夕闇の空沿いに空機を走らせていると廃墟街が見えてきた。

今は使われなくなり、崩落の危険と老朽化が進んでいる地區だ。夕日を浴びて崩れた廃墟街は寂しい風景でありながらつい目を引かれる。

間橋から配達局に戻る時は近道にここを通るからもう馴染みの景だった。

再開発の目処も立っていないようだし、ガラの悪い連中が住み著くという噂もあるからあまり近づくべきではないんだけれど。

一瞬建の合間、く何かが視界に映った。この辺りは普段から人気がない。子供でも迷い込んだのか。

気になった俺は速度を落として空機を停めると、降りて人影を見た場所へ戻った。

ただ人影を見かけただけなら俺は通り過ぎただろう。

一瞬目に映ったのが明るい橙に見えたことが気になった。

人影を見た箇所に目星をつけ、崩れた塀の側を覗き込む。さらに廃墟街へと踏みる。

瓦礫の隙間を抜けていくと話し聲が聞こえてきた。建の影からし顔を出して様子を探る。

いた。やっぱりあの子だ。もう一人は晝間の騒ぎを仲裁しに現れた若い男のように見える。

「……こんな寂しいところで何をやってる？」

あの二人は知り合いだったんだろうか。しかし特に親しげという雰囲気でもない。集中して耳を澄ませると會話の容を聞くことができた。

「……つれないね。折角助けてあげたのにサ」

「いや！」

「もウ逃げられないけど」

こちらからは男の顔が見える。晝間はよくわからなかったが全的にひょろりとして細い目をした薄気味悪い奴だ。

それより會話の容だ。かなりまずい現場に遭遇してしまったような気がする。

「…………」

颯爽と出て行って、今度こそあの子を庇ってアイツを追い払う事ができれば。

そんな願とは裏腹に、俺の足は地面にい留められたように竦んでいる。

市街へ戻って治安部隊を呼びに行くべきだ。でも人を呼んでくるのにどれだけの時間がかかる。もし間に合わなかったら……。

俺は自分の命を守るので一杯なんだ。ここで一人出ていくなんて愚を犯すべきじゃない。

壁の向こうを覗くのを辭め、ところどころ漆喰の剝がれ崩れた壁に背をもたせかけた。

心を責め立てるように心臓の鼓が煩い。気づかれないように一旦この場を立ち去るんだ。

——自分にとって本當に大切なことは、心で決めるべきですよ。

さっき師匠が呟いた言葉が思い出された。

あの子を助けたいと思うこの気持ちは、そんなに大事なものか。

……でも、この気持ちすら否定してしまったら俺はこの先何も変わらないんじゃないか。そんな恐怖にしだけを震わせる。

そんな風に自分の心を押さえつけて、それでいいのか――――？

その時の子が後ろを向いて駆け出した。男も彼を追いかけようとする。が俺の隠れている壁の橫を走り過ぎて行った。

続いて男が姿を現すと同時、俺はつい走り出していた。

「うらあああああああ！！」

自らを叱咤するために上げた聲に男が気づいてこちらを振り返る。

その一瞬の隙を逃さないように俺は地面を蹴った。

「ぐ……おおおおおっ？！」

全で飛び上がり、がむしゃらに繰り出した俺のドロップキックはしかし男のに運良くクリーンヒットした。男は吹っ飛び、道端の瓦礫に突っ込んだ。土ぼこりが朦々と吹き上がる。

