《傭兵と壊れた世界》第九十二話:月を背負った

男は妻をしていた。

生涯の伴となることを花印(はなじるし)に誓って集落を出た日から、一度も互いを忘れたことがない。

二人は集落の中で特に優秀だった。大國の花(イースト・ロス)の売人として、ひいては集落の代表として、仲間の想いを背負って國を発つ。街を渡り、多くの人に花を売り、時に廃人となった知人から金をけ取ることもあったが、一度も捕まることはなかった。

罪悪で塗り替えられる。大國の花(イースト・ロス)の売人が二人。數多のの上で幸せな日々を送った。

だが、男はミスを犯した。絶対に見つかってはいけない相手、ブルフミュラー商會に尾を摑まれてしまったのだ。金融都市は構造こそり組んでいるものの、街の出り口は限られている。見つからずに出することは不可能だ。ましてやブルフミュラー商會がいたのだから、萬に一つも助かる見込みはない。

二人は何度も話し合い、どちらかだけでも生き殘れないかと悩み、そして決斷した。「売人は妻だけであり、男は何も知らなかった」とブルフミュラー商會に噓をついたのだ。それは自らの想いすら騙さなければいけない苦渋の噓だった。売人として、民族の掟を守るために、は罪人として裁かれ、男は妻の願いを継ぐ。

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元々痩せていた男は、人相を変えるために食事を増やした。名前も変えた。気付けば格もおかしくなっていた。変わらないのはに抱えた花印だけ。

彼は願う。どうか痛みをくれ。愚かな自分を罰するために。

薄暗い部屋の中、ドットルは書類の整理に追われていた。汗ばんだ手に紙がり付いてくしゃくしゃになり、彼は苛立たしそうに舌打ちをする。ドットルは焦っていた。著実に迫り來る気配。その正が彼の考えうる最悪な相手である気がしてならないのだ。

「せめて重要な書類だけでも処分しないと、僕たちの努力が水の泡になってしまう。駄目だ、それだけは駄目なんだ。やらせないぞ。絶対に――」

脂汗がドットルの頬を伝う。近くにはローレンシアに報を送るための通信機や、大國の花(イースト・ロス)についての研究書類が雑に置かれ、さらに天幕の奧には大國の花(イースト・ロス)の栽培場が広がった。絡みつくような甘い香りが充満し、目に見えるほど濃厚な花が機の上に降り積もっている。

常人であれば瞬く間に中毒癥狀を起こすだろう。だがドットルは平然と顔一つ変えずに作業した。

「まずいまずい、早いよナターシャ。頼むから來ないでくれ。君は最悪だ。僕を破滅させようとする悪魔だ」

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初任務で忘れ名(わすれな)荒野に向かった日、彼は任務の報をローレンシアに告した。大國の花(イースト・ロス)の輸送経路を守るためだ。裏に、念に。待ち伏せされているとも知らずに傭兵たちは罠にかかり、ドットル以外が全滅する。そして噓の報告をシザーランドに屆ける手筈だった。

あの日、ナターシャによって作戦が瓦解した日から、ドットルの破滅は始まったのだ。通者の存在が傭兵に知られ、自由にくのが難しくなり、どこに行っても追手から逃げる日々が続いた。自然と暗黒街で暮らす時間も多くなった。

そろそろシザーランドでの活時だ。だがドットルは狀況を見誤った。彼は思っている以上に傭兵の生活を楽しんでいたのである。イグニチャフ達と酒をわしながら、傭兵として任務に従事し、汗水を流しながら戦場を駆けた。限界への挑戦。それは時の流れも忘れるほどに充足した毎日だった。

悪魔の足音がする。コツ、コツ、と地面を鳴らしながら著実に迫ってくる。ドットルは何度も後ろを振り返った。そこに広がる闇の中から、白金の悪魔が見ているのではないか。多くのローレンシア兵を屠った銃口を、今度は自分に向けるのではないか。

まとめた書類を元に忍ばせてから通信機を破壊した。回収した種を鞄にしまい、栽培場を後にする。

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ドットルは走った。はて、こんなにも街は暗かっただろうか。人がいない。周囲から生きの気配が消えている。気付けばが粟立(あわだ)ち、足元から冷気が忍び寄った。

來る。否、待ち構えている。

暗闇の奧に悪魔がいた。白金の髪を濡らし、片手に白拳銃を握ったが、ドットルの逃げ道を塞いでいた。

「やあナターシャ、帰っていたのかい。移都市にもっと滯在すると思っていたよ」

「ええ、そうね。滯在するつもりだったわ。でも、殘る理由が無くなったの」

ドットルは気味の悪いズレをじた。金融都市で見送ったナターシャと、目の前で濡れすぼる。同じに見えて致命的に違う。

ドットルの知らない「何か」がヌークポウで起きたのだろう。世に蔓延る地獄の一端がの雰囲気を暗くさせた。彼は悪魔を宿す。それは、かつてナターシャが憧れた「優しさ」とは対極に位置するもの。

