《高校生男子による怪異探訪》30.言霊という力
ここから永野視點に戻ります。
何気なく呟いた一言。そうであればいいなと願った、本當に些細な言葉がその通りに葉うのだと気付いたのは一いつの頃だったか。
折角の遠足に雨が降り出した時、目の前を飛ぶ綺麗な蝶に目を惹かれた時、気にりのおもちゃが他の子供に取られて悲しかった時。
そんな時は『こうあればいい』と願いながら小さく小さく言葉に出す。『晴れますように』、『指に止まりますように』、『あれが自分のになりますように』。
そうやって呟いた願いは全てその通りに葉った。空は晴れて遠足に行けて、蝶はわれるように自分の指先に止まり、おもちゃは様々な理由で以て己の元にとやって來た。
普通ではなかっただろう。あるいは酷く幸運に恵まれる子供に周囲には見えていたかもしれない。周りの大人たちは皆、時折首を傾げることはあっても特に疑いの目を向けてくることもなかった。同年の子供も羨ましがっても不思議に思うことはなかったんじゃないだろうか。
ただ、俺だけが願いが葉う方法を理解していた。
これが普通のことではないなんて小さかった俺は疑うことすらしなかった。言霊の力はあまりに當然のように俺に備わっていて、心が著くか著かないかといった時分にもう発現していた力はそれこそ呼吸をするのと一緒、立って歩くのと一緒で當たり前のように傍にあるものでしかなかった。むしろ人間はこうやって自分のみを葉えているのだと思い込んでいたくらいだった。
周りにいる子供が自分の思い通りに事が運ばないことに癇癪を起こす度、それなら呟けばいいのになとぼんやりと考えていた記憶が、當時を思い返せば記憶の引き出しの片隅から今でも引っ張り出せる。それくらい子供であった俺にとっては疑いも訝しみもなく、言霊の力はただの自分の腕の延長でしかなかったんだ。
特別でも不思議でもない。當然にあるものと思っていた力への印象は、しかし小學校への學を機に世界が広がると共に當然でなくなった。周りが教える“常識”との間で徐々に違和が浮き彫りになっていったがためだ。
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何せ、誰も願いを口に出して葉えようとはしないんだ。大人も子供も皆一緒だ。誰しもが目の前の現実に大小不満を抱えていようとも、その不満を解消するために言葉を発しようとはしない。いや、文句なら吐き出すのだ。でもその言葉は力を発揮せずにただの不満を象って空気に溶けて消えるだけだ。誰も俺のように現実を都合良く変えようとはしなかった。
己は特別なのだと、理解するのは早かったと思う。皆やらないのではない、出來ないのだと自然と察した。願いを形に出來るのは俺だけ。その優越に子供だった俺は酔ってしまった。
優越なんて言葉も知らずに、だが子供ながらに確かな得意気をじて俺は調子に乗った。俺だけが特別になんでも葉えることが出來る。漸く自我も明確な形になろうとし出す年頃に、『特別』なんて線引きされた概念は毒にも等しく心を浸食した。
授業では指名などされないように、給食では最後の一個のプリンが己のになるように、學校の席は仲の良い友だちと近くになるようにと俺は言霊を実に都合良く利用した。
まだ小學校に上がったばかりの子供だ。葉える願いなど今から思えば本當に些細なもので、専ら子供の我が儘の延長の願ばかりを葉えていたように思う。元より頭もそう良くはない。機転を利かせて己の持つ力を最大限に活かす、なんてより悪辣な形での言霊の使用を行えなかったことは不幸中の幸いではあったのかもしれない。
だが、小さな願の結実であっても回數が増えれば當然違和は大きくなる。運に恵まれていると片付けるには偶然が過ぎる俺にとって都合の良い結果の連続、それに最初に疑いの目を向けたのは実の父親だった。
考えれば當然だろう。俺の傍にいてよくよく様子やその向を見ている人間と言えば父か母になる。まるで俺を中心に世界が回っているかのようなご都合主義にもほどのある出來事が連続して起これば、傍で見ていて違和や疑問を抱くのは自然なことであったと思う。世の中そんなに甘くないと実さえも抱いている大人ならば尚更に。
