私の暮らす王國、スレニア王國は、北方の隅にある小さな王國だ。大きな利益をあげる特産品もなく、特に裕福なわけでもなく、必要最低限の外をしながらひっそりと存在していた。

そして、南の帝國、エルサイド帝國の支配下に、真っ先に下った王國でもある。最初は散々に非難されたと聞いているが、抵抗した隣國が圧倒的な國力差で叩き潰されているのを目の當たりにし、今では英斷と稱えられるようになった。

真っ先に臣下に下った溫として、うちの王國はかろうじて自治を許されている。といっても、実際は放置に近いのだが。

何度も繰り返すが、特に國防の要でもなく、経済の要でもなく、ただ単にひっそりと存在するだけの王國なのである。気楽でいいとも言う。

とはいえ完全な放置でもなく、時折、帝都から視察と稱して役人がくる。そのはずだったのだが、いきなり、皇太子その人が來ると知らされて國は大騒ぎになった。

そしてさらに。

「まさかその皇太子まで偽なんて、普通思わないでしょうが！」

「相変わらず騒がしいな、アイリーン」

「うえっ！？」

急に後ろから聲をかけられ、淑にあるまじき聲を上げた私を、楽しそうに見るこの男。

水というか、灰というか、なんとも言えないくすんだの髪。高くもなく低くもない長と、やや長めの前髪。顔の多くを覆うのは、明らかに不釣り合いな大きさの眼鏡。

エルサイド帝國皇太子、ヴィクター・エルサイドその人である。ただし、変後の姿。

「お、お久しぶりですわ殿下」

「ん？　俺は、ただのしがない下級役人だが？」

「私相手に惚けても無駄だと存じますが」

「お前も俺相手に取り繕っても無駄だろうが」

「……」

そうして口の減らないこの男は、私の留學時代の友人でもある。大変に、不本意だが。気にらないが。認めたくはないが。

私が、王太子妃教育と稱してエルサイド帝國に留學したのは數年ほど前のことだった。私としては現地の學園に通い、趣味の研究に沒頭しつつ社をしつつ、平穏に留學を終えるはずだったのだが。

この地味眼鏡に絡まれ、さらにひょんなことからその正を知ってしまい、友人と呼べなくもない関係になった後に帰國した。

「久しいな」

「しれっと挨拶する前に、なぜこんなことになっているのかご説明願えますか！？」

「落ち著け。禿げるぞ」

「禿げっ」

まさかないとは思うが、咄嗟に髪のを押さえた私を見て、いつの間にかベンチに偉そうに腰掛けていた殿下は、揶揄うように笑った。

とはいえ、いい加減落ち著いた方がいいかもしれない。大きく息を吸って、面倒になってその隣に腰を下ろした。

「殿下、なんでまた、変して視察など滅茶苦茶なことを。変薬の用はやめてくださいと留學時代に散々申し上げましたよね？」

「お前は母親か」

「主治醫みたいなものでしょうが。私は、純粋に殿下のおを心配して」

「分かってるよ」

ため息をひとつついて、大きく足を組む。その地味な造形に似合わない姿に、思わず眉を寄せた。ものすごく偉そうな下級役人がいる。あと、素直に謝してほしい。

「だがこれには、重大な理由があってだな」

「……はい」

「俺は、本気でこの國を見極めにきたんだ」

「と仰いますと？」

「お前の國の人間、この時點で皇太子が偽だと、お前を除いて誰1人気づいてないだろう？　偽皇太子は、確かに変薬で簡単な背丈と髪くらいは俺に合わせてあるが、顔はほぼ変えてない。というか、変薬にそこまでの効能がないのは、お前も知っている通りだ」

