《【書籍化】碧玉の男裝香療師は、ふしぎな癒やしで宮廷醫になりました。(web版)》1-1 萬華國の片隅で、
萬の花の香りを乗せた風は、どこまで行くのだろうか。
大陸東の雄――絶対的一國主義の『萬華國《ばんかこく》』。
獨自の文化や経済圏、技や學問を開き栄え続けた自負が、他國からの一切の流、そして他國への一切の流出を拒んでいた。そうして萬華國はその名の如く、萬の華が咲き誇るがように栄華を極めていた。
しかし、この國はどこか息苦しい。
◆◆◆
町が夜のに染まり始めた頃。
花街にはむせ返るほどの靡な香りが立ち籠め、花樓からは白い肩と手を出した姫達が、とろけた眼差しで道行く男達をうように手招きしていた。
そんな中、月英《げつえい》はとある花樓に居た。といっても、として勤めているわけではない。
「あらぁ、今日の香りはいつもと違うのねぇ。これなぁに?」
締まりのない眠気混じりの聲でが部屋に漂う香りについて聞けば、月英はボソリと必要最低限の言葉のみ呟く。
「天竺葵《ゼラニウム》です」
「へえ? それで今回はどんな効果が?」
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「心を落ち著かせたり、月のものの不調を軽くしてくれたりします」
「ふぅん、気が利くわね。男のクセして」
月英は無言で頭を下げると、仕事は終わったとばかりにそそくさとに背を向ける。
「また必要になったら、お願いするわぁ」
はれるのも嫌だというように、僅かな銭を月英に投げて寄越した。それを拾い集め月英はもう一度頭を下げると、逃げるようにして花樓を後にした。背にけた「本當汚らしい子」という言葉は、聞こえないふりをした。
煌びやかな花街のから遠ざかる様に、月英は闇へ闇へと足を進めた。月英の住む下民區は、城壁の際にある。
萬華國首都『祥府《しょうようふ》』。
祥府の中心地は華やかで、道の至るところでは大道蕓が繰り広げられていたり、両脇に並ぶ店先には彩かな反などが売られていた。実に活気あふれた都だが、中心の輝きが増せば増すほど、そこから遠い部分の影は濃くなるというもの。
そしてその影の部分こそ、月英が住む下民區だったり、今まさに月英が仕事を終えた花街だったりする。
家に帰り著けば、扉を開けた瞬間湯飲みが飛んできた。
「騙されたんだ! お前なんか買わなけりゃ……っ、この疫病神!」
《《八人目》》の父が言葉と共に放った湯飲みは月英のを濡らし、ごとりと地面に転がった。
もう何度……何人に、同じ臺詞を言われただろうか。を痛めるような臺詞も、耳にたこができる程聞かされれば今更涙も出ない。
「父さん、酒はもうその位で」
落ちた湯飲みを卓に戻し、そっと父の背に手を掛ける。しかしその手は、るなとでも言わんばかりに弾かれた。何やら喚いているが呂律が回っておらず聞き取れない。
こういう時はまともに相手をしても無駄だと月英は知っていた。
酔いどれの父をそのままに、再び月英は家の外に出た。
どこから運ばれてきたのだろう、山《く》梔《ちな》子《し》の白い花が真っ黒な空にひらひらと泳いでいて幻想的な風景を作る。
夜だというのに地面からはまだむっとした暑さが立ち上っていた。しかしそれも、甘い香りをさせた涼やかな夜風によって、心地良い合になる。
「夏か……」
季節など気にした事なかった。
日雇いで働いて日銭を稼いで、饅頭一つを腹にれるだけの日々。季節が変わろうが、父が変わろうが、月英のその日常はい頃から変わる事はなかった。
突然、家の中からガチャンとけたたましい音が聞こえた。
ああ、やはり湯飲みは割れたか、と月英は目を閉じた。
「後でごみ捨て場でも見てくるかな」
まだ使えるようなが捨ててあれば良いのだが。
戸の側からくぐもった奇聲が聞こえる。猿のような聲だと思った。同時に、彼が猿なら、猿に飼われた自分はやはりそれ以下なのだろうとも。
「お前がそんな、じゃなかったら……っ! お前さえ……居なけ……ば――」
呪いの言葉はそれ以上聞こえなかった。やっと眠ってくれたようだ。
出來る事ならこんな父は捨てさっさとどこかへ行きたかったが、この國で月英が生きるはない。父が仕事をとってくるからどうにか生きていけていた。だから捨てられない。
「いや……捨てられるとしたら僕か……」
そうやって何度も捨てられてきたのだから。
月英は中には戻らず、夜空を眺め続けた。視界の端に映る、夜でも煌々とした明りを燈す建造群。そこは確か、國で一番偉い人――皇帝が住んでいるという萬華宮《ばんかぐう》。
きっとあそこは夢の世界に違いない。あの輝きの一つ一つが幸せの輝きなのだろう。毎日が呑めや歌えやの騒ぎで、煌びやかな裝の天と猛々しい武人達が手を取り合って、を囁きあっているに違いない。
同じ地面に建っているのに、あちらとこちらでは隨分と違うもんだな、と月英は笑った。
《お前さえ居なければ》
夜風に、濡れた元がひやりとした。
に巻いたさらしが水分を吸って、余計に冷たかった。
父は嫌味でに湯飲みを放ったわけではないだろう。事実、彼は一年を共に過ごしているというのに、自分の別を未だに男だと思っている。
「ま、それだけ僕に興味がないって事だし、有り難い事じゃあるけどね」
誰も自分のような薄汚い下民の事など気にも留めない。れようとも、この重い前髪を詮索しようともしない。あの達が自分の事を男と思っているのが良い証拠だ。
しかしそれで良かった。
顔の半分を隠す重い黒髪は気な印象を與え、一つに結われた後ろ髪はびたままに任せ、に纏う著は著たきり雀。
目立たない――それは月英が生きていく上で必要なことだった。
月英は懐から一冊の本を取り出した。
本の表紙には題字が書いてあったが、一部が破られたように欠損していた。――その本の名は『■■香療之法』。
不意に、風が月英の前髪を巻き上げた。
「――っ」
慌てて月英はれた前髪を手でで付ける。
「……父さん」
月英はそのを抱きかかえるように、本をぎゅっとに抱き締めた。
《お前さえ居なければ》
その言葉は、まるで石を呑んだように、月英の深い所にいつまでも居座った。
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