《【電子書籍化】殿下、婚約破棄は分かりましたが、それより來賓の「皇太子」の橫で地味眼鏡のふりをしている本に気づいてくださいっ!》第6話 平穏無事な留學、にしたかった ※加筆

それから、彼は時折私の研究室にやってくるようになった。

々なことを知った。

私、だと思っていた一人稱は、実は僕、だったこと。

私以上に片付けと整頓が嫌いなこと。

私の淹れるなんとも言えない味になってしまうお茶が、意外と口に合うらしいこと。

時折眠そうにとろりと目が溶けること。

紳士だと思っていたグレイ様は、必ずしも完全な紳士ではなくて、けれど私にはそれが好ましかった。

そう、友人だと思っていたのだ。帝國まで留學に來て、そうしてできた気の置けない友人。そのはずだったのに、そのまま終わると思っていたのに、ある日、事件は起きた。

がしゃん、とカップが落ちる音がして、私は勢いよく振り返った。

「っ、大丈夫ですから、す、みませ」

口元を押さえて蹲るグレイ様。その顔は蒼白で、冷や汗が頬をすっと伝った。大丈夫、と繰り返し紡ごうとする聲は掠れて震えていて、全く大丈夫なようには見えない。

「グレイ様!?」

「大丈夫です、いつもの、ことなので。すぐに、落ち著きますから」

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「いや、大丈夫なわけないでしょう!? 早く、人を」

「いい、ですから」

立ち上がりかけた私の服を弱々しい力で握り、引き止めようとするグレイ様をどうしていいかわからず、私は途方に暮れる。

その手を振り解こうかと見下ろした時、私の目はそれを捉えた。

真っ白なその手の中で、異様なほどに赤く腫れた小さな発疹。あまり見かけない種類のそれは、私には、ひどく見覚えのあるものだった。

「……変薬ですか?」

「……っ」

躊躇いがちに聞けば、グレイ様は言葉につまる。その沈黙が、何よりも雄弁にその答えを語っていた。

拒否反応、だった。彼の調不良は、複數の変薬を同時に服用した時に現れる拒否反応に、あまりにも酷似していた。それにしても、激烈すぎるけれど。一、どれだけ同時に服用したのだろうか。

「解除薬です」

研究室に常備しているそれを、無理矢理に、口の中に押し込んだ。

薬の研究は、強い危険を伴う。によっては皮にかかっただけで効果があるのだから、解除薬は當然用意してあった。

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的に拒否反応を起こしている変薬同士が分かれば、それを中和するための解毒薬も使えるのだが、それが分からないときは変ごと解除する解除薬を使うしかない。

グレイ様が変薬を常用していたのだとしたら、私に隠しておきたかった彼の姿を暴いてしまうことになるのかもしれない。

大きく、グレイ様が咳き込んだ。苦悶の表を浮かべ、を折り曲げる。

けれど、明らかに苦しんでいるらしいグレイ様を、放っておくことはできなかった。

しばらくして、その効果は現れた。

まずは、髪。くすんでいた合いが一気にしく澄み渡り、き通るような艶を持って揺れた。かしゃん、と軽い音を立てて眼鏡が床に落ちたのは、きっと顔が急に小さくなったからだろう。

眼鏡の奧で伏せられていた目には、長くびた銀糸の睫が影を落とす。

整った、この世のものとは思えぬほど整った、しい銀のひと。

「……え、うええっ!?」

どう頑張っても淑とは言えない奇妙な聲で絶した私は、絶対に悪くない。

「え、あ、え、その」

完全に言葉を失い、意味のない音ばかりを口からこぼす私を、その目が気怠げに捉えた。

何度か瞬いたその目が、ゆっくりと焦點を結ぶ。自らの置かれた狀況を理解したらしい彼は、楽しげな微笑みを浮かべた。

「どうした?」

「ど、どうしたもこうしたも」

なぜ、この人は楽しそうなのだ。普通、焦るところだろう。

「皇太子、殿下」

「正解」

「いや、正解ってそんな滅茶苦茶な!」

的に返した後、さっとの気が引いた。

私、死ぬかもしれない。

同級生だと思って、散々に気軽な口を聞いた。なかなか失禮なことも言ったし、信じられないくらい汚い部屋にも通したし、帝國で2番目に高貴な人に素人がれた安のお茶を飲ませた。