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始めは我が子の幸運振りに自分のことのように喜んでいた父さんも、次第に首を傾げるようになり眉を潛めるようになり、やがては疑いの眼差しを俺に注ぐようになった。父さんからすれば続き過ぎる偶然は、単なる幸運などでは片付けられない不審な出來事と捉えざるを得なかったのだ。
『真人……』
記憶の中の父さんは何と言っていいのか、実に複雑な表を俺に向けていた。問い質したいような、あるいは咎め立てたいような。
父さんとしても俺が行っていることを正確には把握していなかったのだろうと今は思う。不可思議なことが俺の周りではよく起こり、だけどそれが何故起きているのか、原因は誰にあるのかをなんの説明もなしに察するのは難しいものがあったはずだ。
言霊なんていう概念は使用者であった俺でさえ知りもしなかったんだ。當時、父さんが真実に辿り著く可能は何事もなければほぼゼロに近かったはずである。
そう、何事もなく、俺も本當に些細な日常の中のを葉えるだけに留めていたのなら、いや、そもそもそこで言霊の使用を止めていたのならあるいは。
父さんの無言の眼差しの意味を完全に理解していなかった訳でもない。じっと押し黙りこちらを見つめる視線の重さには子供ながらにも気まずさをじてはいた。恐らくは言霊、自分だけが使える特別な力を気にしているのだと察してはいたのだ。
時折、自分の非を咎められることを回避するためにも利用していたので、単純な思考しか持てなかった俺はきっとズルをするなと言いたいのだとばかり思い込んでいた。
確かにズルだ。その自覚はある。自分にしか使えない力を用いて自分にとって都合の良いように結果を導くのは卑怯以外の何者でもないはずだ。
だが、後ろ指を指される行いであったとしてもこれほど便利な力に肩まで浸かっていてそう簡単に手放せるはずもない。咎められる恐怖と気まずさと、すっかりと慣れてしまったぬるま湯との間に挾まれた俺は、結局は言霊を使用する頻度こそ下げはしたものの変わらずにこっそりと都合良く事実の改変は行い続けた。
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見付からなければ怒られはしない。そんな淺はかな思い込みを馬鹿みたいに信じて、そして実際に頻度を落とせば父さんが複雑そうにこちらを見る機會だって減った。
だからこれで良かったのだと錯覚した。怒られなければ許されたも同義。そんなはずもないのに。責任だとか常識だとか倫理とか、そんな己の中の善悪の基準も未だ曖昧だった俺は、俺自への歯止めをすっかりと弛めてしまったままに突き進んだ。
俺がむ以外の変化もなく數年は穏やかな日々が続き、あっという間に三年生へと學年も上がったある日のことだった。
飼っていたペットが死んだ。小學校の學を機に我が家に迎えれた小さなハムスターだった。まだ子供の俺の手の平にさえすっぽりと覆えるほどに小さく、ふわふわとした白と茶のを持った小さな生きだった。
ハムスターの壽命は短い。二、三年の命であるとはあとから知った。我が家のペットも他の個と同じだった。俺の學と一緒に我が家にやって來たハムスターは、俺が三年生に上がるのを切っ掛けに実にあっさりとその生涯を閉じたのだ。
いつものように餌をやろうとケージを覗き、そこでピクリともせずに地面に橫たわる姿を見付けた。見付けた時には眠るように息を引き取っていた。もう死んでいた。
近に、しかも可がっていたペットの死だ。それはショックもけて信じられないと呆然となったことを覚えている。両手に収まる小さな。生きていた頃のままにその纏うはふわふわと手の平の皮をくすぐるが、でもそのの奧のはすっかりと冷たくくなってしまっていた。
生きていた頃にじられたほっとするような暖かさとらかさはどこにもじられない。『死』なんてよくよく意識も理解もしない子供でも、手の平の上にあるものが生きていないことはまざまざと理解も出來た。
生きはいずれ死ぬ。ハムスターを飼う際に父さんと母さんに言われていたことだ。二人は當然ハムスターが短い壽命で死ぬのは理解していたのだろう。俺がいずれペットの死と向き合うのも考慮にれて事前に忠告をしていたのだ。
あるいは、そうやって『命』というものを俺に理解させる腹積もりであったのかもしれない。教育として『死』という概念をまだい息子に示そうとしたのかもしれない。