著地を考えない大技のせいで、俺も地面に落下して苦痛に悶えた。

やっちまった……。逃げ出すの後ろ姿を見て、衝のままに駆け出してしまった。

痛みを堪えて起き上がろうとするとこちらを窺うの姿があった。不安げな表を浮かべている。

「逃げろ！！　早くっ！」

驚いた表の彼に怒鳴る。現狀を把握できなくてもいい。とにかくすぐにこの場から離れてくれ。

が俺を見る。強く見つめ返すと、彼はすぐに背を向けて駆け出していった。俺にしては上出來だ。

俺も直ぐに勢を整えて立ち上がった。目的は果たしたし、男が復帰してくる前に一刻も早くおさらばしよう。だが意に反して足はかなかった。

足首の辺りにヒヤリとした覚が、と思った直後、激痛が足を駆け上って來る。

「う、がああああっ！！？」

じたことのない種類の痛みだった。痛いなんてものじゃない。

せいぜいり傷や切り傷、毆打程度しか経験したことがなかった俺は、思わずんでその場に蹲った。

足からを駆け巡った激痛は口から聲になってれ出る。

熱のような痛みをじる。足が灼けつく。をよじって見上げると目の前に男が立っていた。

男は屈み込むと、俺の足へと手をばし、そこに突き刺さっていたものを引き抜いた。再び引き裂かれるような痛みが走る。

きによって痛みを意識から逸らそうと虛しい抵抗を試みる。

ドッと汗が出て悪寒が全を駆け巡る。男は手にした兇をちらと検分して俺を見下ろした。

「おヤおヤ正義の味方か？　痛ぇだろ」

の見えない聲で男が言い、笑う。

――怖えぇ。男の立ち居振る舞いはこういう狀況に慣れていることをじさせた。

その時廃墟から男の仲間と思しき連中が出てきた。二人組だ。

顔の大部分は頭巾のような布で覆われている。しかし布の隙間から覗く目はどれものように赤みを帯びていた。

のように明るい薄紅ではなく沈んだ暗い赤。連中の一人が口を開く。

「おい、じゃねえのか。なんだぁそいつ」

「このバカのせいデは逃げた」

「はあ？　面倒くせえ。ちゃんと始末しとけよ。を追う」

二人の男達は踞る俺を一瞥すると、興味もなさそうに素早く去っていった。

「ユ、ユリクセス……？！」

「あァそうだ。よク知ってるな」

仲間。組織的な犯行。男は一人じゃない。しかもユリクセスの集団。

奴らはスカイフォールの北方に位置する大國、アプテノン・デイテスに住んでいるとされる人種だ。見るのは初めてだけど噂はよく聞いた。

人のを啜るとか、年を取らないとか、いずれにしてもロクな話は聞かない。

頬を流れ落ちる冷や汗が増す。もしかして晝間の騒ぎもグルか？

くそ、仲間がいるかもしれないなんて予想できたはずなのに。これじゃあの子はまた捕まってしまう。

……無謀だった。俺が人を救うなんて思い上がりも甚だしい。

男は俺の前にしゃがみ込むと、予告なく今度は太にナイフを突き刺した。

再度の激痛。を引き裂かれる痛みに頭が真っ白になり、聲にならない悲鳴が口かられる。痛みに思考が塗りつぶされていく。

痛い。痛い。痛い。

「ぁ……」

「は逃サない。そシてお前は死ぬ」

「あ、う……」

「もウ聲も出ないか」

男の歪な笑顔が目の前にある。何を言われたのかよくわからなかった。

意識を繋ぐのだけで一杯だ。狂気と暴力の気配をでじる。

男が振り上げた大ぶりなナイフを、痛みで虛ろになった目で見上げる。涙でぼやけた視界、刃に夕が反しているのが映る。

のような赤、ひどく不吉な。

俺、死ぬのか。

「じゃアな」

その後起きた出來事を俺はすぐに理解することはできなかった。俺は突然地面に倒れたまま、音と地を伝わる激しい振に襲われた。

空気が震えるのをでじ、その衝撃でしが浮く。何か巨大な質量のあるものが落ちてきたのだと混濁した意識で認識する。何が起きたかと首を巡らす。

目の前の男と目が合う。しかしそこにあの歪んだ笑顔はなかった。

虛を突かれたように、赤い瞳を見開いた男の顔があった。何が起きたかわからない。そんな表。

「ごフ」

男が口から赤黒い飛沫を吹き出す。それは俺の頬にもかかり、鮮が口の端から溢れぼたぼたと地面に滴り落ちる。

男の顔からに目を移すと、巨大な鉄の柱が膝をついた男の腹から突き出していた。

その柱は男の背中に突き刺さり、腹を貫通して地面に突き立っている。

俺たちのすぐ直上に何かが落下してきた。それが男に直撃してを刺し貫いたのだ。

俺は今度は顔を上げ、上を見上げる。落ちてきた何かがき出した。

目の前でを吹いた男が鉄の柱ごと持ち上がり——ぶうんと風を切る音とともに男は吹き飛んでいった。廃墟の壁に激突し、崩れた壁とともにその後ろへ落ちる。

あの勢いでは多分、無事では済まない。

「————は」

とりわけ目立つのは捻くれた二本の大角。元から上方に灣曲して生え、左右に長く突き出している。前後に長いのような頭部は、草原で草を食むアリュプを思わせる。

怪。

俺は驚愕し、恐怖で固まった。ここは王都だ。モンスターなんて一匹たりとも生息していない。

しかも、その二本角の怪はおよそモンスターには見えないなんとも不気味な姿をしていた。

頭は雄牛のようだが、は太い脊柱と、そこから肋骨のようなものが何本も生えているだけのがらんどう。六本足で、全的に骸骨を思わせるような奇怪な姿。

何よりそいつからは生気がじられなかった。生きでなく刻印機械《エメタル》であると言われた方が納得しただろう。

その骸のような見た目からは、生者とも死者ともとれぬ禍々しさをじた。

逃げ出すタイミングを逸した俺は今度は逆にけなくなった。いたらあの男のように八つ裂きにされる。

すでにの気の引いた頬を汗が伝うが、指一本もかせない。

首を傾げて骸の怪がき出す。そいつは脆い廃墟街の石畳に細い足をめり込ませながら俺の頭上から退いた。

「なんだこいつぁ！　げっ、くっ、來るな！」

「ああ……あ゛あ゛あ゛あ゛っ゛！！」

廃墟街に男のび聲が響き渡った。

倒れたまま、はっとして首を回し怪の姿を追う。

化けは、戻ってきた先ほどの二人連れ頭巾男の片割れのを摑んで持ち上げていた。一人は既に怪に前足でを貫かれ死となりかけている。

前足を振って串刺した男を払いのけると、奴は腳で頭巾男の肩から上と下半を包み込むように摑んだ。

男はもがいて抵抗するが、むなしい抵抗は徒労に終わる。

恐怖と苦痛に支配された絶と共に、およそ人が立てるべきではない音を立てながら、怪が男を生きたまま前足で捻る。

が裂け、ちぎれ、と骨が飛び散り、あっという間にそれは赤黒いにまみれた塊へと変わる。それは既に人だったものだ。

「あ……あ、う、げっ」

見開いた目に映った凄慘な処刑の有様に、傷の激しい痛みすらもう意識のにはない。の気の失せた頬を冷や汗と涙が伝った。

そして怪はこちらを振り返った。