「とにかく流水でまずは洗ってください！　しっかりとです！」

手首を摑まれて、冷たい水に當てられていた。傷の痛みと冷たさに顔を歪める。大きな傷ではないが、小さなガラス片を握りしめていたので所々出している。

一番強く出した水に當て続け、ガラス破片を流した。しばらくそのまま続き、ようやく九條さんが水を止める。

「ちゃん、こっちおいで！」

振り返ると、新しいタオルを手に持った伊藤さんがいた。とりあえずそこに手を持っていく。彼は優しくタオルで私の両手を包んだ。

「明るいところで手、見せて。まだガラスが殘ってるかも」

三人でソファに移し座り込む。伊藤さんは私の手を開き、じっと傷たちを見つめた。

「痛かったら言ってね、しっていくよ」

ガーゼでところどころれていく。私はされるがまま座って手を出していた。一何が起こったのか、いまだに脳が追いついていないのだ。

恐る恐る隣に立つ九條さんに言った。

「あの、現実ですか？」

もしかして今ってられているの？　そう疑問に思った私に、九條さんは頷いた。

「心配なら脈でも見てみてください。られた訳ではありません」

「ノックの音はみんな聞こえましたよね！？」

「はい、間違いなく。さんが外に出た後、相手はちょうど扉の向こうで見えませんでした。荷をけ取ったシーンも。ですが、聲も聞こえないのに、さんが當然のように返事をしているのが気になって聲を掛けたんです」

「……全然気づかなかった」

あれ、人じゃなかった。この世のものじゃなかった。気づかずに対応してしまっていたのだ。

私の手を手當しながら伊藤さんが言った。

「ねえ、このガラス破片ってもしかして、朝比奈さんの？」

「あ、そうだと思います……ブランドのロゴが見えました。多分、私が今日ぶつけたやつだと思います。あの時もまるで効いてなかったのは分かってたけど、嘲笑っているみたいですね……こんなの何もならないよ、って言ってるみたい」

ぞくっと寒気が襲う。そう、私がバラバラにした塩水りの香水瓶だ。麗香さんの病室で割り、そのままにしてきた。それが私の手に食い込んでいるのだ。

九條さんが真剣な面持ちで尋ねた。

「顔は？　どんな相手でした？」

「えっと、男の人でした！　顔は……」

そう答え掛けて止まる。今先ほどまで會話していた相手だというのに、顔がまるで思い出せなかったのだ。

若かったっけ、おじいさんではなかった気がする。でもそのほかのことは何も思い出せない。背は？　型は？　一重だっけ二重だっけ。鼻はどんなじ？

愕然として返事ができないでいる。九條さんは想定、とばかりに私を勵ました。

「麗香をあんな目に遭わせた相手ですから、一筋縄ではいきませんよ。思い出せなくて當然かと。ちゃんと扉を開けっぱなしにしていた判斷を褒めましょう」

優しくフォローしてもらうその聲が辛い。油斷していたつもりはないのに、完全に相手の思うままになってしまった。

伊藤さんは私の手を丁寧に消毒しながら言う。

「でもお守りあるのに何でですか！？」

「お守りのおかげでこれで済んでいるのかもしれません。本來ならもっと危ない目にあっていたのかも。しかしなかなか攻撃的ですね、すぐに影山さんに連絡をれておきましょう」

九條さんは難しい顔をしながらスマホを取り出す。私はとりあえず息を吐き、伊藤さんに言った。

「すみません伊藤さん、手當を……」

「全然だよ。これ痛いでしょう？　所々出しちゃってて……可哀想に」

神妙な表で伊藤さんが呟く。そうっとれてくれているが、それでも時々痛む。でも、伊藤さんがなるべく痛みを與えないようにしてくれているのが分かるので、心は溫かい。

それにしても、あの時九條さんが來てくれなかったら私はどうしてたんだろう。こんなにガラスを握りしめていても痛みは全然じれなかった。

「さん、影山さんにつながりました。詳細を」

九條さんがスマホを私の方に向けた。機械の向こうから聲が聞こえる。

『黒島さん？　話は聞きました、もう一度詳細を教えていただけますか』

低く、でも冷靜な落ち著いた聲で、どこか安心を覚えた。私は今あった流れをざっと説明する。

電話の向こうで影山さんは黙っていた。話し終えた後、しばらく沈黙が流れる。ややあって、困したような聲がした。

『接できた？　そんな馬鹿な……』

すぐに九條さんが影山さんに尋ねる。

「お守りは持っていましたが、手には怪我を負っています。相手がそれほど強いということですか？」

『強いのは間違いない』

影山さんがキッパリ斷言する。

『私はあのお守りを、相手を近寄らせないようにするためにお渡ししました。それが近寄ってきただけではなく、怪我を負わせるなど……正直想定外なのです』

「そんな」

『あれが無ければもっと被害は大きかったかもしれません。しかし、これは予想よりずっと……私は除霊の準備で手が離せません、使いの者を寄越すので、を守るものを追加ですぐ送りましょう』

私と九條さんは顔を見合わせる。影山さんでも戸うくらいの力なのか。麗香さんをああしたし、やっぱり力が強すぎる。

九條さんといくつか言葉をわして電話は切れた。その間に伊藤さんは手當を終えていた。白いガーゼが手のひら全面にられている。お禮を言って、まだ僅かに痛む傷を隠すように膝に置いた。

九條さんは苦い顔をして言った。

「今後さんは私たち以外とは接止ですね」

「そうですね……」

「ですが、影山さんは明日には除霊を行えそうですよ。今日一日だけなんとか乗り越えましょう」

明日、か。私は俯く。たった一日、されど一日。油斷はならない、どこで攻撃をけるのかわからないのだ。

「えっと、麗香さんのそばで聞いた聲も、さっきの人も男でしたから、相手は多分男の人だとは思うんです」

「そのようですね。が、なんせ報が足りない……足りなすぎる。せめて橫原くるみとやらに話を聞けたらいいですが、相手が蕓能人というのもまたきにくいです」

苛立ったように九條さんは言った。

その後一時間も経たずに、屆けが屆いた。今度は伊藤さんが対応してくれたのだが、ちゃんとした人だったらしい。

影山さんが送ってくれたのは事務所に飾る用のお札と塩だった。さらには今度は紺の袋に包まれたお守りがもう一つ。數を増やせばいいというものでもないらしいが、ないよりはあったほうがいいだろうという影山さんの考えだった。

明日の除霊は事務所ではないところでやるが、その際は影山さんが迎えに來てくれるので、移は安心してほしい、とのことだ。

九條さんたちは事務所に鍵をかけ、お札を飾り塩を盛った。今まで心霊事務所と呼ぶにふさわしくないごく普通の事務所だったが、一気にそれっぽくなる。

そんな事務所で三人、常備してあったインスタントや冷凍食品を食べた。二人ともあえて今回の話題は口に出さず、なんでもない明るい話ばかりして、私をリラックスさせようとくれているのがわかる。

伊藤さんは最近読んだ面白い本の話とか、ネットで見た可いの畫を見せてくれたりとか。九條さんも珍しく話題を振ったが、買ったポッキーが折れまくっていたとかいうよくわからない失敗談だった（雑談下手か）

でもそんな二人の気遣いが嬉しくて私は恐怖に埋もれることなくすんだ。非常に気持ちも平穏を保ちながら、夜が更けていく。