よくある話だ。ペットを通じ命の大切さを子に教える。普通であればこの出來事は、大切なものに訪れた『死』というどうしようもない別れをさせるだけのただの苦い記憶となるはずだった。
でも、俺には普通ではない力があったから。よくある話もただの別れでは済まなくなってしまった。
冷たい小さなを手の平に乗せて、ピクリともかずに目を閉じたままであるそいつに子供の俺は深く深く願いを込めて告げた。『生き返りますように』と。
願いは、幸いにして葉うことはなかった。全てを口にする前に父さんに見付かり止められたからだ。父さんは俺が何かしでかすかもしれないと踏んで見張っていたのではないだろうか。俺の兇行を止めにった時の父さんは本當に迅速で、だからこそ手の中の死はもう一度き出すこともなかった。
『真人!!』
怒鳴り付けられ、暴に肩を摑まれ揺さぶられ、そして無理矢理に顔を上げさせられた。見上げた父さんの顔はそれまで一度も見たことのない厳めしく強張った形相をしていた。
『お前、今、何をしようとしていた?』
父さんの纏う気配に怯む暇もなく問われる。低い聲は怒りをわにしているように見えた。
問う形態を取ってはいてもこの時父さんは俺がやろうとしていたことを恐らくは正しく理解していたのだと思う。だからこそああも必死に止めにったのだろうし、浮かべる表だって真剣で懸命に俺の為そうとしたことと向き合おうとしてくれていたのだと今なら思える。
だが、この時の俺はそんな父さんの気持ちなんて察することも出來ず、ただペットを助けるその邪魔をされたと憤りしか抱いていなかった。
『……なんで、邪魔するの?』
『……真人……』
『どうして邪魔するの! 僕は、生き返らせたいだけなのに!』
んだ俺に、父さんは顔を顰めてただ見下ろしてきた。普通なら子供の夢と現実の區別の著かない戯れ言と切って捨てられていただろう。でも真実俺はそれを為すことが出來て、そして父さんもそれを知っていた。
『……駄目だ、真人。それは絶対にしちゃいけないことだ』
當然のように止められて、そして俺も止められる理由が分からずに反抗した。
『なんで!? 僕なら出來る! 僕なら死んだことをなかったことに出來るよ!』
『……死んだことをなかったことになんてしちゃいけない。人は、生きは皆命を手放したらそれまでなんだ』
『そんなことない! 僕はまだ離れたくないもん! まだ一緒にいるんだ!』
頑是ない子供の我が儘だ。離れたくないと別れを惜しむ気持ちに、その別れをなかったことに出來る力があると理解していたから。願いが葉えば問題はなくなると、そう純粋に心から信じていた。
ただ泣き喚く子供よりも余程俺は厄介なものにり果てていたと冷靜に振り返られる。死んだものも生き返らせることが出來る。そんな世迷い言を真実として話す子供を、更に言えばそれが単なる虛言ではないと知っていた父さんがどんな気持ちで向き合おうとしてくれていたのかは、今でも俺は想像することだって出來やしない。
人として當然の倫理や道徳などもまだ不充分にしか備わってなくて、突然の別れの衝撃と悲しみに呑まれて自分のに頭が一杯になっていた俺と父さんの攻防は激しく続けられた。多分一番の大喧嘩だったんじゃないだろうか。懸命に命について語る父さんの聲を俺は聞きれることがなく、意見は平行線のままに進み、やがて。
『いい加減にしないか、真人!!』
パシリと頬を打たれた。極軽く、恐らくは俺を正気付かせることが目的の一打ではあったのだと思う。頬に走った衝撃に思わず呆然となった俺の肩を摑んで父さんは言った。
『いいか。命は、簡単に死なせたり生き返らせたりしてはいけないんだ。死んで離れることが辛いと思っても、だからって引き戻すようなことだけはしてはいけない。それは命を大切になんてしてない。自分の我が儘でただ好き勝手に弄くっているだけなんだよ。命は、そんな軽々しく扱って良いものではないんだ!』
懸命な、本當に懸命な説得だったんだろう。父さんは俺に命の大切さを教え込もうとしていた。俺の力は本當に簡単になんでも葉えてしまう。本來、生きることは非常に大変で一度失った命は二度と取り戻せない。不可逆のものだからこそ皆生きるのに必死になるし失われた命を大切に思い続けることだって出來る。
