《【電子書籍化】殿下、婚約破棄は分かりましたが、それより來賓の「皇太子」の橫で地味眼鏡のふりをしている本に気づいてくださいっ!》第8話 茶葉は安でした ※加筆

楽しい時間はあっという間。

ずっと前に自分で思ったはずの言葉を、思い返した。

「アイリーン様」

聲をかけられ、大量の荷を馬車で待つ使用人に渡す。そのあまりの量に引いているのが分かったけれど、どれも私にとっては大切な研究結果だ。スレニアに持ち帰らないなどありえない。

重労働をさせて申し訳ないけれど、大切に扱うように再三釘をさす。本當に危ないものは私の手元にあるが、絶対に安全な薬などないのだ。

「そろそろ、お時間です」

「……そうね」

スレニアに帰る時間は、刻一刻と迫っている。なんなら、しばかり過ぎている。

それでも帰らないのは、もしかしたら見送りに來てくださるだろうか、なんて淡い期待があるからだ。自分でも馬鹿らしいとは思うが、馬車の方へ足がかないのも事実。

もう帰る、と告げた時には、しばらく間があった後、へえ、とだけ返ってきた。

それがどういう意味なのか分からず本気で困する私を目に、殿下はさっさと背を向けて寢てしまって。こんな言い方をすると殿下がいつだって寢ているかのようだが、それは違う。いや、あながち間違ってもいないのだが、もちろん力的に研究をすることもあるのだ。

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けれど、私の帰國が近くなってからは、ああして寢ている日が増えたような気もする。研究も一度終わらせる方向にしていたから、そこまでやることがなかったというのも事実だけれど。

甘い期待はもうやめて、もう帰ろう。そう思った瞬間に、その聲が聞こえた。

「アイリーン」

しばかり躊躇うような聲で呼びかけられ、振り返って見えたのは地味で眼鏡な殿下の姿。しばかり跳ねてしまった単純な心臓が、恨めしかった。

本來の姿で來られては大騒ぎになっただろうからありがたくはあるのだが、その銀糸の髪が見られないことをしだけ殘念に思った。

「グレイ様」

偽名で返せば、しだけその眉が寄せられる。

「見送りに來た」

「ありがとうございます」

お互いに、何もなかった。何を言って良いかも分からなかった。

「アイリーン様」

今度は嗜めるように響いた帰國を促す聲に、私はし苦笑する。すぐに行く、と返事をして、私は殿下に向き直った。

「今まで、ありがとうございました」

「……ああ」

「まあ、それなりに、楽しかったです」

本當に楽しかった、といえないのは、妙な気恥ずかしさと、それを認めてしまうのが癪だったから。

「……それなり」

「別れを寂しく思うくらいには、楽しかったですよ」

言い直せば、殿下はしだけ笑った。てっきり素直になった私を揶揄うと思ったけれど、その様子はない。

「では、時間も時間ですし、ここで失禮します。……ありがとう、ございました」

泣かないのは、私の意地だ。

必死で涙を堪えなくてはならないほど、いつの間にかこの人に絆されていたという事実が、なんだか悔しかった。

くるりと背を向けて、馬車の方へ向かう私の手が、摑まれた。しばかり痛いその力に、驚いて振り返る。

殿下は、私の腕を摑む自らの手を、驚いたような表で見下ろしていた。しだけなんともいえない間があって、その手が離れた。

支えをなくした私の手が、ゆらりと揺れる。

「……アイリーン」

「はい」

「茶葉を、教えてくれ」

「……はい?」

想像を遙かに超える角度で突っ込まれた言葉に、絶句する。

「茶葉だ。研究室で、使っていた」

「え、あ、その、悲しいくらい安ですが」

やや恥ずかしくなりながら、その銘柄を答える。殿下に限って怒られるなんてことはないだろうが、流石にもうし良い茶葉を使っておけばよかったと後悔した。

「……謝する。ありがとう」

それを聞いた殿下は、珍しく素直にお禮を言った。

そのお禮が、私が茶葉の銘柄を答えたことに対してのものではないことくらいは、私にもわかった。

「はい」

そう答えれば、ずっと強張っていた殿下の顔がしだけ緩んだ。

「では、さようなら。どうぞ、お元気で」

背を向けて歩き出しても、今度は引き止められることはなかった。代わりに、小さな聲が、背中からかけられた。

「幸せにな」

しばかり大袈裟なそれに、片手を振って答えた。

顔は、見られたくなかった。

それが、私と殿下の別れだった。

もう二度と會うことはない。はず、だった。

はず、だったのに。

気がつけば殿下がスレニアに來ていて。気がつけば世話係なるものになっていて。

世界が狹すぎる。まさかこんなことになるなんて、あの時は予想してもいなかった。

お茶を要求され、使用人たちになんともいえない視線で見守られながらお茶を準備していた時、懐かしいお茶の缶を見つけたのだ。

明らかに高級そうな、良いものばかりが並ぶ茶葉の棚の中に、一つだけ、ぽつんと置かれていた安の茶葉。それを見た瞬間に湧き上がったこのに、名前をつけるならば、喜び、なのだろう。

しばかり腕が落ちたかもしれない、と心配していたけれど、殿下の表はあの時と変わらなかった。一口飲むと、ふっと、小さく息をついた。

そんな仕草も、昔と変わらない。

満足そうにお茶を飲む殿下を見つめる。その銀糸の髪が、さらりと揺れた。

「もったいないですね」

考えることもなくぽろりとらした言葉を、殿下は聞きらさなかった。

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