今更は拭えないが、咄嗟に跪こうとした私を、グレイ様、いや殿下が、手を振って止めた。

「別に、今まで通りでいい」

「……お許しください。殿下に、今までのような失禮な態度は」

「俺が良いと言っているのに、問題があるか?」

いや、問題しかないでしょう!?

流石に言うことは自重したが、まだ混はおさまらない。

つまり、グレイ様は、エルサイド帝國皇太子のヴィクター殿下で。ずっと私の研究室に來ていたのは、私と話をして私のお茶を飲んでいたのは、この國の皇太子殿下で。

呆然としていると、殿下が、數度咳き込んだ。

先程のような激烈な癥狀こそ治まったようだが、まだその顔は悪い。明らかに本調子とはいかない様子だ。

けれど流石に、変薬を使ってまで正を隠していた殿下がいるこの部屋に、人を呼ぶわけにもいかないことはいくら私でも理解している。つまり、今ここには、私しかいない。

「まず、橫になっていただけますでしょうか」

そう言った私を、驚いたような顔で殿下が見上げた。

「……あまり、綺麗な場所でなくて申し訳ございません。床よりは、しは、居心地が良いかと存じますので」

「どうして」

またも言葉を遮られ、私は咄嗟に口をつぐむ。この人、驚くくらいに人の話を聞かない。

「事を聞かないんだ?」

「……気にならないと言えば噓になりますが、まずは休まれてください。おが第一です」

「……分かった。謝する」

気怠げにを起こした殿下は、そのままゆっくりとソファに上がる。やはりは辛いようで、億劫そうなきだった。すぐにを橫たえた彼は、數度息をつくと、ゆっくりと目を閉じた。そのの力がふっと抜けるのを確認して、すぐに規則正しい寢息が聞こえてきた。

ドアの方を見た。しっかりと鍵がかかっていることを確認して、ふう、と息をつく。

待って、待ってほしい。私の研究室で、皇太子殿下が寢ている。それはもう、しっかり、完全に。

どうしたらいい。誰かに相談して良いのか。けれど殿下の事を何も聞かないままに、私が勝手に話を広めてしまって良いものか。

どう考えても良くない。これは、見なかったことにするのが一番良いのだろう。何事もなかったかのようにお互いに振る舞う方が、うまく行くはずだ。殿下だって、私などに正を知られたくはなかっただろうし。

う、と小さくく聲がした。その白い頬をすっと汗が伝うのを見た。

流石に、無視はできなかった。

できるだけ上質な布を探して、しっかりと洗う。萬が一にでも埃が付いていたら困る。

もちろん普段から殿下が使っているものと比べてしまえばぼろきれだろうが、ここにはこれくらいしかない。汚いものを、勝手にれるな、と怒られたらそこまでだが、わした短い會話や、今までの様子から推測するに、きっと殿下はそんな人ではないだろう。

それよりも、しでも楽になっていただきたかった。一応、友人、として。短い間ではあったが、ともに研究をしていた仲間、として。

しだけ躊躇って、そっとその汗を拭った。最初は違和があるのか顔を背けるような様子があったが、すぐにその力が抜けた。

強く引き結ばれていた口元が緩み、落ち著いた寢息を立て始めた殿下を確認して、靜かに手を離した。

平穏無事な留學、にしたかった。研究に思う存分沒頭できる最初で最後の機會だと、楽しみにしていた。

けれど、どうやらそうもいかないらしい。

眠る、しい寢顔を見下ろす。ふう、と零される寢息で靡いた銀の髪が、わずかに差し込んでくるを反した。

特大の厄介ごとだと理解はしていても、そこまで、嫌な気はしなかった。

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