《星の家族:シャルダンによるΩ點―あるいは親友の子を引き取ったら大事件の連続で、困する外科醫の愉快な日々ー》亜紀 Ⅱ
亜紀ちゃんを連れ、伊勢丹の中のフランスレストランへ行った。
その店はパリで老舗のパンを使っていて、大変に味しい。
俺はコースを頼み、アラカルトでラム・チョップを追加した。
亜紀ちゃんは再び張してきたようだが、炭酸水をちょっと飲むと落ち著いてきたようだ。
「石神さん、私、こんなお店で食べたことがありません」
「俺は食事というのは神聖なものだと考えているんだ。雑な食事を続けていると、人間は雑になっていく。食事はきちんと作ったものをきちんと食べることが必要だ」
「はい」
亜紀ちゃんは俺を肯定するしかない。
それは分かっている。
「そういえば」
亜紀ちゃんが口を開いた。
「昨日いただいたハンバーグはとても味しかったです。スープも、これまで飲んだことがないくらい味しかった…」
そう言うと、亜紀ちゃんは若干張をほぐしたようだった。
「三人も味しかったと言ってました。両親が亡くなってから、久しぶりに味しいと思えるご飯でした」
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「それは良かった。まあ、君たちは確かに辛いことがあった。だけど人生が終わったり停滯したわけではない。悪くなってもいない。これは君たちの運命なんだ。辛いことは確かだけど、それをけれなければならん」
俺の言葉に、亜紀ちゃんはちょっと辛そうな顔をした。
「「運命への」という言葉があるんだ。元々はマルクス・アウレリウスとかの後期ストア派と呼ばれるローマ時代の哲學者が提唱したものだけど、フリードリッヒ・ニーチェが多用したことで有名になった言葉なんだよ」
「?」
亜紀ちゃんには、何の話か分からない。
でも、真剣に聞こうとしていた。
「ラテン語で「アモール・ファーティ(Amor fati)というな。アモールというのは「」という意味。ファーティは「運命」だな。要するに、自分に來た運命を全てせ、ということだ」
「すごい言葉ですね」
亜紀ちゃんは必死で覚えようとしていた。
「人間に來る運命は、もう分かっていると思うけど良いと思われるものばかりではない。むしろ辛いもの、嫌なもの、時には暗黒面というような自分を墮としてしまいかねない激しく強烈な悪いものもある」
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俺は続ける。
「だけど、それを辛い、嫌だ、悪いとだけ思っていれば、運命はただのシステムでしかない。最高にできることは、ただ我慢する、というだけのものだ。分かるかな?」
「はい、よく分かります」
「それでは駄目だと言ったのがニーチェなんだよ。どんな運命でも、それをすることによって、人間に革新が訪れる、と。それをニーチェは「超人」と呼んだ」
難しい話になっているのは分かっているが、俺は止めるつもりはない。
「亜紀ちゃんは學校で歴史を習っているよな」
「はい」
「歴史って、何だと思う?」
亜紀ちゃんは咄嗟に応えられない。考えたこともないのだろう。
「人間がしてきたことの記録、でしょうか」
「それは亜紀ちゃんがこれまで勉強してきたことで、その通りだ。しかし、実は本當の歴史というのは違う。歴史というのは、運命へのを実現してきた人間の記録なんだよ」
「!」
亜紀ちゃんの中で何かが繋がったようだ。
「何年に江戸幕府が開かれた、とかはどうでもいいんだ。それは歴史に付隨する「報」に過ぎない。歴史の本質というのは、人間が人間の運命をけれて人間の使命をまっとうした、ということに他ならない」
「じゃあ、どうして學校ではそういうことになっていないんですか?」
「それはな、テスト問題にできないからなんだよ。テストというのは答えられなくてはならないものしかできないんだ。だから本當の歴史を知って「しました」なんていうのは駄目なんだよ」
「なるほど」
「だから読書が重要だ、と昨日も言ったんだ。実は世の中には答えなんか無いものの方が大半なんだよ。「これが正しいもの」なんていうのは、世の中には無いと言ってもいい。人間というのは、常に、死ぬまで考え続けなければいけないんだ」
「ちょっと難しいです」
亜紀ちゃんが困って言った。
「な、分からないだろう? だけど、そういうものこそが大事なものだと思っていればいいんだよ。本なんかも、分かるものを読んでもしょうがない。これが俺の読書論だ。まあ、本當は「俺の」というものではなく、過去から真の読書家は、そういう考えで本を読んできたんだよ」
「はぁ……」
丁度オードブルが運ばれてきた。
亜紀ちゃんに食べるように勧める。
並べられたフォークやスプーンなどの外側から使うように言うと、亜紀ちゃんは俺の真似をして食べ始めた。
「ゲーテは知っているよな」
「はい」
「ゲーテの『ファウスト』は世界最大の文學の一つだ。これまで『ファウスト』の研究書は膨大に書かれているけど、『ファウスト』を理解した、という人間は一人もいない」
「そうなんですか!?」
俺は亜紀ちゃんを見ながら、フォークの先でテーブルを三回叩いた。
亜紀ちゃんが意味も分からずにそれを真似する。
「おい、何やってんだ。恥ずかしいだろう」
「えぇー!」
亜紀ちゃんが俺を睨んだ。
俺は笑った。
