（ユゼフ）

頭の中で「彼」の言葉が繰り返している間はまだ良かった。

前に五十二人いれば殺せばいい──

問題は魔法が解けたあと。

全て終わってからだ。

の震えが止まらなくなったのは。

幌馬車からの走を果たしてからずっと、ユゼフのは小刻みに震え続けていた。

こんなに震えるものなのかと思った。

全の筋が小刻みに収を繰り返す。激しく波打っているのに反し、強張ったは冷たい。

ユゼフは馬の手綱を握る両手を見た。震える手にはまだ生溫かい命のが殘っている。

赤──

最初に頸脈を斬った者のが袖についている。それを見て、一層震えは強まった。

生まれて初めて人を殺した。

一度に三人も。

馬車の中からでも神を集中させれば、外にいる人間の心音をじ取れる。これは訓練の賜ではなく、ユゼフに生まれつき備わった能力である。目を閉じると、瞼の裏に気が映し出されるのだ。

命の源を剣で貫くことは難しくなかった。

「どうしたの？」

後ろで馬に揺られるディアナが不安そうな聲を出した。ユゼフ達は幌馬車を曳いていた馬に乗っている。逃がした後に呼び寄せたのだ。

一見、追っ手を上手く撒いたかに見えた。だが、まだ彼らの住処である森からは出ていない。

偽の足跡をあちこちにつけて小細工もした。それも長くは持たないだろう。早く森を抜けなくては……

モズ共和國の東に広がるこの森は魔法使いの森と呼ばれている。モズは魔法使い達が作った國で王も元首も存在しない。五年ごとに占で選ばれた者達の議會が國政を擔っていた。

この深い森はモズの國土の三分の一を占めており、ナフトという巨大都市に通ずる「魔法使いの道」が一本通っているだけだ。

「魔法使いの道」であれば結界が張ってあるので安全だが、道から一歩出れば魔の住処である。ユゼフ達がいるのは高いトウヒの木々の間だった。

「……ほら、また聞こえた。の鳴き聲ではないわ」

ディアナは震えながらユゼフの腰にしがみついた。

先ほどから「ケラケラケラケラ」と奇妙な音がし離れた所から聞こえてくる。彼の言う通りではなかった。

しかし、奇妙な音のした方から水音が聞こえた。

「近くに湧き水があります。行きましょう」

二人ともが渇いている。馬もそうだったのだろう。水音のする方へ勢い良く駆け出した。

湧き水が流れる小川まで數分も掛からなかった。木れ日を反しキラキラ流れる小川はしい。思わず二人は喜びの聲を上げた。

馬から飛び降り、濡れるのも厭わず川の中へと。

まず手を洗い、顔を洗い、水を飲む。渇きを癒やしたは貪に水をし続けた。

を鳴らして、直接水面に顔を埋める。鼻にろうが構わない。傍目から見れば溺れているのかもしれなかった。

水をがぶ飲みするユゼフを見て、ディアナは呟いた。

「お前、が渇いていたのね……」

こんなことになる前、王護衛隊は食料と水のった馬車を盜まれた。節約をしなければならなかったのである。ユゼフは手持ちの水を全てディアナに差し出していた。

前れもなく……彼は近付いた。

「？？」

飲むのを止め、ユゼフは顔を上げる。

パァン！！

次の瞬間、響いたのは小気味よい打撃音だった。

頬を平手打ちされたのだ。

「痛っ。何するんですか？」

「今のでこれまでの無禮な態度を許すわ」

頬にジィンと痛みが走る。何度も経験あるのに慣れることはない。屈辱的だ。しかし、頬を押さえた時、不思議との震えは止まっていた。馬車を走してからずっと続いていた震えが。

怒りが恐怖を克服したのだ。

ディアナと初めて出會ったのは十二歳の時。彼はまだ九歳で、ユゼフの上の妹と同じ年だった。

それから八年間、こういった暴力によく耐え続けたものだとユゼフは思う。

彼に引き合わせられたのは、宦(かんがん)として仕える為の予行であった。

戦爭と母の嘆願のおかげで、一旦話は立ち消えたものの、遊び相手としての役目は解かれない。

ディアナはい頃から我儘。

気の荒い暴れ馬だ。

ユゼフは実際、馬になって何時間も庭園を歩き回らされたし、棒で叩かれたり、パイ皿を顔に投げられたりもした。これは気の合わない従兄弟達の相手をするのと同じくらい最悪だった。