でも、言霊はそんな不文律だって変えられるから、きっと父さんは俺の命への認識が歪むことを警戒したんだと思う。俺が手軽に命を扱った果てに、命の価値自を軽く見なしたりしないよう必死に正そうとしてくれていたんだろう。
でも、そんな父さんの想いを俺は無礙にした。初めて親に叩かれて、そして自慢にも思っていた自分の力を否定されて、良いことだと、死んだ命を取り戻すことが悪いことだなんて思わなかった俺はただ父さんに突き放された気だけがして、苛立ちと悲しみのに心の中をぐちゃぐちゃに荒らされて気付けばそれが口から飛び出していた。
『……なんで、なんでそんなこと言うの。なんで駄目なの、いけないってどうして。僕は悪いことしてないもん。死ななかったら離れなくてもいいのに。良いことなのに。なんで邪魔するの。……僕は悪くない。邪魔する父さんの方が悪いんだよ! 僕は悪いことなんてしてないもん!』
父さんへの反抗心と理不盡を突き付けられたと思ったその怒りが衝となってびになった。
『父さんなんか嫌い……! 僕の邪魔する父さんなんか、死んじゃえばいいんだ!』
わっと泣きび制止する父さんの聲も無視して部屋に駆け込んだ。この時の俺はがぐちゃぐちゃになってしまっていて正直に言えば自分が何を口走ったのかもよくよく理解はしていなかった。ただ心の荒れ狂うに任せて癇癪を起こし、その荒れた心を父さんにぶつけた。
父さんは何度も俺と話をしようと部屋の外から呼び続けて來たが、結局俺はこの日父さんと話し合う処か部屋から出ることもせず、仲直りも出來ないままに次の日を迎え。
そして翌日。父さんは通事故に遭い死んだ。
父さんが亡くなった直後のことはあまり覚えてない。いつもなら見送る背を前日の喧嘩を引き摺って見送らずに學校に行き、そして普段通りに過ごしていた途中で急に呼び出しを食らって迎えに來た母さんと一緒に病院に向かって。
そこで、病院の一室で布を掛けられた父さんと會って。そこから先はブツブツと場面だけの途切れた記憶しか殘っていない。
母さんやいろんな人たちが寢ている父さんの傍に寄って。泣き聲や話し聲、慌ただしく行きう足音なんかが耳にって來て。
でも、どれもガラスを一枚隔てたように遠かった。俺はじっと橫たわる父さんの耳の辺りを凝視していた。殘る頭の中の映像はだって褪せていて、真っ白な布を掛けられた父さんのはが移ったように白かったのを覚えている。
ピクリともかなかった。臺の上に橫になった父さんの姿は何かを思い出させた。じっと石のように固まってかない。不意にハムスターのようだと思い浮かんだ。俺の手の中で固まったままできもしなかった、あの冷たいを思い出した。
同じになったのかと、他に何も浮かばない頭でぽかりと水面に浮き上がるようにその考えだけがプカプカと漂っていた。
気付けば見える景は黒と白だけになっていた。傍には母さんがいて涙を必死に堪えながら俺の手を握り締めている。いろんな人たちがやって來て、父さんが寢ている前に立ち寄っては頭を下げたり拝んだりしていた。
ぼんやりとそれを見ていて、そして不意に「ああ、お別れをしているんだ」と理解した。皆死んだ父さんと別れを告げるために寄っていって話をしてるんだなと思った。死んだらもう會えないから。これが最後の機會なんだと。
嫌だと思った。死んだら會えない。そこで俺はやっと事態が飲み込めたんだと思う。父さんが死んだ。だから葬儀を行った。その葬儀の最中にやっと父親が死んだことを自覚したんだ。
離れたくない。死んだらお別れだ。一緒にはいられない。それが嫌で、だから俺は父さんも生き返らせようと願いを口に出そうとした。そうすれば皆喜ぶ。お別れをしに來た人たちも皆父さんと別れるのが嫌だからこうして會いに來たんだ。母さんだってきっと喜ぶ。父さんが帰って來てくれたらきっと。
『母さ……』
そうだろうと、自分の行を肯定するために見上げた母さんは、ハンカチで目元を押し隠しながら懸命に嗚咽を堪えていた。いつも元気で笑顔を絶やさない母さんが今まで見たこともない深い悲しみに沈んでいるのを俺はこの時初めて見た。
なんで母さんがこんな顔をしているのか。なんでこんなに悲しげなのか。それは父さんが死んだからだ。死んだら悲しい。會えない。話せない。だから泣いている。父さんが車に轢かれて、そのまま死んじゃったから。事故に遭ってしまったから。それで父さんは死んで。
……本當にそう?
