「逃げ道が……ない」

「まだ、あっちに逃げられるじゃない」

なんとかを起こしてを見上げる。隣に立つ彼は埠頭の先を見上げてそう言った。その視線の先には無數の浮遊跡群の影が浮かんでいる。

「そう、だな……」

そうだ。彼だけなら、まだ逃げられる。右足を引きずり、痛みに顔を歪めて立ち上がる。

毆打した部分に手をやり、合を確かめる。落ちたときに強かに打ったらしい腰骨が激しく痛む。足はがくがくしてし覚がない。

止する暇もなくズボンは真っ赤に染まり、見た目にもかなりまずいじだ。

俺は目を閉じ、そして開く。ここまで……か。

「俺がちょっとでも……時間を稼ぐから。君は早く行って」

「どうして！？　一緒に……！」

彼は困したように聲を上げる。

「無理だよ。俺、飛べないから。……これ以上は、どこにも行けない」

この世界にはごく稀に、まったく飛ぶことのできない人間、つまり「空の加護」によりもたらされる飛力を持たない者が存在する。

そんな世界の祝福をけ取り損ねた出來損ないは、侮蔑を込めて「ドドーリア」と呼ばれ忌み嫌われる。俺のことだ。

「それに……この怪我じゃ一緒に逃げても、君の足手まといにしか、ならない……よ」

もう自分でわかってしまっている。これ以上逃げる力が殘っていないことに。すぐにでも奴は跡を破壊してここまで追いついてくるだろう。

俺にできることは、空機を引き起こして怪に突っ込むことくらいだろうか。

「俺は、道を違えてた。でも君のこと、助けられるなら……、きっとそれは意味のあること、だったんだ」

もう、を助けようと暴力の渦中へ飛び込んだ自分の行は否定しない。そうだ、これでいい。俺の犠牲で彼が救われるなら、多分俺の選択に間違いはないのだ。……頼むから、そう思わせてくれ。

そうやって自分に言い聞かせて、俺自を納得させようとする。

「よくわからないかもしれないけど……、俺は君に生きてしい。だから頼むよ、あいつがこっちへ來る前に、俺を置いて逃げてくれ」

彼の目を正面から覗き込み懇願する。は俺の言葉を聞いて困と悲しみをその顔に浮かべ、表を曇らせる。

何を思っているのか、しかしすぐに口を引き結んでしかと俺を見返した。

「だめだよ、そんなの……。お願い。私と一緒に來て」

俺は項垂れた。できることならそうしたいさ。彼を追い立てようと、俺は再び顔を上げる。

辺りは空の境界を除いて濃紺の夜の闇に沈みつつある。最後に殘されたのの中、彼はその燃え立つようなの殘滓を背に立っていた。

は俺に白い手のひらを差しべる。

彼に俺を見捨てるつもりはないのか。俺の後ろ向きな覚悟など意に介さない、強い意思をじたような気がした。

背後で派手な衝撃音が轟き、怪が跡の壁を崩してついにこちら側へ抜け出てきた。

「大丈夫」

気がつくと、俺は意識もせずに彼の差し出す手を取ってしまっていた。抗い難い、何かとても強い力が俺の背中を押したかのように。

「私に合わせて」

の言葉には不思議な力がある。彼が俺の隣に並ぶ。左手は彼の右手に握られたままだ。

さっきもそうだったけど、この子にれられていると何か暖かいものがに流れ込んでくるようにじる。痛みはやわらぎ、意識ははっきりとしてくる。

二人並んで空に浮かぶ跡群を見上げる。それ以外に視界にるものは空と雲のみ。高い場所は苦手だ。こんな風に空を覗き込むのは怖いけど、不思議と今はの震えは起きなかった。この小さな手から伝わる溫かさ、安心が俺を支えてくれているのか。

「――――――行くよ」

と共に一歩踏み出す。そこはもう埠頭の端だ。これより先には紺碧と茜の混じり合う虛空しか存在しない。その踏み出した足で、は空を蹴った。

不思議な覚だった。力強く地面を蹴ったわけでもないのに、のはふわっと下から風をけるように浮かび上がった。スカートが大きく翻る。

彼に手を引かれるように、俺の足も地面を離れた。まるで下から吹き上げる風によって持ち上げられるように、いつだってこの重たいに付きまとっていた重が、すっかり消えて無くなってしまったかのようにとても軽い。

俺はに手を引かれたまま、ぐんぐんと上昇していく。呆気にとられて彼を見ると、彼も俺を振り返ってにっこりと微笑んだ。

耳元でひゅうひゅうと風がなり、ばたばたと服が風をけてはためく。

埠頭の突端からあっという間に舞い上がると、俺たちはそこら中が崩落した跡の殘骸の上に降り立った。さらに続けて飛び、上空に見える一際巨大な廃墟跡を目指す。

「すっげえ……」

羽が生えたようにが軽い。俺は自分の質を呪う。

この現象はこのが起こしているのか。彼が飛ぶことができるというのはわかる。だけど、どうして俺までこんなにが軽いんだ？　普通のエアルのの子が人一人持ち上げてこんなに高く飛ぶなんて不可能だし、そんな力が彼にあるとは思えない。並外れた飛力だけでは説明がつかないとじる。

