《ドーナツから蟲食いを通って魔人はやってくる》21話 グリンデルに援軍を頼む
一時間後──
ユゼフはディアナの前に跪(ひざまず)いていた。
下を向いたままでも、顔をチラッと確認するぐらいはできる。ディアナはゾッとするほど冷たい顔でユゼフを見下ろしていた。
目が合ってしまい、慌ててユゼフは下を見る。
『どうしよう。怒りは鎮(しず)まりそうにない』
ディアナは五首城の中で一番綺麗な部屋をエリザと使っていた。
運良く盜難されなかったのだろう。汚れて使えないベッドの代わりに壁掛けのタペストリーは綺麗な狀態で殘されていた。
大きな太の下、巨木の周りを様々な神獣達が駆け回っている絵だ。一角獣、不死鳥、龍、獅子、智天使……神獣達の生き生きした様子が並みの沢や躍する筋の影によって表現されている。アニュラスのの奧地、エデンを緻に描いた織はとてもしかった。
今、エリザは見張りに出ている。
二人きりになれたのは幸か不幸か。
ディアナは不潔を嫌う。
部屋を訪ねる前にユゼフは行水した。
たらいに張った湯で隈(くま)なく全を洗い、髭を剃り、髪まで洗った。持ってないから香は炊けない。それでも人間の分泌から出る不快な匂いは全て取り除けたので、ひとまず満足はしている。
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清潔にし、取って付けたみたいな笑みを顔にりつけたって、から滲み出る自信のなさはどうしようもできない。ユゼフをかすのは強い使命だけだった。
自分がやらねば、シーマは死ぬかもしれない──ただ、それだけの気持ち。
シーマが回りくどいやり方でメッセージを送ったのは時間がないゆえ。
そんな伝え方をしなくても、援軍要請をしてほしいと直接書いてヴィナス王にサインさせれば済むことなのに。恐らくヴィナス王を説得出來なかったのだろう。
グリンデルと鳥の王國の関係は現在安定しているものの以前は敵対していたし、腹違いの姉に依頼するのをヴィナス王が嫌がったのかもしれない。既に國王は亡くなっているわけで、勝ち目がないなら降伏を選ぼうとする可能もあった。
何よりヴィナス王と謀反人イアンは従兄妹である。
い頃、彼がイアンを慕っていたのをユゼフは知っていた。ヴィナス王はイアンと爭いたくないはずだ。
ユゼフは言う臺詞(セリフ)を必死に口の中で復唱した。考えた臺詞に効果があるかは分からないが。
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シーマならこういう時、上手い合に切り抜けるのだろう。優雅で腰らかなシーマはの心を摑むのも上手かった。
シーマのしく完璧な所作や喋り方を思い浮かべようとするのだが、なぜかガサツで暴なイアンの姿ばかり脳裏に浮かび上がる。
「先ほどは考え事をしていたために無禮な態度を取ってしまい、申し訳ありませんでした」
「おまえを許す気はない」
ディアナは立ち上がるとユゼフの右の辺りを蹴飛ばした。
「う、う、う、」
「何なの??」
「う、う、しいディアナ様……」
ようやく言うことが出來た。
貴族はに対して形容詞を付けることが多い。ユゼフはの容姿を褒めたり、おべっかを使うことに全く慣れていなかった。
「お前が侯爵になるなんて、ほんと笑っちゃうわ」
ディアナはふんと鼻を鳴らした。
「……どうしても、お許し頂けないでしょうか?」
ディアナの態度は室した時よりも、気持ち和らいだかに見える。とはいえ、願い事を聞きれてもらうには道のりが長そうだった。
「お許し頂けるのなら、ディアナ様のむことを何でも致します」
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ユゼフは不安を抱きながらも言った。友人の、いや主君の命がかかっているのだ。
馬になれとか犬になれとか、飛び降りろとか、火に飛び込めとか……今までもやったことはあるし、容易(たやす)いことだ。何でもいいから、かかってこい!──とそんな気持ちだ。
案の定、ディアナは意地悪な笑みを浮かべた。
「……そうねえ。じゃあ、お前の汚い亀をこの城の一番高い所から地面に落としてみてちょうだい。どうなるか見てみたいの」
「……」
「ねえ、お願いよ。何でもしてくれるんでしょう」
「……それは、出來ません」
ユゼフの顔が強ばるのを見て、ディアナはし慌てた。
「噓よ。冗談」
しばし、気まずい空気が流れる。
ユゼフは自分自に対してならどんなに酷いことでもけれられる。が、大切なものを傷つけられるのは絶対に許せない。
子供の頃、ディアナが亀(アルメニオ)にワサビを食べさせたことをユゼフは思い出していた。
「……本當に何でもしてくれるの?」
