《視えるのに祓えない、九條尚久の心霊調査事務所》噛み付いた
分かってる、私のお母さんは優しい人で、最期まで私の幸せを祈ってくれた素晴らしい人だった。だから、こんなことを言うわけがない。
理解しているはずなのに、その言葉はなぜか私の心を砕いて砂にした。
違う、違う。私はいらなくなんかない。こんな私を必要としてくれる人たちと出會えた。
それなのに…………私にとって、母の聲が全てのように思えた。
次の瞬間、口腔に圧迫を覚えた。何かが口の中にり込み舌を押してくる。苦しみをじ吐き出したくても、まるで言うことを聞いてくれない。
伊藤さんと九條さんの厳しい顔だけがスローモーションのように見えた。そこで、今自分に何が起きているのか理解する。
私は手に巻かれた布を、口で食いちぎろうとしていた。
そんなつもりはまるでないのに、が言うことを聞かない。歯を立てて布を取ろうと必死になっていた。それを九條さんたちが力づくで止めようとしている。私は自分の意思さえもどこか遠くへ放り出され、り人形のようにをかされた。
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二人が何かをんでいる。力強く腕を引っ張られる。それでも自分の歯は恐ろしい力で布を取ろうと食らいつく。
焦ったように私を見下ろす二つの顔の向こうに、影が見える。にゅうっと出てきたそれは、人の首だった。
白いだった。ゆるくかけられたパーマに、素の薄い瞳。目を細めて垂らし、口は異様なまでに吊り上がっていた。
にたにたと笑いながら、苦しむ私たちを楽しそうに見下すのは、いつだったかニュースで見た日比谷の顔そのままだった。
完全に楽しんでいる。
九條さんたちはそれに気づくことなく、ただ必死に私のを押さえつけている。それを至近距離で見つめる日比谷は、ワクワクしている子供のような表だ。
まるで敵わない、と痛する。
こんなに強い相手には初めて會った。いくら気を強く持っていても、アッサリり込まれてしまう。向こうからすればただの遊びの一種にしかないというのか。
「去れ、お前にこの子はやれん!」
影山さんの聲がするも、日比谷は消える気配がない。自分の顎は壊れてしまいそうなほど力をれっぱなしだ。布はどんどん解け、指先がくようになっていた。
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このままでは日比谷の思う壺になってしまう。
もういやだ、何度も何度も絶に溺れさせられる。抵抗してもまるで無意味なこの相手を、一どうしたら———
「っ!?」
途端、口の中に違和を覚えた。
ぶわっと鼻にじる匂いと、舌に伝わる味。本能的に嫌なそれは、鉄の味だ。同時に、噛んでいた布とはが違っていることにも気づけた。
すると、ずっと噛んでいた顎からすうっと力が抜けた。見上げていた日比谷の顔は、一瞬真顔になる。そして、それもまた音もなく消えたのだ。
意識がハッキリし出す。自分の中にいたんな私が、やっと一つになった……そんな覚だ。
「……え、?」
自分が何を噛み締めているのかようやく察する。布ではなかった。
「分かりますか、さん」
そう私に尋ねてくる九條さんの顔は汗で濡れている。そして、私の口に押し込んだ自分の手をゆっくり抜いた。彼の親指の付けから、が滴っていた。
聲にならない悲鳴をあげる。未だ殘る口の中のの味が、誰のものか気づいたからだ。
「く、九條さ……!」
「暴なことをしました、すみません、吐き出してください」
そう言った彼は、手を隠すように私に背を向けた。馬乗りになっていた伊藤さんも、慌てて立ち上がり、私と九條さんを迷うように互に見た。
影山さんがすっと九條さんに近づく。
「九條さん、あなたも洗いましょう。九條さんの機転のおかげで助かりました」
「いえ、影山さんの力もあってこそです」
そんな風に話す二人を、私は未だ唖然として見ている。伊藤さんが慌てたように、私の口元にティッシュを當てた。
「おいで、口すすごうか! 立てれる? あ、手の布だけ巻き直しを……」
「わ、たし……」
「落ち著いて、とりあえずおいで」
彼に當ててもらったティッシュには、真っ赤ながついている。
言われるがままフラフラと立ち上がり、仮眠室にある小さな流し臺で口をすすいだ。吐き出すと、やはり真っ赤なが多量に出てきて震え上がる。
の味が無くなるまで繰り返した。何度かすすぎ、ようやく水の味がわかるようになってきて、私は伊藤さんに力無く聞いた。
「九條さん……大丈夫ですか」
「うん? 心配しないで」