亜紀ちゃんの張がほぐれた。
「だから大文學なんだよ。人間が一生を注ぎ込んでも、まだまだ底が知れないというな。つまり、死ぬまでその深さをたどることができる、ということだ」
亜紀ちゃんは、俺をじっと見ている。
「その大文學だけどなぁ、みんな「未完」なんだよ。ゲーテもそれほどの文學を書きながら、尚もまだ書き盡くせなかったんだ。『ファウスト』は、第一部、第二部とがあるよな」
「そうなんですか」
俺が頭の脇で指を回すと、亜紀ちゃんが笑った。
「ゲーテは最初に『ウル・ファウスト』を1797年に書いた。48歳のときだ。それから1806年に『ファウスト 第一部』を発表している。57歳になっている。さらに『ファウスト 第二部』は1831年。82歳だよ。當時としては大変な長命だったんだな」
「へぇー、そうなんですね!」
「もう壽命は盡きようとしている。実際そこで死んじゃうんだよな(笑)」
「アハハハハハ」
亜紀ちゃんが乗ってきた。
「実はな、ゲーテは第二部を書き上げてから、もう第三部の構想を練り始めているんだよ。それは弟子のエッカーマンの手記にはっきりと書いている。ある日、嬉しそうにエッカーマンに第三部の構想を話しているんだ」
「それって、自分が死ぬことを考えていなかったということですか」
「そうなんだ。ゲーテは常に作品を書く、という「點」しか持っていなかったということだな」
亜紀ちゃんは深くしていた。
ここで俺はさらに畳み掛けた。
「じゃあ、亜紀ちゃんに問題だ。このゲーテの生き方から、人間の最も重要な點を述べよ」
亜紀ちゃんは考え込んで、食事の手が止まる。
「おい、スープが冷めるぞ?」
俺は笑いながら、亜紀ちゃんの考えを待った。
「人生は間違ってもいいんですよね?」
「ああ、その通りだ。それもまた人生で重要なことの一つだ」
「じゃあ、答えです。死ぬまで何かを求め続ける、ということでしょうか」
「50點だな」
「えぇー!」
亜紀ちゃんはし悔しがった。
「人生では、何かをし遂げる必要はまったくない、ということなんだよ」
「あぁー!!!」
「靜かに喰え!」
「アハハハハハ!」
亜紀ちゃんが大きな聲を上げて笑った。
「どうだ、驚いたか!」
亜紀ちゃんはまた笑った。
すっかり、食事の張は無くなっていた。
「パンも食べろよ。ここのパンは味しいからな」
亜紀ちゃんは何種類も乗ったパンに手をばす。
俺に促され、バターの包みを開き、パンに塗っていく。
コース料理に臆さなくなってきた。
「ちょっと聞きたいんですが、どうして私たちは學年のトップ10にらなければいけないんでしょうか」
「それはな、「役目を果たす」ということなんだ」
「どういうことですか?」
「「運命への」を実現するためには、目の前にある「自分がやらねばならん」というものに全力で取り組む必要があるんだよ。そういう生き方ができて、初めて運命をけれて、さらにすることができる人間になるんだ」
亜紀ちゃんは深いため息をついて、ぐったりした。
「そうかぁー。そういうことだったんだ」
メインの料理がきた。
二人とも、スズキのポワレにしている。
「ポワレって分かるか?」
「當然分かりません!」
「ポワレというのは、フォン、まあ日本料理の出だな。それで蒸す料理だったんだが、今ではもっと重要な調理法がある。それは「アロゼ」というんだよ」
「あろぜ」
「アロゼというのは、熱した油をスプーンなどですくって、食材の上からかけてやる調理法なんだ。そうやって下からの熱ばかりでなく、上からも熱してやって、食材を均等に調理するというフレンチの手法なんだよ」
「へぇー」
「でも魚でも、また野菜料理なんかにも応用できるものだから、覚えておけよな」
「それって、もしかして……」
察したか。
「ああ、徐々にだけど、お前たちには家事全般をできるようになってもらうからな。男でもでも、子どもでも大人でも、料理くらいできるようにならなければならん。もちろん他の家事もそうだけど、料理は一番重要だと思ってくれ」
「はい、分かりました。石神さんにお世話になるんですから、私たちで家事は全部引きけて當然だと思っています。もちろん今はまだ全然ダメダメですけど、必ずそうします!」
「そうか、それはよろしく頼む。まあ、おいおいでいいからな。しばらくは不味くても言わないでおくよ」
「アハハハハハ!」
俺たちはその後も幾つか話題を変えながら食事を楽しんだ。最初は何も口にらないような亜紀ちゃんだったが、なかなか楽しんでもらえたようだ。
駐車場に向かい、車に乗り込むと亜紀ちゃんが言った。
「あ、私に買ってくださった服は取りに行かなくてもいいんでしょうか?」
「仕立て直しに數日かかるからな。店で直すわけじゃないんだよ。契約している仕立て業者とかに渡して直すんだ。俺のスーツなんか、わざわざイタリアで作ってくるんだから、半年待ちだよ」
「私、恥ずかしいこと言っちゃいました?」
「まあ、ちょっとな」
俺たちは笑って車に乗り込んだ。
帰りの車の中で、亜紀ちゃんは引き取ってもらって、ということは言わなかった。
買った服が素晴らしかったことと、料理が味しかったことを話していた。
亜紀ちゃんは未來に向けて、輝く顔を見せていた。
読んでくださって、ありがとうございます。
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