の従兄弟が文を持って來てくれた。壁を抜けられる場所が隣のモズ共和國にあると……」

「ああ……そうでした。それで我々は兄上の指揮のもと、土漠を橫斷してモズへ……」

「その通りじゃ。ようやく正気に戻ったか」

現実に戻ったことを認識し、ユゼフの全は弛緩した。安堵のしるしにホッと息を吐く。渡されたコップに口をつけた。

……ん ……ん

水が口腔を通り、咽頭を下っていく。生々しい躍が音となって落ちていく。

水を二口飲んでから、ユゼフはハッと気付き、近くのテーブルにコップを置いた。

「こ、この水はどこから?」

「ああ、気にせんでもええよ。この爺が隠し持ってたやつじゃ。全部王様に飲まれたんじゃ、堪らないからなあ」

老人は大きく口を開け、朗らかに笑った。歯はない。

「い、頂くわけにはまいりません」

「遠慮はいらんよ。お前さんに倒れられたら、こっちも堪らん。それにモズまではあと百六十スタディオン(三十キロメートル)ほどじゃ。馬で行けば明日の晝までには著くじゃろうて」

「で、でも…」

「皆、水や食料は隠し持っておる。馬鹿正直なのはお前さんぐらいじゃよ」

老人は有無を言わせず、水のったコップをユゼフの手に押し付けた。

「いえ、もう二口頂きましたから、これ以上頂くわけにはまいりません」

ユゼフはきっぱり斷り、立ち上がった。

足元がしふらついている。この二日間、何も口にしていないのだから當然だ。

「大丈夫です。シーバート様、一週間くらい飲まず食わずのこともありましたから。私は大丈夫。その水は他の方に分けてください」

ユゼフは低い聲を出した。

絶対に従わないという強い意思表示。これが意固地なところ。自分でも分かってはいるのだ。この融通の利かない格が災難を呼び込むことぐらい。

シーバートは首を振りながら、勧めるのをやめた。

その時、気配をじた。

すぐそこ、天幕の真ん前に。

した獣かと思われる荒々しさ。猛々しいと言った方がしっくりくるだろうか。気配だけなら、戦士とか格闘家である。

天幕の幕がまくり上げられ、冷たい風が吹き込む。ひんやり流れ込むのは甘い香り。春の花と若いから発せられる瑞々しい香りだ。

天幕にってきたのは荒々しい気配からは想像もつかない、二人のしい娘達だった。

年齢的には二人とも淑なのだが、淑というにはまだく、つきにはまだの名殘が殘っている。

途端に老人とユゼフは地面にひざまずき、ひれ伏さなくてはいけなかった。

前に立っていたのは、國の第一王。ディアナ・ガーデンブルグである。

「楽にしてよい」

眩(まぶ)しいくらいに輝く金髪をりながら王は言った。次に口を開いたのは、隣で控えていた茶い巻きの娘だ。

「王様は眠れないのです。先ほども恐ろしい狼の鳴き聲が聞こえて、とても怖くて…」

気弱そうなその娘は目に涙を浮かべながら、を震わせた。王は哀れな娘を肘で小突く。

「誰も怖がってなんかいなくってよ。ただ、私は野獣の鳴き聲が聞こえたので危険は回避すべきだと思ったの」

ユゼフと老人は顔を見合わせた。

「ユゼフ、お前の兄はこの隊の責任者でしょう。今すぐに兄の天幕へ行き、出発するように言いなさい」

言葉に詰まっているユゼフの代わりにシーバートが答えた。

「獣の鳴き聲など我々には聞こえませんでしたが」

「いいえ。はっきりと聞こえましたわ。とても、とても恐ろしい狼の鳴き聲でしたわ」

の橫で侍が聲震わせる。

ミリヤという名のその侍

この弱々しい齧歯類を思わせる娘は、ディアナのそばにいつも控えていた。

見た目は可らしいものの、鈍重で知能は低いように見える。覚えが悪く、何をするにも時間がかかるため、王をいつも苛つかせていた。

「狼ではないわ。お前は本當に愚かね」

は侮蔑の表でミリヤを一瞥し、

「あれは、野獣の聲よ……いいえ、魔界から逃げてきた魔獣の聲だったわ」

はっきりと言い放った。

ユゼフは下を向いたまま、地面に敷かれたラグをジッと見つめるしかなかった。先ほどの雄びが、自分の発したものだとは言えない。

──天幕をたたんですぐ出発しろと、兄に伝える? しかも、こんな深夜に?……いくら王の命だとはいえ……

護衛隊の隊長ダニエル・ヴァルタン。ユゼフの腹違いの兄。

彼は國の英雄だ。

絵に描いたような軍人で、筋骨隆々としたと鋼の神を持つ。ユゼフとの共通點は長が高いことだけ。

あの厳(いかめ)しく豪放な男が、王という肩書きぐらいで小娘の我が儘に耳を貸すわけがなかった。

どうやら、腹を決めるしかなさそうだ。

「王様、あれは野獣の聲ではありません」

ユゼフは優しくゆっくりと話した。張すると吃音(きつおん)が出る。

「お前の意見など聞いていないわ。お前は私の言う通りにすればいいのよ。私の従者なのだから」

「いいえ。違うのです。あれは野獣の聲ではありません。私が寢ぼけて出した聲なのです」

──言ってしまった!

ユゼフの告白を隣で聞いていたシーバートは、額に手を當てため息をついた。

「何ですって!?」

しい顔がみるみるに赤くなる。下を向いていたって分かる。彼は今にも沸騰寸前だ。

暴に地面を踏みつける音は、全くしくない。

生暖かい息をじ、ユゼフが顔を上げると、しい顔が間近にあった。それを堪能する間もなく、視界が消える。同時に鋭い痛み──気づけば、ユゼフは地面に突っ伏していた。

こともあろうか、ひざまずいているユゼフをディアナは蹴り飛ばしたのである。

「おやめください!」

更に倒れたユゼフを足で踏みつけようとする王をシーバートは制止した。

「ディアナ様、それ以上は王として恥ずべき行為ですぞ?」

「シーバート様、王様は予定外の長旅にお疲れなのです。どうかご勘弁ください……」

はシーバートにまで摑みかからんとする勢いだったが、ミリヤが泣きながら老人の前にひれ伏したことでし落ち著いた。

學匠の重鎮であるシーバートを暴行すれば、大陸中に悪評が広まるだろう。

大人しい侍が高飛車な王の代わりに謝ったのだった。

「不快だわ!」

は忌々しげにび、背を向けようとした。

くるり、視線をかしたことで、テーブルが彼の視界にる。置いてある木のコップに気付いてしまった。

こういった場合、ディアナはをぶつけることしかしない。気持ちを発させて行に移せば、どういう結果を導くかまでは考えもしないのだ。

ディアナはコップを手に取り、ユゼフへ投げつけた。

結果、安定を失った木のコップは重力に抗おうと一回転した後、派手にしぶきを上げる。キラキラ輝きながら消えていく水はしい。

つまり、ユゼフの顔に當たった後、貴重な水をぶちまけ、コップは地に落ちた。

ユゼフはびしょ濡れになった。

「水でもかぶってしっかり目を覚ましなさい。お前は寢ずに私の天幕を見張るのよ!」

怒鳴りつけ、王は背を向ける。

ユゼフは特に恥を覚えたり、傷ついたり、悔しがったりもしなかった。こんなことは年がら年中あるのだ。

これよりもっと辛いことも。

主人公ユゼフ挿絵。

ヒロイン ディアナ挿絵。

別視點もあります↓

一話シーバート視點

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