「それにしても……これはいかなることでしょう？

まるで、『死の大地』の中でここだけが切り取られたかのようです」

リンゴの滋味と果で活力を取り戻し……。

ようやくにも周囲を見回す冷靜さを取り戻せたウルカは、こんこんと水が湧き出す泉に歩み寄りながらそうつぶやいた。

その中に手をれながら、傍らへ付き従う初老の侍に目を向ける。

「バンホー、見てください。

先ほどまで、泥のにごりがあったのはあなたも見たはず……。

ですが今は、このように澄んで……」

話しながらすくい上げた水は、どこまでも明で清らかであり……。

見た目は人間の鼻と変わらずとも、嗅覚において、獣人の鼻ははるかにそれをしのぐ。

その鼻で嗅いでみてもなんら問題はじられず、実際、一口すすってみせたそれは……なんとも味く、まるで山中深くに湧き出す清水(しみず)のごとしであった。

「ふむ、短時間でここまで水の質が変わるとは……！

まるで、目に見えぬ何かが働きかけているかのようですな」

同じように泉の水を口にふくんだバンホーが、じっくりとこれを味わいながらうなずく。

「到底、人知の及ぶ出來事であるとは思えません……」

「ならば、ウルカ様。こう考えてはいかがでしょう？

実際、人知に及ばぬ存在がこれをしたのだ、と」

「どういうことです？」

首をかしげるウルカに、バンホーが重々しく語りかける。

「獣人國の王族最後の生き殘りであるウルカ様が、まさに力盡きようとしていたその瞬間、あるはずのない水場がその姿を現した……。

拙者はこれが、天のおぼしめしであるように思えてなりませぬ」

「それは……」

あまりに荒唐無稽(こうとうむけい)な言葉へ苦笑したウルカに、バンホーがいかめしい顔をしながら続けた。

「突飛な考えに思えるでしょう……？

ですが、他にどのような説明がつくというのです？

姫様、この泉も、あのリンゴも、天からの激勵に違いありませんぞ！

天はこう告げておるのです。

諦めること、まかりならぬ……！

なんとしてでも生き延び、獣人國の再興を果たすのだと……！」

気がついてみれば……。

ウルカの周囲を、ここまで付き従ってきた侍たちが囲んでいた。

先ほどまでは、大なり小なりその瞳に絶のを浮かべていたはず。

だが、今はそのような影など一切じられず……ただ希の火だけを、両の瞳に燈していたのである。

ただ水気(みずけ)を得て、元気が湧いてきたというだけではない……。

皆が皆、バンホーと全く同じことを考えているのだ。

「ウルカ様……！」

「我らもまた、同じ考えです……！」

「やりましょう！」

「我らには天の助けがありますぞ！」

自分のごとき小娘より、はるかに年かさの武人たちがこぞってそう言うのである。

思わずウルカも気圧(けお)され、同意の意を示してしまいそうになったその時だ。

『殘念ながら、その見解は間違っている』

聞いたこともない男の聲が、どこからか響き渡った。

「――これは!?」

腰の刀に手をかけながら、バンホーが素早く周囲を見渡す。

の全盛期はとうに過ぎていようと、その前は獣人國にその人ありと知られた武人だ。

同じように周囲を見回す侍の誰よりも早く、聲の出所を見定めた。

「あれは――魔か!?

いや……違う……だが……」

そ(・)れ(・)を見たバンホーが、眉間に深くしわを寄せる。

――百戦錬磨。

人と魔を數知れず切り捨ててきた彼も、これなる存在に心當たりはなかったからだ。

金屬とも、木材とも、獣皮とも異なる何かで構された飛行……。

手鞠(てまり)ほどの大きさがあるその球は、底部から不可思議なを発して上空に浮かんでいた。

『驚かせてしまったな？

だが、今のところ、こちらに危害を加える意図はないので安心してしい』

果たして、どこから聲を発しているのか……。

上空に浮かぶ球が、そのように言い放つ。

何者なのかは、全く分からない球……。

だが、武と言えば腰の大小のみであり、これなる存在に対する対抗手段を持たない侍たちは、ただただ構えながら話を聞く他にないと思われた。

それを打開したのは、やはりバンホーである。

「……察するところ、離れた場所から人の聲を屆ける類(たぐい)のと見ける」

古人いわく、亀の甲より年の劫……。

異常な存在に対し、持てる知識の全てを員した推測を語る。

獣人は種族として魔との親和が低く、それがゆえ、獣人國の出者は魔に対する知識にとぼしい。

それが逆に、理解のできぬことはすなわち魔であるという等式を、彼にもたらしていたのだ。

『ではないが、やっていることは似たようなものだ。

こちらでは、あなた方の姿も確認している。

ファイン皇國からの逃亡者とお見けするが、その見解で間違いはないか？』

「間違いはない……。

ない、が、姿を見せず一方的に語りかけるのは非禮であると心得ている。

やましきところなくば、どうかその姿を現されよ！

さすれば、我らも堂々と、名と分を明かしましょうぞ！」

「バンホー……!?」

名と分を明かす……。

その言葉に、亡國最後の姫君であるウルカは小さくそうつぶやく。

だが、バンホーは主君の方を振り返りながら、

「ウルカ様……ここは拙者にお任せ下され」

相手に聲を拾われぬよう、小聲でそう告げたのである。

――賭けに出ようとしている。

その事実を察し、ウルカを始めとする周囲の一同が張にを固くした。

もしウルカが、獣人國最後の姫君だと知ったならば……。

いまだ姿が分からぬ相手の対応は、大きく二つへ別れることになるだろう。

すなわち、皇國へ売り渡すか、あるいはウルカを保護するか、である。

この相手が何者であるかは分からぬが、『死の大地』にを張っている……張れる相手であることは間違いない。

ならば、それに対し、この水場がなければ行き倒れて終わっていたであろう自分たちが、能的に取りうる選択肢など最初から存在しない……そう見定めた上での賭けであった。

年若き主君を保護してくれるならば、これは天の助け……。

逆に、これを皇國へ売り渡そうとするならば……刀を頼りに、どうにか道を切り開くのみ。

初老の侍が下した結論は、言葉を介さずとも、苦楽を共にした全員へ伝播(でんぱ)していたのである。

『姿を現せというそちらの要、しごくもっとも！

こちらも今、そちらへ向かっているところだ』

球から、そのような返答が帰ってきたときのことだ。

「バンホー！　これを!?」

巨大な水鏡と化した泉を指差しながら、ウルカがそうぶ。

すわ何事か……!?

バンホーを始めとする侍たちは、警戒しながらもそちらに視線を向け……そして驚きに目を見張ったのである。

泉を中心に不可思議な輝きが展開し……。

それは自分たちをも包み込み、地面に円形を形作っていく……。

魔のか？　と疑うが、このようなは皇國との戦いでも見たことがなかった。

『ついては、そのの外側へ一旦、離れられよ。

さもなくば、貴殿らの安全を保障しかねるので、な』

球からそのような聲が発され、一同は互いを見合わせる。

だが、こうなれば毒を食らわば……の神だ。

亡國の一団は、大人しくの外側まで退避する。

それを待っていたのだろう……。

球から発される聲の主は……否、それを乗せたモ(・)ノ(・)は、の中からゆっくりとその巨を浮き上がらせてきたのである……！