「……」

震える聲を必死で押さえつけ、一杯の微笑みを作って、もう一度繰り返した。

「おかえり、なさい」

ぴたりときを止めた彼に私の予想があっていたことを確信する。腕を摑むと、引きずるようにして2人の部屋に向かって歩いた。本來なら私程度の力でくわけはないのだから、どうやら素直について來てくれているようだった。

勢いよく扉を開け、すぐに閉める。

ばん、と扉がぶつかる音は、想像以上にうるさく響いた。

くるりと後ろを向けば、ちょうど彼が、その鎧をいでいるところだった。

揺れる銀糸。しい青の瞳に落ちるのは、繊細な銀の睫。

「ヴィクター様」

「……その、久しぶりだな」

その気の抜けた挨拶に張が緩んだ瞬間、私は手を振り上げていた。

ぱん、と乾いた音が、室の空気を揺らす。

赤く腫れ始めている頬を、何があったか分からない、と言った表で呆然と押さえているヴィクター様。その姿を見た瞬間、駆け出していた。

抱きつく、と言うより、當たり、と言った方がいいかもしれない。

ほとんど攻撃をするようにヴィクター様にしがみついた私は、溢れる涙を抑えようと必死だった。抑え切れなかった嗚咽が、小さく響いた。

「……アイリーン」

「私が、私がどれだけっ……！　こんなの、いくらヴィクター様だって、酷すぎです！」

「……ああ」

「酷いです！　最低です！　絶対に、許せません」

ぐしゃぐしゃになっているであろう顔を見られたくなくて、私はヴィクター様のに顔を埋める。

くぐもった聲で、私は啜り泣く。

「あり得ません。やりすぎです。こんなの滅茶苦茶です」

「そう、だな」

「無事で、よかった……っ」

最初は遠慮がちに、やがて力強く。

私の背をゆっくりとでていたヴィクター様が、耳元で囁いた。

「ただいま」

その聲にいっそう激しく泣き出した私を、ヴィクター様はただ黙って抱きしめていた。

◇

「その、落ち著いたか」

「はい。まあ、一応」

そうして抱きしめられているうちに、ゆっくりとは落ち著き。時折鼻こそ啜るが、どうにかこうにか泣き止んだ私は、しだけ距離を取るとヴィクター様を見上げた。

あまり、変わっていなかった。當然と言えば、當然かもしれない。私が勝手に長くじていただけで、離れていた期間はそう長くもないのだ。

「事を説明していいか」

「ある程度は察したと思いますが」

「まさか、見抜かれるとは思わなかった」

「ヴィクター様もスレニアにいる方々も、厳重警戒対象だったあの2人に遅れをとるわけがないでしょう。あの人たち、生粋の馬鹿ですし」

「馬鹿」

「馬鹿以外の何者でもないでしょう」

ヴィクター様から離れると、勢いよくソファに座った。

無言で手をばすと、察したらしいヴィクター様が隣の部屋へ消えていく。しばらくして戻ってきたヴィクター様の手には、湯気を立てるお茶が握られていた。

け取ったそれを、無言で飲む。

うん、苦い。とてつもなく苦い。

見た目から察してはいたけれど、どうやら加減というものを知らないヴィクター様は、大量の茶葉を突っ込んだらしい。ないよりは良いだろう、というの持ち主だから。

「苦いです」

「……悪い」

「味しくないです」

「仕方ないだろう、初めてなんだから」

「初めて」

それもそうか。皇太子たるこの人にお茶を淹れさせたのはきっと私が初めてだし、自分のために作るような人でもない。しくなったら、無言で私に要求するのだ。

「全然、全く、ほんのしも、味しくないですけど」

「そこまで言うか」

「これで、許してあげます」

溫かいティーカップを、両手で包みこんだ。

「それで？　私に何も知らせなかったのは、あの式典の場で事実を私に伝えることで、ヴィクター様の死を確かなものにするためと、私が暗殺に関わっていないことを多くの人間の前で示すためですか？」

「……そうだな」

「あの演技を求められても間違いなく無理ですし、それがかなり利益の多い策であることは理解しました。そのために、私だけをスレニアから帰したことも理解しました。あの時私に伏せていたのは、この策だけですか？」

