《星の海で遊ばせて》エピローグ ~この空が崩れ落ちても~

橋の上で柚子を見つけた後、詩乃は柚子を連れて旅館に戻った。その旅館というのは、柚子が一泊の予定で予約していた旅館である。実際は、柚子は一晩泊るつもりはなく、昴のコンサートの前、著に著替えるためだけの更室として予約したに過ぎなかった。

びしょ濡れの二人が自ドアからってくると、フロントの將は驚いて、仲居にバスタオルを持ってこさせた。その日、著から浴に著替えた後から、柚子は三日間熱を出した。詩乃は宿と渉して、柚子の熱が治まるまで、普段は貸し出されていない部屋を借りられることになった。

年の瀬で、宿も、他の部屋はもうすっかり埋まっていた。

詩乃は、柚子が熱を出している三日の間、柚子の部屋に泊まり、一時も目を離さないようにしていた。トイレもできるだけ早く済ませ、風呂も、その宿には溫泉があったが、部屋にあるシャワーで済ませた。一瞬でも、柚子を一人にするのが不安だった。

三日間、柚子が布団で寢ている傍らで、詩乃は宿からA4のコピー用紙を貰い、執筆作業をしていた。この三年間が噓のように筆が進んだ。柚子が起きて、微睡んだ眼で見つめてくる時には、詩乃は柚子の寢ている傍らに座って、柚子の手を握ったり、頬をでたりして、柚子を勵ました。

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「夢じゃなかったらいいのに」

と、そんな事を、柚子は熱を出している間、何回か口にした。

そのたびに詩乃は、「夢じゃないよ」と応えた。

三日目の夜中、柚子は目を覚ました。

その時詩乃は、ナイトライトの微かなオレンジの明かりの元、自分の布団に座ったまま、テーブルに突っ伏して居眠りをしていた。しかし詩乃はすぐに、柚子が上半を起こしたれの音で目を覚ました。柚子は、詩乃の背中に近づき、背中から詩乃を抱いた。

詩乃は目をこすり、柚子の頬にれた。

合、どう?」

「もう全然平気」

詩乃は柚子の額に手をやり、それから、テーブルに置いておいた溫計を柚子の額にかざした。

もうすっかり、熱は下がっていた。

「良かった……」

詩乃は、ホッとをなでおろした。

明日の朝熱が下がっていなかったら、醫者を呼ぼうと思っていた。

「ありがと」

柚子は、詩乃の耳元で囁いた。

詩乃は、そんな柚子の蠱的な所作に微笑した。

「いや、いいよ」

そう応えた詩乃の耳を、柚子はかぷっと甘噛みした。

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何してるのと、詩乃は言い、くすくすと二人、笑いあった。

その後で、柚子は詩乃に訊ねた。

「でも、詩乃君は、大丈夫なの?」

「何が?」

「お仕事、とか……」

詩乃は、聲を上げて笑った。

そんなつまらないことを、そんなに深刻そうに聞かないでよと詩乃は思った。〈とろたま〉の方は、柚子と再會したその日の夜、清彥に電話をして、暫く出られない旨を伝えていた。自分の事だけではない。詩乃は柚子の事も、奈や福と電話のやりとりをして、今は柚子本人が連絡をできる狀況ではないことと、暫く休みが必要であることを伝えた。そして、奈から柚子の実家の電話番號も聞いて、柚子の両親とも話しをしていた。

「何も問題ないよ。心配しなくて大丈夫」

「でも――」

詩乃は、不安がる柚子に重をあずけた。

ころんと布団の上に、二人は背中から転がった。

「忘れようよ、仕事の事なんて。別に、今はそんなの、どうでもいいよ。新見さんの、職場の方にもちゃんと連絡してあるから」

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「あ、私、攜帯――」

上半を持ち上げた柚子を、詩乃は座ったまま抱き寄せて、背中をでた。

「まぁまぁ、大丈夫だから」

詩乃にそう言われると、柚子も、大丈夫か、という気になった。そのことが柚子にも不思議だった。仕事や金や、んなものを失ったとしても、詩乃がいたら、何とかなるような気がした。

「詩乃君、寢不足?」

詩乃は笑いながら応えた。

「そうかもしれない。あんまり時間は、気にしてなかったから」

「……ごめんね」

柚子は、詩乃の肩に頭を乗せながら、うな垂れた。

柚子は今、本當は、枕投げができるほど元気だった。そのことが、詩乃に申し訳なかった。

「うん」

詩乃は、吐息のような返事をした。

柚子は、詩乃の首筋にをつけた。

「もう行かないで……」

か細い聲で、柚子が言った。

その、心から訴えかけるような響きに、詩乃は、十年前の自分の意固地にが痛んだ。あの時の自分は、柚子の元を離れるしかなかった。一人背水の陣を敷かなければどうしようもならないと考えていた。それはきっと、仕方ないことだった。そうに違いないのだけど……。

今、詩乃がじるのは、自分の決斷への後悔ではなかった。

ただ、ただ、新見さんに悲しい、寂しい思いをさせてしまったことへの申し訳なさだけが、詩乃のに溢れていた。こんなに追い詰められるまで、ずっと、一人にしてしまった。そのことへの懺悔心が、ぐぐぐと、詩乃の心臓を締め上げた。