沈黙を破ったディアナの頬は赤らんでいた。
「はい」
何を考えているのか、ディアナはまた黙りこんでしまった。どうせまた碌(ろく)でもないことを考えているに違いない──ユゼフはそう思った。まあ、我がに降りかかる災難なら多のことは耐えられる。
ユゼフはディアナが口を開くのを辛抱強く待った。
「じゃあ、キスして」
唐突に出た言葉を聞いてユゼフは耳を疑った。
「顔を上げて、私のことを見てちょうだい。キスしてくれたら、おまえのことを許してあげるわ」
顔を上げるとすぐ近くにディアナの顔があった。しゃがんでユゼフの顔を覗きこんでいる。
ユゼフは顔が熱くなるのをじた。きっと今おかしいくらい赤面しているに違いない。
「で、では、お手を……」
手にキスをするなんて、義母にしかしたことがない。
「違う。手ではないわ」
ディアナは首を橫に振った。
『じゃあ、どこにしろというのだ?』
ユゼフは困した。
視線は自然とディアナの元に注がれる。
『……いや、そこは絶対にありえない』
次に視線はディアナのぷっくりと膨らんだ赤いへ移する。
『……まさか?……いや、これは間違えると生死に関わる』
正解はどこか……
桃に紅している頬、小さく尖った鼻、きりりとした眉、細くなめらかな首……
今までこんなに間近でディアナの顔を見たことはない。その間もディアナはずっとユゼフを見つめていた。
時間は止まったようにもじられたし、永遠に終わらないようにも思えた。
俄(にわか)。
ユゼフはディアナの首に手を回すと、額にをつけた。がれた時間は一秒にも満たない。ユゼフはすぐさま彼から離れた。
それは一瞬の出來事で、終わった後のディアナは呆然としていた。
「お許しいただけますでしょうか?」
ぼんやりしていたディアナは、夢から覚めたかのようにハッとしてから頷く。
「どうしても、やって頂きたいことがあるのです」
ユゼフはやっと本題を切り出すことができた。
「これは妹君ヴィナス様、ミリアム妃殿下、國王陛下の命にも関わることです」
ユゼフはしゃがんだままのディアナへ視線を送った。ディアナはまだぼんやりとしている。
「ヴィナス様の文にもある通り、今現在、鳥の王國は非常に迫した狀況です。海の領主の多くが謀叛人イアン・ローズに味方しました。兵力の差は五分と文にありましたが、実際はもっとだと思います。海では國王陛下に対する不満が多いのです。
王連合軍は占拠された王城の周りを囲んでいるとありました。しかし、突破されるのは時間の問題です。何故なら王城の西ヴァルタン領は敵の手に落ちているからです。西と背後の海、更に北のローズ軍も加われば、ヴィナス様のおられるシーラズ城は挾み撃ちされます。包囲は簡単に破られるでしょう。それを回避するには……」
「ちょっと待って。難しいことは分からない。一、何の話をしているの?」
ディアナは眉間に皺を寄せた。
「グリンデルのナスターシャ王に文を出してしいのです。援軍を國王陛下の元へ送るようにと」
「なぜ? シーバートがそう言ったの?」
「……いえ。シーバート様は何もご存知ありません」
「でも、どうしてあなたが?」
ユゼフは下を向いた。これ以上は無理だ。どうすれば、彼は言うことを聞いてくれる? どうすれば……
ユゼフは無意識に左腕の傷をっていた。
『誰かにものを頼む時は相手の目を見て、視線をかさないようにする』
シーマが以前にそう言っていたことを思い出した。シーマの言葉には強い力がある。暗示の言葉は希を與えた。
ユゼフは顔を上げ、真っ直ぐにディアナの目を見た。
「シーバート様は関係ありません。國王陛下がお亡くなりになりました」
「何ですって?」
「シーバート様はディアナ様を気遣ってまだこのことは伝えない方がいいと」
ディアナは絶句した。
「陛下が亡くなったことが國に広まるのは時間の問題です。そうなれば諸侯達の多くがイアンにつくことになるでしょう。兵力の差は歴然です」
「……もし、もし、イアン・ローズが王になったら私はどうなるの?」
「恐らくは……」
「やめて。言わないで!」
ディアナは揺し始めた。
「グリンデルに文を書いてください」
ディアナをじっと見つめる。
「あなたの言うことを信じていいの?」
ユゼフは頷いた。
「今までディアナ様のことをお守りしてきました。これからも命を掛けて守ります。どうか、信じてください」
ユゼフは長い時間、無言でディアナと見つめ合っていた。
子供の頃から知ってはいるが、こんなにも長い時間お互いの顔を見つめ合ったことはない。
言葉を失うとはまさにこのことだ。
しいのは前から知っていた。だが……形容し難い。言い表そうとすれば、全ての言葉は陳腐としかじられないだろう。
──まるで神のようだ
思考を止めるくらい甘い時間が過ぎ、ディアナの瞳から不安や疑いは消えた。