いくつかの跡殘骸を飛び移って、一際高く跳躍した俺たちは跡から長く突き出たエントランスに降り立った。著地にほとんど衝撃はなく、らかい絨毯の上に降りたようなだ。

振り返り、渡って來た跡を見下ろす。予想はしていたけど、やはりあいつからは簡単に逃げられはしないようだ。

雄牛頭の怪は廃墟街の塀の外で見せた跳躍力でもって跡の殘骸に飛びつき、追ってきている。

俺達への追撃の手を緩める気配はじられない。すぐにでもここまで飛び移ってきそうだ。

「だめか……、くそ、どうすればいい……」

跡の方を見ると、崩れかけた橋が一直線に跡の本殿へと続いている。外観からはなんの施設だったのかはわからないが、この辺りでは一際大きな建造だ。

周辺にもいくつか、この巨大な本殿と同じ形をした建の殘骸が浮遊しているのが見える。寺院の類かもしれない。

「このままじゃ追いつかれる。進もう！」

が頷き返す。彼の手を取ったまま走り出した。不思議だ。こうして彼にれていると傷の痛みが気にならなくなって、走る事さえもできるようになっている。

ところどころが崩れ、崩落した橋は頼りない。額に汗して二人で跡に向かって走った。

背後で鳴り響く音に振り返ると、怪が橋に到達し、六本の腳を忙しなくかし這いつくばるように橋を破壊しながら突進してくる。

痛みを堪え、死にもの狂いで跡のエントランスまで走りきり、部へと走り込む。

薄暗い跡の中は吹き抜けになっていて、崩落した天井付近まで何層もの環狀通路が壁に巡らされていた。

中央にはそれなりの大きさの像が臺座に乗せて安置されていたようだが、崩落の犠牲になったのか半分以上崩れて原型はわからない。

部を素早く見渡す。左右に通路。階段か？　どちらへ逃げる。

「上へ！」

怪は既にエントランスに達している。彼頼みになるが、張り巡らされた回廊を足がかりに上に逃げよう。

が跡の床を蹴って浮上しようとしたとき、橫目で見ていた怪がほぼ同時に跳躍するのを見た。

足が床を離れ、浮き上がろうとしたその時――――、撃ち出された砲弾のように怪の黒い眼窩が目前に迫った。

咄嗟に握っていたの手を離す。彼は俺の重みから解放されて即座に浮かび上がり、驚いた顔で俺を見た。橙の長い髪が靡いて揺れる。

音と激しい振を巻き起こして怪は俺たちのいた場所に落下してきた。手を離したおで、は飛び上がり俺もなんとか橫っ飛びに奴を避けることができた。間一髪だ。

起き上がると、振と細かな瓦礫の落下する音が床を伝わってくる。

床の石材が隆起し、亀裂がる。跡中に響き渡るような轟音を立てて地面が、立っていた床が沈む。そのまま足場を失って、跡の床と共に俺は落下した。

「うっ、わああああぁぁーーーー！！！！」

脆くなっていた床が、怪の衝突の加重に耐えきれず崩落した。前も後ろも、前後左右もわからずただ落ちるに任せるしかなかった。

を打ち、転がってさらに落ちる。崩落が止まり、自分がまだ生きていることを確かめた時には全傷だらけになっていた。

「ぐ、あ……」

と手を離してから、だるさと傷の痛みが増していた。加えてさらに打撲やらり傷やら、まだ生きているのが不思議なくらいだ。

幸いなことに、手足がちぎれ飛んでいたり腹にが空いたということはない。

土埃が舞い立つ中、を仰向ける。微かに天井に空いたが見える。それなりに落ちたようだけど、に當たりながら段々に落ちたことで致命傷は避けられたらしい。すぐ近くに怪の気配はじない。

最早靴まで真っ赤に染まった足を見下ろす。シャツの袖を思い切り引っ張って破く。

正確な止法なんてわからない。だけどこのまま傷を放置することはできない。

できるだけ迅速に、破いた袖を足首と太に巻きつける。縛って圧迫する瞬間は針を刺すようで、思わず涙が滲む。

「クソッ、痛えぇ……」

腰も、左手も痛み、全が痛みできりきりする。それでも行かなければ。

屈んでから立ち上がり、崩落した床の上方を見上げる。斷続的に音がして、回廊を飛び移る影が見える。が怪から逃げ回っているようだ。

ふと、すぐそばにある折れた柱のようなものに目が引き寄せられる。崩落に巻き込まれて元の形はわからないが、掘られた複雑な裝飾から祭壇のようにも見える。

「これは」

折れた柱の斷面上に金屬質のが載っているのが目にる。それはここにあるのが場違いに思えるようなしい裝飾のある白と銀の金屬塊で、緻な彫りが施された取っ手に、細くびた筒のようなものが載っていた。

それはコンパクトな短杖のように見えた。