私の専門は、変薬だ。言われなくても、よく分かっている。きっと殿下よりも詳しいだろう。

のつくりを本的に変化させる変薬には、もともと激烈な効能を持つものは使用できない。使用者へのの負擔が大きすぎるからだ。

ほんのし、長を高くしたり。髪をばしてみたり、を変えてみたり。しだけ、鼻を高くしたり、郭をふっくらさせたり。できるのはせいぜいその程度だ。

しかも、數種類の同時服用は基本的に不可能だ。薬同士が反応して、拒否反応を起こすことがある。それで死に至ったケースがあることも、過去に確認されていた。

「まさか、ライアン様にも変薬を飲ませたんですか？」

「おう。というか、よくライアンだと分かったな」

「いや、ライアン様以外の何者でもありませんでしたよね？」

ライアン様は、殿下の側近だ。腐れ縁と本人はよく嘆いている。そうして、こういう時に犠牲になるのは、大抵彼だ。不憫で仕方がない。とびきりの面倒を背負った彼に、心の中で手を合わせる。

「話をそらさないでください。殿下が変薬を複數用するのはもう諦めましたが、側近にまで的負擔をかけるのはどうかと思うのですが」

「アイリーンが調合した拒否反応の解毒薬を渡しているさ。それなら無害だ」

「まだ持ってたんですか？！　正式な権利は帝國の研究所に渡しているんですから、そちらから新しいものを買ってください！　改良もされているはずです！」

「お前が作ったやつの方が効きがいいんだよ。ああ、そうだ、追加注文。長調整と髪のやつと……」

「ですから、待ってください。私の調合はあくまでも趣味です。帝國の皇太子様に気軽に飲ませることなどできるわけがありません。そんなことより、ライアン様にどれを飲ませました？　組み合わせによっては、解毒薬が」

「大丈夫だよ、お前の殘した辭書には目を通してあるから」

辭書。

一瞬訳が分からなかったが、すぐに思い出す。変薬の効能と、各組み合わせごとに発生する拒否反応、その解毒薬をまとめた私のレポートだ。いくつかの研究所にも認められたもので、訳あって私の名前で発表こそできなかったが、なくとも正しいことに自信はある。

確かに分厚くなったが、辭書とまではいかない。辭書の、せいぜい3分の2くらいだ。いや、4分の3かもしれない。

「それなら、大丈夫かもしれませんが。なんでそんな面倒なこと……」

「そういえば話が逸れたな。俺は、試しにきたんだよ、この王國を。偽の皇太子に気づくか、気づいた後どうするか、皇太子ではない一介の役人として見にきたってわけだ。何度も言っただろ、皇太子とそれ以外で骨に態度変えるような奴にろくなのはいないんだよ」

「……面白がってるのが何割ですか」

「俺は至って真剣だが？」

今更、わざとらしく真剣な表を作って見せる殿下を、一発毆りたい衝を抑える。

「今更、私相手に取り繕っても無駄だと思いますよ」

「さっすが、俺のことよく分かってるな。3割だ」

「本當のところはどうですか」

「……半分ってところだな」

「だと思いました」

「ああそうだ、俺の正を誰かに明かしたら、勝手に俺の計畫を臺無しにしたってことで、不敬な？」

「っ都合よく不敬を用しないでください！」

こういう人だ。

もともと、変薬を用し、視察と稱して市井に潛り込むのが趣味のような男だ。一応視察もしているようだが、前は屋の主人と意気投合したと聞いている。酒場のお姉さんと良い仲になったとも。

ふらふらと歩き回って、周囲を困らせる天才。だが、本人も皇帝になるまでの期限付きだと言っているし、公務はしっかりとこなしているから何もいえないのだという。

私の元婚約者と言い、どこか頭がおかしくないと國の頂點には立てないのだろうか。

一瞬揺らいだ顔を、殿下は見逃さなかったようだった。

「で、大丈夫か」

「私ですか」

「他に誰がいるんだよ」

「別に、あまり気にしてません」

「強がんなよ」

「別に」

ぐっと、腰を引き寄せられた。急な著狀態に驚いて強ばった私のを安心させるように軽く叩き、その手が私の頭に乗った。どうやら、めようとしてくれているらしい。

留學時代も、何かと理由をつけて私にれようとしてくる殿下を、婚約者がいるからと斷っていたのだが、今はもうその必要もない。拒否するのも面倒で、私は殿下のれるままに任せた。

「とかは、ないですよ。もともと王太子妃なんてんでませんでしたし。私がやりたいのは変薬の研究で、一番楽しかったのは留學時代でした。だから解放されてすっきりはしているんですが」