「ああ。本當に、これだけだ」

じっと、ヴィクター様の目を見つめる。その目が逸らされないことを確認して、真っ直ぐに私を見ていることを確信して、私は頷く。

「どうやら、本當のようですね」

「信頼、ないな」

「當然でしょう。ですが、肝心のところが私にはよく分かっていないんですよ。ヴィクター様は、どうしてまた死んだふりなんて狂った……いえ頭のおかしい……いえありとあらゆるところに度を超えた迷と心配をかけまくるような真似を始めたんですか」

「文句を言いたいなら、言い直すふりなんてしなくていいぞ」

「文句も説教も愚癡も不満も言いたいこともありますが、事を聞いてからにします」

「……怖いな」

ぼそりと呟いたヴィクター様が立ち上がると、隅にあった見慣れぬ荷を持ってきた。

ソファの橫に置かれた小さなサイドテーブルに、取り出した紙を広げる。どうやら、手紙のようだった。

「……まさか、ここまで想定してたんですか」

「まあ、一応」

私の揺も怒りも、全てヴィクター様の手のひらの上だった、というところか。

もちろん怒りこそ湧くが、嫌なじはしなかった。いや、噓だ。嫌だし、普通に腹が立つ。けれど、これは私自がんだことでもある。

『ヴィクター様の駒の一つとして扱ってもらえることを誇らしくすら思います』

今回私は、駒として素晴らしい働きをした。ヴィクター様の死が真実であることをありとあらゆるところに確信させ、加えて私自の潔白もほとんど証明できた、と思う。

あまり思い出したくはないが、あの時の私の反応は流石に演技ではないと分かったはずだ。私は役者ではない。むしろ演技をしたり、を隠すのは苦手だ。そしてヴィクター様も、城に仕える他の人も、それを理解しているからこそ、こういう策に出たのだろう。

「ありがとうございます」

「なんだ、突然」

「どうやら、『ただただされ、守られるだけのお飾りの皇太子妃』ではなく、一応戦友のようなものとしても扱ってもらったようなので」

別に、私に真実を明かす必要なんてなかったのだ。

「あの時ヴィクター様がすぐそこにいたのは、すぐに、私にヴィクター様の死が噓だと伝えるためでしょう？」

「そうだな」

「私がただの駒なら、最後まで黙っていればいいんです。私はただの屬國出の公爵令嬢で、ヴィクター様がいなくなれば後ろ盾も何もありません。私にできることなんてたかが知れています。私には本當のことを伝える必要なんて、どこにもないんですよ」

「なくはないだろ。頼りになる。意見を聞きたい。それでは駄目か？」

「駄目なわけ。分かって言っているでしょう。だから、嬉しいんです」

小さく笑った。

「危険から遠ざけるため、私を傷つけないため、こっそりと本當のことを伝えて城で守るのでもなく、ただ駒として利用するのでもなく。私の価値を認めて利用した上で、これからの作戦に加えてくださったことが、何よりも嬉しいんです」

「……良かった」

ぼそり、と呟いたヴィクター様が、空を仰ぐと片手で顔を覆った。

「正直、相當傷つけると思っていた」

「傷つきはしましたが」

「そうではなく。今回の策を黙っていたことに、だ。お前に演技させることも考えたが、それはお前の能力では無理があると判斷したから黙っていた。その選択が、傷つけるか、と」

「悔しくはありますが、事実ですから。自分の実力を過信するつもりはありません。能力が不足しているのを自覚した上で挑むのは、勇気ではなく無謀です」

「本當、お前を選んで正解だったよ」

ヴィクター様が、すっとお茶に手をばす。

喝采をあげる心を抑えつつ、あえて黙って見守っていると、一口啜ったヴィクター様が咳き込んだ。

「っ不味い」

「だから言ったじゃないですか」

「アイリーン」

遠回しな要求に顔を顰めて見せつつ、私は立ち上がる。淹れ直したお茶を、ヴィクター様の前に置いた。

一口飲むなり満足そうな表を浮かべたヴィクター様が、先程の手紙を指さす。

「続きを話していいか？」

「ああ、線させましたね、すみません」

「いや。俺が、死んだふりなどした理由だが」

ゆっくりと語られ出した話に、私は黙って耳を傾ける。