「分かった。あなたを信じる」
ディアナは頷いた。
肩から力が抜けていく。ユゼフは息を吐いた時に両手を床についてしまった。
──まだ、まだだ。安心するのはまだ早い
「謝します。文面は私が考えますので。王陛下はご存知かもしれませんが、壁を通れる場所のことも書かないと。大の位置は分かります」
恐らくはシーマがディアナを連れて行くようにと申し付けた場所。グリンデル王國、魔の國、鳥の王國、この三國の境界がわる場所……
問題は文をどのようにして屆けるかだ。
初めての場所には使えない。
ディアナの傍を離れるのは心配でも、ユゼフ自が行くしかないだろう。
※※※※※※※※※※※※※※
書き終えた文に封蝋を押した頃には夜の八時をまわっていた。
「ありがとうございます」
ディアナから文をけ取った後、ユゼフはごく自然に笑みをこぼした。とてもくたびれていたが、清々(すがすが)しい気分だ。何とか役割を果たすことができる。
シーバートにはレーベを探しに行くとでも噓を吐いて、早速ここを発とうと思った。
ところが、去ろうとした途端、後ろから強く腕を摑まれた。
「待って。行かないで」
振り返れば、ディアナが潤んだ目で見つめている。
「一人にしないでしいの。もうし、もうしだけこのままで……」
言うなり、ディアナは後ろから手を回してユゼフを抱きしめた。
いきなりだ。妹以外のから抱きつかれたことなど初めてである。こんなことをされたら息が止まる。
ユゼフはくにけず、前を向いたまま直した。ディアナはユゼフのだらりと垂れた手に指を絡ませ、握りしめた。
「こうしていると、あなたの心臓の音を、溫を、匂いを、呼吸をじることができる……」
ディアナは話し始めた。淡々と、時々気を昂(たかぶ)らせつつ、また抑揚を失い……いやに起伏の激しい話しぶりで──
私はずっと一人にぼっちだった。周りにいるのはバカみたいにおべっかを使う奴ばかり。私はだから、父も母も興味を持たなかったわ。ヴィナスとは仲が良かったけれど、兄達は私達を空気のように扱った。どうせ外に出される運命だからと諦めていたの。
勿論反発したこともあった。自分より弱い者を苛めたり、使用人達にもよく當たり散らしていた……あなたにも酷いことを……
服の上からでも、背中に彼の息遣いとのきをじとることができる。
経験がないのでどう対応すればいいか、ユゼフには分からなかった。
妹以外のとれ合う機會が全く無かった訳ではない。だが、どうせ宦になるだからと消極的だったのだ。
「ああ、あなたの瞳、とても深い藍をしているのね。何で今まで気付かなかったんだろう。とても素敵……」
ユゼフはが熱くなるのをじた。では沸騰したが暴れ狂っている。
「……いけません、ディアナ様」
掠(かす)れ聲で言い、ディアナに向き直る。
「私のような者は高貴なお方に相応(ふさわ)しくありません」
「どうしてなの? あなたはずっと自分より私のことを大事にしてくれた。カワウからモズへ向かう土漠で自分の食べや水を全部私に差し出してくれたでしょう。森では怪我をしてまで怪と戦ってくれた。ナフトでは私の為に盜賊と戦い、ここに來るまで傷が痛んでも私のことをおぶってくれた……ペペ、あなたは私のことをずっと守ってくれていたわ」
「貴をお守りするのは……」
「國王への忠義、とでも言うつもり? あなたにそんなものあるのかしら。私達、とっても似てるわ。親にのように扱われ、利用されて……でももう、その親はいない」
ユゼフはディアナの深緑の瞳を見つめた。彼の瞳は一片の曇りもなく、真っ直ぐにユゼフを見ている。手は握られたままだ。彼の指はらかく、そして冷たかった。
が締め付けられる。
『きっとこれは罪悪から來る痛みだ』
不意にドアをノックする音が聞こえ、ユゼフは弾かれたようにディアナから離れた。
荒々しいノックの音は何かが起こったことを予させる。
罪悪? 臆病風? どちらにせよ、甘い夢から逃げ出したかった。しかし、逃げ出さなくても、目覚めは向こうからやってくる。忘れていた現実が追いかけてくる。
ユゼフはすぐにドアを開けた。
ドアの前に居たのは、思いがけない人だった。シーバートでも、エリザでも、レーベでもない。
薄い鉄製の當てと肩甲をに付け、腳の上には汚れた編み上げブーツ。腰に剣。艶のある栗を無造作に束ねている。
そこにいたのは、男裝姿のミリヤ。
ディアナの可らしい侍。ディアナの代わりとなって、そのを差し出した。
盜賊に囚われているはずの哀れな娘がそこにいた。
ここまでお読み下さりありがとうございました。お気に召されましたら、ブクマ、評価してくださると幸いです。
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