自分が思い切り噛み付いたのが、彼の手だった。
多分、九條さんが故意に私の口に手をれたのだ。気付かずそのまま噛んでしまった、あんなにが出るほどに。
あんなに……
「ちゃんとりあえず座ろう。落ち著かなきゃ」
呆然としている私に、伊藤さんが背中をさすってくれた。頷き仮眠室を出ると、九條さんの手に包帯を巻いている影山さんの姿があった。未だ髪が汗で額に張り付いている。
影山さん自も、さっきの霊のせいなのか、顔が悪くげっそりしている。私も力がらないし、全員疲れ果ててしまっていた。
私はソファに座っている九條さんに駆け寄り、手を見つめる。
「九條さん……!」
「さん大丈夫ですか」
「こっちのセリフです! 私、あ、あんなが出るまであなたの手を……ごめんなさい、病院行ってください!」
「そこまで深い傷ではないから大丈夫ですよ」
そんなわけない、と思う。出だってかなりしていた。人間が理なく思い切り噛めば、どれほどの威力があるのか容易く想像つく。
泣きそうになっている私に九條さんが言った。
「噛んだのは一瞬だけです、あなたはすぐに正気に戻ってくれた。ですから、大した傷にはなりませんでした」
九條さんの手に包帯を巻きながら影山さんも言う。
「なかなか奴が出ていかなかった。前回も言いましたが、ああいう奴らは能力のある人間のの匂いに敏です。ですが、私はもう二度目になるので、その手は使えないと思っていました。
日比谷の気をひくことと、同時に黒島さんの正気にも呼びかけることができた、現にあなたはの味に驚いて戻ってきたでしょう」
包帯を巻きおえ、影山さんがふうと息を吐く。
「九條さんの機転に助けられました、さすがです」
「いいえ、影山さんの力ありきです。さん自も、きっと戦ってくれていたから」
白くなった九條さんの手を見る。申し訳なくて、恥ずかしくて、たまらなかった。お母さんの聲が本じゃないなんて分かりきってるのに、自分を保てなくて。
ぐっと俯いていると、九條さんが私を見上げた。
「さん、こんな方法しかなくてすみませんでした」
「謝るのはこっちです! こんな、怪我を負わせてしまうなんて……」
「大したものじゃないですよ、あなたが無事ならよかったです。
言いましたよね、あなたは腕を切り落としてでも生きてみせるって。私もそうです、あなたが助かるなら、腕の一本や二本構わないんですよ」
わずかに口元を緩めてそう言った彼に、何も返事を返せなかった。
ただ頭を下げて、お禮を言う。それしか今はできそうにない。
泣いてしまいそうだ。
「えーと! ココア飲みませんか、一旦みんな落ち著きましょう!」
背後からそう聲がかかり、伊藤さんがトレイを手にして現れた。甘い香りがふわっと流れてくる。この不穏な空気をなんとかしようとする彼の気遣いだった。だが、影山さんは伊藤さんに向かって、疲れをじさせる足どりで近づいた。
「ありがとうございます、私は作業に戻らないと。鏡を完にしなくては……ココア、頂きますね」
力無く笑うと、トレイから一つマグカップを手にして、そのまま再び仮眠室の方へって行ってしまった。思えば晝食もとっていないけれど……大丈夫だろうか。
仮眠室の白いカーテンが閉められる。伊藤さんはやや聲を顰めて、私と九條さんに言った。
「二人とも座ってください。ちゃんも、ほら。君はアイスココアだけど」
「ありがとうございます」
私は九條さんの正面に腰掛ける。目の前にココアが置かれた。九條さんは怪我していないほうの手でそれを取り、早速啜り始める。
ストローが刺されたココアをとりあえず飲んでみる。甘さが脳を刺激してくれるようだった。ココアの香りが鼻から抜けていく。伊藤さんが勵ますように言ってくれた。
「ちゃんもよく頑張ってたね、見てて分かったよ」
「いえ、そんな」
「影山さんの作業ももうしだろうし、あとちょっとの我慢だよ」
こくんと頷いた。視界に、九條さんの手に巻かれた包帯が見える。影山さんに続き、九條さんまで傷つける羽目になるとは……。
話題を逸らそうとしたのか、九條さんがマグカップを置きながら言った。
「相手のやり方は巧妙ですね。麗香や聡さん、あなたのお母様の聲まで真似る」
「僕初めてですよ! 聞こえたの! 零の僕が聞こえたってすごくないですか?」
「興するところなんですか伊藤さん」
「だってこんなこと珍しいから」
二人のやり取りに、しだけ笑みをらす。まあ確かに、伊藤さんって本當にそういう能力ないみたいだったもんね。
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