どこかで、誰かが囁いた聲を聞いた、気がした。それは自分の聲だったのかもしれない。
父さんは死んだ。車に轢かれて。當たり所が悪くて失った意識は回復しないままに息を引き取った。通事故に因って命を落とした。事実はそんな風に語られた。
でもそれが正しいのか? 俺は俺が父さんにやってしまったことを覚えている。父さんが死ぬ前日、俺は癇癪に任せて酷い言葉を投げ付けた。なんでも願って口にしたことは葉うと理解していたその言葉で、俺は一最期に何を口にしたのか。
僕の邪魔する父さんなんか、死んじゃえばいいんだ。
あ、と思った。自分が投げた言葉を思い出し、その意味を理解して、それからあ、ともう一度溢した。
そうだ。父さんは通事故に遭ったけどそれは願いが葉ったからだ。いつものように強く願いを込めて口にして、だからその通りに現実になった。車に撥ねられて頭を打って、そして病院に運ばれたけど治療の甲斐なく意識を失ったままに、そのまま。
父さんが死んだのは、俺がそう願ったからじゃないか。
理解して、同時にからザッとの気が引けてなのに汗が噴いた。ドッと強く鳴る鼓がまるで耳鳴りみたいに鼓をどんどんと打ったのを覚えている。
俺が願ってそれが葉った。だから父さんは翌日、事故に遭い死んだ。簡単な因果だ。俺が散々に言霊を利用してきたこれまでと同じ帰結だ。俺が願い、そして父さんを殺した。それだけのことだった。
人殺しはいけないこと。それくらいの倫理は當時の俺にもちゃんと付いてはいた。
人としてやってはいけないことは多數ある。その中でも人の命を奪うことは忌の最たるものだ。授業で、家庭で、テレビや本などでも散々に學べる基本的な道徳だ。
それを為した。怒りに任せて衝のままに願って。人としてやってはいけないことをしてしまった。悪いことをしたのだと自覚した。最も人として罪の重い、『殺人』を犯したのだとその時に漸く自分のやったことを理解したんだ。
寒気や震えが酷かった。あるいはそれは“罪悪”や“後悔”が表れたものだったのかもしれない。癇癪に任せて人を、しかも父さんを死なせた。死んでしいなんて思ってもなかったはずなのに。起き上がらない父さんを見て喜ぶ気持ちなんて微塵も湧かなかった。それでも、もう父さんは死んでいた。
どうすればいいのか分からなかった。悪いことをしたなら謝る。基本的な償いの方法だ。だがやってしまったのは人殺しだ。とても悪いことである。謝ったからといって許されることなのか。
罪悪と保の狹間に揺られて、不意に自分がし前にやろうとしていたことを思い出した。生き返らせる。そうだ。自分なら生き返らせることだって出來るだろう。願えばなんだって葉う。これまでいろんな願いが言葉に出した通りに葉って來たんだ。なら父さんを生き返らせることも可能なはずだ。なかったことに出來るなら何も問題はなくなる。自分もきっと許される。
父さんを死なせて、そして今度は生き返らせられたら、何も問題はない。
――そんな勝手な願い、葉えてはいけないのに。
悪辣にもほどのある願いを口に出そうとし、しかし直前で言葉にはせなかった。父さんの聲が頭に過ぎったからだ。
――自分の我が儘でただ好き勝手に弄くっているだけなんだよ。命は、そんな軽々しく扱って良いものではないんだ。
あ、と思った。唐突に理解した。言われたその時には怒りに呑まれていて聞きれられなかった言葉も、この時にはどうしてかストンと心のに収まったようにその意味をけ取れた。
正にその通りだ。俺は命を軽々しく扱っていた。己のに任せて奪い取り、そして自分の罪をなかったことにするために元に戻そうとした。酷く軽い扱いだ。命を命とも思わない、単なる『』である扱いを俺は為そうとしていたんだ。