吃音(きつおん)を馬鹿にされるのも然り。言葉が出にくくなり、無口になったのは八割方ディアナのせいである。

「また……また聞こえたわ。今度はすごく近かった」

ディアナは怯えてユゼフの腕にしがみついた。

「ケラケラケラケラケラケラ……」

今度はすぐ近く、足下の辺りから音がする。

突如、足裏にふわふわしたがあり、地面がユラユラとき始めた。が持ち上がるのをじたユゼフは、ディアナを抱きかかえて跳んだ。

震源は二人の立っていたすぐ真下。凄い轟音が鳴り響き、小川は真っ二つに割れる。

「ギィヤァァアアアア！！！」

気味の悪い鳴き聲だ。

小川の下から地響きを立てながら出現したのは、クリームのぶよぶよした巨大芋蟲だった。

目と鼻はなく、あるのは尖った歯がみっしり生える大きな口だけだ。

木に繋いでいた馬が狂ったようにいななく。

ユゼフにできるのはロープを切って馬を逃がすことだけだった。

「ゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラ……」

怪の咆哮は強風となって、周りの木々を次々に打ち倒した。風はユゼフ達を吹き飛ばし、固い大木に打ち付ける。

脇腹に刺すような痛みが走った。

辛うじてディアナのを離さずにはいられたが、今の衝撃であばら骨が折れたようだった。

だが、痛みをじている余裕などない。

化けは尺取り蟲のきと同じにもかかわらず、凄い速さでこちらへ向かってくる。

風でだいぶ離れた所まで飛ばされているものの、ユゼフがディアナを抱えて走るより圧倒的に化けの方が早かった。

大きな木のうろを見つけたのは幸運だった。そこにディアナを押し込め、

「絶対にここをかないでください」

それだけ伝え、ユゼフはすぐに場を離れた。口笛を吹けば、音に反応してユゼフの方へ向かって來る。ディアナから出來るだけ遠ざけなくては。

ユゼフは全速力で口笛を吹きながら走った。

中から湧き出る汗。息が切れる。

余りに必死で苦しいのが呼吸なのか、折れた肋骨なのか……よく分からなくなってくる。

呼吸音はハァハァから、次第にヒューヒューへと変わっていった。

もういいだろうと思い振り返ると、すぐ後ろに蟲はいた。

「ゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラ……」

激しい風が向かって來る。

後ろに跳び、辛うじて避けた。すかさず巨蟲の後側に回り剣で切りつける。

巨蟲のはがあり、剣で切りつけても薄皮を削りとることしか出來ない。

痛覚はあるのか、をうねらせて牙だらけの口をユゼフに向けてきた。

避けてまた、切りつける。

何度か切りつけるも、大した損傷は與えられなかった。

蟲の鼓を読み取って、攻撃を避ける事は出來る。だが、じくじくと痛む脇腹を抱えての持久戦は長くは持つまい。

「ダメだなあ。あんた、魔と戦うの初めてか？」

不意に頭上から甲高い聲が聞こえた。

見上げると甲冑にを包んだ男が木の枝に腰掛け、足をぶらぶらさせている。兜(かぶと)で隠れているから顔は分からない。

集中力が途切れた為、蟲の尾の部分（そこにも口らしきのがあるのだが）が迫ってくるのに気付かなかった。

ヒヤリ──

ギリギリの所で避ける。飛び上がり、ユゼフは木の幹をよじ登って男に近付いた。

「あのな、ああいった汚れた魔と戦う時は霊の力を借りなければならない。あんた、祈禱は出來るかい？」

聲のじから鎧兜の中は若い男と思われた。十代か二十代前半の……

「神學校に二年通っていた」

「十分だ」

男は足をブラつかせながら答える。

「祈りの言葉を剣に帯びさせるんだ。霊の力をまとわせて切りつける。そうすれば、魔に致命傷を與えることが出來るよ」

──なるほど

魔と対面するのは初めてだった。

鳥の王國で魔に遭遇するのは魔國との國境付近ぐらいだ。

それと、國の真ん中にポッカリ空いた海の島々にはこういった魔が出るらしい……ということは知っている。だが、都市部で安穏と暮らしていたユゼフには関係のない話だったのである。

──なるほど、魔の力には聖の力を當てるわけか

魔はまだ、木の上のユゼフに気付いてない。

「天の神よ、地の神よ、水の神よ、火の神よ、全てのに宿る霊達よ、神の心を、霊を汚すものを罰したまえ。我は神に許されし者、認められし者、始祖エゼキエルの子孫である。我に聖なる力を與えたまえ……」

ユゼフが祈禱を始めると、剣はを帯び始めた。

いわゆる魔法剣というやつか。

全て初めて。でも以外と簡単だった。

木から飛び降り、すかさず魔のの真ん中をぶった斬る。今度はユゼフの細い剣でも化けのを斬る事が出來た。

を斬られた巨蟲は雄びを上げながら崩れ落ちていく。切り口からは白いが溢れ出た。例えるなら熱々の腸詰めである。中で、はちきれんばかりに沸騰したがナイフを當てただけで、勢い良く放出される。

化けがひるんだ隙にユゼフは振り回されながらも、そのをよじ登った。最後、後ろから口の部分に剣を突き刺す。これがトドメだ。後頭部から口へ……ニョッキリ顔を出した剣がを浴びてきらめく。

ようやく、化けは止まった。

「お見事！」

木の上の男が手を叩いて兜をいだ。沢のある焦げ茶の髪が肩に落ちる。

木の上に居たのはだった。

そばかすのある白いと長い睫に縁取られた青灰の瞳、大きな口で笑うと不揃いの歯がのぞく。

は木から飛び降りると、手を差し出した。

「指導料、頂けるかな。背の高いお兄さん」

修正前がこちら↓

https://ncode.syosetu.com/n8133hr/3/

別視點の方に載せてます。ディアナとの回想シーンがあります。