「ドットルの銀貨を、もう一度見せてくれない?」

「悪いけど、失くしてしまったんだ。ナバイアで落としたのかもしれないね」

自然と噓が出た。

「それじゃあ、あなたが持っている荷を広げてくれない?」

「それも、悪いけど、無理だ。できないよ」

「見せるだけでいいの。大丈夫、奪ったりしないわ」

「まるで尋問みたいだね。諦めてくれナターシャ。僕にも見せられないものは、ある」

は「そう」と一言つぶやいた。が引くように暗闇が逃げていく。顔を上げた彼の瞳は赤かった。それは泣き腫らした後の憐憫なに見えるが、同時に、得の知れない悪魔が姿を現したようにじられる。

「私、わからないの」

「どうするべきか、かい?」

「ううん、それはわかる。わからないのは、ドットルの考えていること。あなたは、リリィの死が悲しくなかったの?」

「悲しかったよ。本當だ、僕は心から悲しくなった。リリィは同期として好ましく思うし、彼が輸送任務に同行したのは不運だった。でも、それだけなんだ」

だけでは足を止める理由にならない。ナターシャとドットルは違う場所に立っている。知らなければ仲間でいられたはずなのに、知ってしまったら許されない。

「悲しみには優先順位がつけられる。より大きな悲しみが他にあったのさ」

「大國の花(イースト・ロス)がそんなに大事なのね」

「大事だよ。これはする人の形見だから」

妻と育てた大國の花(イースト・ロス)。彼が命を賭して繋いだというのに、どうして捨てられるだろうか。

二人は今、明確に敵となった。ナターシャから刃のような覇気があふれ出す。は白金。それは暖かなのはずなのに、足地と同じ冷気をまとっている。

ドットルは気付いた。彼もまた自分と同じように失ったのだ。ドットルは心に浮かんだ疑問を思わず問いかけた。

「もしも、犠牲になったのがリリィじゃなくて、名も知らない傭兵だったら僕を許せたかい?」

リリィが生きていればドットルが通者だと知っても仲間でいられたか、という問いかけ。

「変わらないわ。私が第二〇小隊であり、あなたが売人である限り、結末は同じよ」

答えは否だ。ナターシャとドットルの道はたとえ重なったとしても、わることはなかっただろう。

各々が考え、悩み、選んだ道。ナターシャは第二〇小隊として歩むことを決意し、ドットルもまた、亡き人の意志を継ぐために売人を続ける。

「そうか……辛いね。本當に、辛い。でも、僕と彼で選んだ結果だから悔やんでいない。後悔があるとすれば、君を初任務で撃たなかったことだよ!」

彼はぶ。過去のあやまちは加速度的に膨れ上がり、取り返しがつかなくなっていた。清算する日が來たのだ。

ドットルは拳銃を引き抜いた。早撃ちに関してナターシャに勝るとは考えていないが、彼は甘い。同期の友人を前にすれば必ずや躊躇し、撃つのが遅れるはずだ。勝てる。事実、ドットルが銃を構えた時、ナターシャはまだ引き抜いていなかった。

(君の甘さが隙になる。第二〇小隊の一員なら冷徹になるべきだよ――)

銃聲。

崩れ落ちたのは、ドットル。

「なっ、まだ、抜いて……」

元にが空いている。対しては無傷。

「大國の花(イースト・ロス)の吸いすぎで幻覚でも見たんじゃないかしら。私が躊躇すると思った?」

ドットルは測り間違えた。彼の知るナターシャはもういない。仁王立つのは白金の悪魔。任務のためならば友を撃ち殺す。冷徹に。合理的に。これぞ第二〇小隊。

ちょうど暗闇にがさした。窟の崖付近で爭っていたようだ。雲隠れしていた月が顔を出し、大峽谷の奧深く、暗黒街にひと時のをもたらす。

を背負っただ。影になったナターシャの表。そこに悲しみが滲んでいたが、ドットルは視界がぼやけて上手く見えない。

「あなたにはわからないでしょ。前に進み続けていたら、どうしようもない悲しみの果てに辿り著いていたの。もう何も無いの。第二〇小隊以外に殘っていないの」

互いに失くしてしまったのだ。躊躇する優しさも、守りたかった人も、引き返せたはずの時間も、全て。

「今日という何気ない一日を噛みしめる。二度と訪れない時間を、そうとも知らずに笑って過ごす。ずっとそうしていたかった。ドットルもそう思わない?」

言葉を返す力は殘っていない。ドットルは聲を発しようとしたが、出たのは水に溺れるような音だけだ。は目を伏せる。

「ふふ、そうね。私もそう思うわ。進むしかないもの。さよなら、ドットル」

乾いた銃聲が一発。

中腹の崖からせり出した家の中で。イヴァンは窓から外を眺めた。

「雨が止んだな。もっと降るかと思ったが」

月明かりがさしている。イヴァンがこの家を買ったのも、シザーランドで珍しく空を見上げられるからだ。両脇を崖に挾まれた渓谷都市の真ん中で、降り積もる結晶屑を窓ごしに見つめながら、イヴァンは靜かに思い出す。