気付いてゾッと怖気が走った。それまでじていた寒気などそよ風に等しい。當時は理解しなかったが、この時にじた不快は俺自に対する激しい“嫌悪”であったのだろう。大切な、大好きなはずの父さんをそこらの石のように雑に軽くく、人形よりも尚酷い自分にとって都合の良いにと貶めようとした。そんな己の所業が何より気持ち悪かったんだ。
言霊はあらゆる願いを葉える。心からみ願ったのであれば天気だって人の意識だって、命だってなんでも自由に扱える。可能なんだ。しかし、出來るからやれると思うべきではなかった。
俺は神様でもなんでもない。偉い人間でもない。許されないことは當然許されない。願いが葉うからと全てを都合良くるのは間違いだ。可能であることは許されることと同じじゃない。それを、俺は全くと理解していなかった。
理解していないから俺は衝で父さんを殺し、やってしまったそのあとで元に戻そうとした。命だって自分の思い通りにれる。そんな傲慢を當然のように肯定して。許されざる行為は葉えられるからって許されないままであったのに。
俺はただ間違った。やり直しも利かない。父さんを生き返らせればなかったことになる? そんな都合の良い話があるはずもない。
俺が父さんを殺した。生き返らせたってこの事実が消えることはない。むしろ生き返らせればまた罪が増える。己にとって都合が良いようにと父さんの命を弄んだその罪が、だ。
もう傲慢にも程のある選択を、自分が間違っていたことを自覚した俺には採りようがなかった。
父さんの死を嘆いて悲しむ人たちを前にして、俺はやっと己のしでかしたことを自覚した。ギュッと俺の手を握り悲しみに耐えようとしている母さんのその悲しみを生み出したのは俺だった。沈痛な面持ちで最期の別れを父さんに告げる人たちのその最期を招いたのも俺だった。
取り返しの付かないことをしてしまった。目の前に広がる景が何よりの俺の罪の証だった。得意になり、力に傲り、そしてやっちゃいけないことをやってしまった。その結果がこの悲慘な事態を招いたのだと心に釘を打ち付けるように深く深く自戒することしか俺にやれることはなかった。
俺は人殺しだ。己の我が儘で人を、父を死に追いやった最低な人間だ。
言霊は萬能の力なんかじゃない。己のをそのままに発させる恐ろしい力だ。願えば簡単に他者に酷い害を與える。命だって失わせることが出來る。あまりに強力で、だからこそ簡単に頼ってしまってはいけなかった。
學んだはずだ。父さんを死なせて力の強さも自分の傲慢さも理解したはずだった。今度こそ誰にも害など與えないようにと己を律しし続けたつもりでいたのに。
なのに俺はまた失敗した。朝日に樹本たちに。知らず言霊の力を使って最悪なことにその意思をねじ曲げた。切っ掛けはきっと凍雨。あの時に、あの男にと言霊を使って己の中の戒めも緩んでしまったのだろう。
俺は何も変わらない。短慮で淺慮な子供の頃から何も変わらず、また自分のを葉えるために他者に酷いことをした。自分のも抑えられない、簡単に楽な方にと流れるどうしようもない人間だ。
あの悪魔とハヤツリと何も変わらない。自分が良ければ意思だって歪めてしまえる、酷い人間なんだ、俺は。
こんな人間が人から好かれるはずもない。俺が築いたと思っていたここ二年余りの他人との関係は、その全ては俺が勝手に夢見ていた己の願が形になっただけの醜いの結実でしかなかったんだ。
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