「ああ」

「……まあ、一応、一生かけてにつけてきた々が認められなかったのと、無駄になった悔しさはありますね」

「無駄ではないんじゃないか？」

ふっと笑った殿下が、私の顔を覗き込む。普段の悍な殿下の顔には似合う表だが、地味眼鏡下級役人には似合わない。違和で落ち著かない。

「今からでも、王太子妃になればいい」

「何を仰るんですか、婚約破棄されたばかりですよ」

「継承権を持つ婚約者のいない男は、世界に1人だけというわけでもないだろう？」

段々とその言葉の意味が沁みてくる。つまり、この男は。

「ご冗談を。いつも通りで安心します。……めてくださって、ありがとうございます」

「俺は至って本気なんだが？」

「私相手に取り繕っても無駄です。もう一度やりますか？　……まあこれでも、本気で謝してるんですよ？」

王太子妃の座に拘りは何もなくても、流石に堪えていたようだった。ふっとの力が抜ける。用に私を支えた殿下の表は見えないけれど、その手つきは優しかった。

「それにしても、來賓の皇太子の前で婚約破棄なんて、何を考えているんでしょうね」

「後で覆されないようにしたかったんじゃないか？　アイリーンを慕う人間の方が多いだろうし、最大の証人がしかったんだろうさ」

「それで、帝國の皇太子の目の前で婚約破棄なんてしますか？　神経を疑います」

「誤解するなよ？　俺も心底軽蔑したし腹が立ってるからな？」

「すみません、お見苦しいところを」

「いや、そういう話じゃないんだが」

ゆっくりと、殿下のからを起こした。隨分と、甘えてしまったようだ。しばかり、予定外だった。

「そういえば、解毒薬の注文を聞かせてください。研究所の方につてがありますから、どうにかします。効果についても、私の方から働きかけてみますよ。郵送なり手紙なり、後で連絡を取ります」

「……斷る」

「なぜですか」

「アイリーンはもう俺に會わないつもりか？」

「明日にも、私は公爵家に戻されると思いますので。殿下は城に滯在されるでしょう？　それにそもそも、會いたくても、普通お目にかかれるような方ではないでしょう」

「會えるとしたら、會いたいのか？」

「……まあ、そうですね」

渋々だが、肯定した。この人は放っておくと変薬を用する。いつに限界が來るか分からない。會っていなかった數年の間に私の薬も使ったというし、一応責任を持っての狀態を見ておきたかった。

そう説明すると、途端に不機嫌な表を隠さなくなった殿下が、不満そうに告げる。

「だったら、俺の世話係でもやってくれ。滯在期間中だけだ」

「……世話係？」

「世話係でも接待役でもなんでもいいが、大抵そっちから人を出すだろう。アイリーンを指名するから、けろ」

「いや、私婚約破棄されたばかりなんですが」

「帝國の皇太子がいいと言えば、大抵のことは通るだろ」

「……分かりました。引きけます。その代わり、健康観察だけですから。そういう世話はしませんよ」

「何、期待してたのか？」

「っしてません！」

真っ赤になった頬を隠すように、俯く。

大抵こういう時につけられる世話係というのは、夜のお相手をするであることがほとんどだ。もちろん婚約者や妃がいれば遠慮されるが、殿下にはどちらもいない。噂によると、本人が逃げ回っているらしい。

「じゃあ、明日から頼むぞ」

もうしここに殘るという殿下と離れて、家に帰る。まだパーティーは終わっていないが、私が戻っても空気が死ぬだけだろう。ただでさえ、重鎮たちは婚約破棄で滅茶苦茶になった場を立て直すので必死のはずだ。

家に帰った時の反応を考えて今から気が重いが、仕方がない。書類関係も膨大になるだろうが、その程度で解放されるなら構わない。

葉うなら、帝國に行きたいと思った。文化の発展したあの國は、ここよりもずっと學びが充実しているし、私のような研究者を目指すもけれられるかもしれない。

馬車に揺られながら、ゆっくりと窓の外を見つめていた。