行かないで、と言われなくても、詩乃の答えはずっと決まっていた。

「うん」

詩乃は頷いた。

柚子は語気を強めて、念を押すように言った。

「私の所にずっといて」

「うん」

詩乃は、じっくりと頷いた。

柚子の傍にいることに、もう條件は無い。十年前と今と、自分が変わったのは、借金があるかないかだけだ。でも借金なんてものは、自分が思っていたよりも、大した問題ではなかった。特に自分と、新見さんの関係の中では。そのことに気づくのに、ただ十年がかかった。

柚子は、元気になったその力いっぱい、詩乃を抱きしめた。

ぎゅっと、しがみつくような柚子の抱擁に、詩乃の心はなお痛んだ。

やがて、詩乃は、外の雨音に気づいた。

また、雨が降り出したらしい。

「雨だね」

詩乃は言った。

「うん」

柚子は詩乃の首筋に鼻をくっつけながら頷いた。

それからぽつりと、柚子が言った。

「雨っていいね」

詩乃はくすくすと笑い、柚子に頬を寄せて鼻と鼻をくっつけた。そうしてから、詩乃は立ち上がり、広縁のガラス戸を開けた。小さな砂利庭の石も土塀も、部屋からの微かな明りに照らされて、雨に濡れているのが分かる。

石にぶつかる雨音はかちり、かちりと固くなり、雨は二人の見ている間に霙になったようだった。冷たい空気が、柚子のに籠った最後の熱を冷まして、吹き飛ばした。

「詩乃君、背びた?」

「筋はついたかも」

「髪もびたね。ばしてるの?」

「ううん、面倒で」

これは夢じゃないんだな、という実が、柚子の中で確かなものになってゆく。

二人は互いの顔を見つめて、くすくすと笑いあった。

十年という歳月が流れたはずなのに、今は、ずっと一緒にいたような気さえする。その不思議な覚を共有し合っているのが、二人には可笑しかった。

詩乃は笑みを浮かべたその眼差しで、空を見上げた。

星も月も見えない冷たい霙の夜空。

吸い込まれそうになる暗闇に、詩乃の笑みは消えた。

倒れないように後ろ手を組み、息を吸い込む。

「やっぱり寒いね」

柚子はそう言いながら、詩乃の腕を支えるように抱いて、を寄せた。

「呑み込まれそうだよ」

詩乃は、夜空を見上げながら言った。

「大丈夫だよ」

柚子は跳ねるような聲でそう応えた。

微かに振り向いた詩乃の頬に、霙の粒がついていた。柚子はくすりと笑い、詩乃の霙を人差し指で拭った。詩乃は不意に、柚子の手に初めてれた瞬間を思い出した。火傷で微かに赤くなった、あの左手の人差し指を。

詩乃は、柚子の瞳のしさに息を呑んだ。

柚子はにこりと笑い、そして、楽しそうに言った。

「――だってどこからでも、〈星の海〉は見えるんだから」

〈あとがき〉

『星の海で遊ばせて』これで正真正銘、完結です。

ここまで一年半、読者の皆様には、長きに渡りお付き合いいただき、ありがとうございました。本當に謝しかありません。読者の皆様がいなければ、恐らく、全部書ききれていなかったと思います。一年半、この語の事だけ、ほとんど四六時中考えていました。そのエネルギーを、皆様からは貰っていました。本當にありがとうございます。今はともかく、安堵しています。柚子にも詩乃にも、報いることができました。これで二人は、そして他の登場人も、自分の手から離れて、自由になれます。本當に、安堵です。

4章も書きあげるのは大変でしたが、この5章は、それとはまた別の辛さがありました。著手までに四カ月かかり、実際に書き始めたのは五月にってからと、とにかく、時間がかかりました。柚子がまさかアナウンサーになっていたなんて、実は、私も驚いています。「作者はその世界の神様」なんて言われることがありますが、登場人に書かされている、というのが実態のような気がします。本當に最後、二人が出會えて良かったと、作者の私が言うのもおかしな話ですが、本當にそう思います。

真剣に、誤魔化しなしでラブストーリーを書いてみたい、その思いが発端となって、書き始めた作品でした。タグに「ラブコメ」をれたのは、白狀しますが、読者數を増やしたかったからです、すみません 最初から、コメディーをやる気はスプーン一匙分もありませんでした。とにかく、直球勝負がしたかった。そこで柚子と詩乃に白羽の矢が立った、というわけです。

彼らは、私が生み出した登場人というより、第一話を書き始めたその段階で、すでに私の作意の手を離れていました。二人の真剣さに、私は常に翻弄されながら、できるだけ正確に二人の心だったり、見ている景景を文字に落とすようつとめました。私自、こんなに長い作品を書くのも、そしてこんなに辛いのも、そしてこんなに楽しかったのも、執筆経験上初めてです。

もしこの作品の後日談が書きあがったり、また、何かのめぐりあわせで書籍化できるようなことがあれば、またその時は、「連載」として一報れようと思います。書籍化に関しては、そんな星を摑む様な話、とは私自思っていますが、そうは言っても人生何が起きるかわからないものですから、あえてその可能まで否定することは無いと思っています。

ですから皆様、いつかまた、お會いしましょう。

そんな希が、私にとっての一の薔薇であり、スプーン一匙の砂糖です。

最後になりましたが、改めてお禮を申し上げます。誤字・字報告なども、大変助かりました。

また、容に関すること、これはどうしてこうなの、ということ、設定上の事や制作話・質問、そして想等々、もしあれば、なんでもお寄せいただければと思います

2022.8.17 ノマズ(茶ノながら)

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