「時間の流れは早いな。ルーロの地に降り立ったのがまるで昔のようだ。見ているかジーナ、俺たちはまだ傭兵だ。今も戦場から離れられないよ」

そんなことを考えてしまうのは、夜風に混じって戦いの空気をじるからだ。その源は二つ。片方はシザーランドよりもずっと北、中立國を越えた先の亡國ルートヴィア。革命を掲げる解放戦線が今か今かと雌伏(しふく)の時を過ごす。

もう一つは足元。傭兵と狩人の中間に広がる暗黒街から、這い上がるような悪寒が伝わる。北の燃えるような空気とは対極。足地に似た理外の冷気。それは一人のが悲しみの果てで立ち上がる溫度である。

「なんだ……?」

奇妙な気配が近付いた。ひたひたと足で歩くように、一歩ずつイヴァンの家を目指している。

やがて扉を叩く音がした。

「こんな時間に誰だ。ベルノアか?」

返事はない。イヴァンは腰の拳銃に手をあてたまま扉を開けた。

立っていたのはナターシャだ。濡れたネズミのように全から水を滴らせ、びしょびしょのコートが彼に吸い付いている。白金の髪もどこかを失ったように暗い。元は黒く変したで染まり、白い頬にも赤の斑點が飛んでいた。

「ごめんね、來ちゃった」

疲れたように笑う彼の異様な姿にイヴァンは固まった。

濡れすぼった髪が気を醸し出し、の気が失せたは作りのように儚く、目は暗澹(あんたん)、泣きそうな顔なのに涙を流しすぎて枯れている。

手をばさねば消えてしまうのではないかと思い、イヴァンは抱きしめた。華奢なだ。どこに結晶銃を扱う力があるのだと疑うほどである。

「怪我は無いか?」

「大丈夫。完璧にこなしたわ。だから褒めて」

「あぁ、良くやった。ナバイアの件は聞いている。先方も満足していたよ」

「ううん、それだけじゃないの。たくさん頑張ったわ。出來ることは全部やった」

腕の中のは冷たい。抱きしめているイヴァンの溫が吸われてしまいそうだ。雨で濡れているからか、それとも――。

「家に帰ったらリンベルがいないの。多分、こっちにいるんでしょ――けほっ」

「ばか、結晶屑を吸いすぎだ。中にれ」

「このままがいいわ。とても溫かいから」

背中に回された手から「きたくない」という思いが伝わった。仕方なく、結晶屑がらないように外套(がいとう)を広げてを包む。腕の中から「煙草臭いわ」と聲がした。仕方がない、こんな夜は煙草でも吸わないとやってられないだろう。「それに酒の匂いもする」と言われた。苦が多い娘だ。酒でも飲まねば過去に食い潰されるそうなのだ。

「ねえイヴァン。ミラノ水鏡世界が本當に実在したら、私も墓を立てていいかしら。妹さんの隣に二つ。友人に星空を見せたいの」

結晶が降っている。雪と見紛うほど細かくてしいが、人側から変える有毒の塊。第二〇小隊もちょうど、結晶のようなものだ。圧倒的な武力と功績を持ち、戦士なら誰もが敬意を持ちつつも、汚れ仕事をけ持ち、疎まれ、大國からも目の敵にされるシザーランドの毒。

「第二〇小隊で良いのか?」

そこに居場所を見つけた者がいる。彼達は行儀良く生きられない。

ナターシャは頷いた。彼はここに居たいのだ。始まりはただの興味だった。月明かりの廃教會で出會ったのがきっかけ。面白そうな小隊がいると思って近付き、隊し、いつの間にか隣に立ちたいと願っていた。

「ここが良い」

イヴァンは「そうか」と返す。第二〇小隊が帰る場所。酒と煙草がの匂いを紛らわす。こうして溫かな腕に抱かれていたい。

「おかえり、ナターシャ」

やがて扉が閉まった。

夜がふけて深々(しんしん)と結晶が降りつもり、月明かりが徐々にりを帯びる。一階の窓かられていたが二階に移し、とある一室の窓際に掲げられた。れるは一つだけ。月が隠れると同時に封晶ランプの燈も消えた。

來週でナバイア編おわりです。

またね。

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