月英は目を白黒させつつも、自分の置かれている狀況の把握に努めた。

目の前の長椅子にもたれるようにして悠然と座っている、よりしい男。の著を著せれば、すぐに花街一に駆け上がること請け合いだ。

そしてその後ろには、細長いの上に溫和な顔を乗せた男が柱よろしく直立している。

先程それぞれが『燕明《えんめい》』、『藩季《はんき》』と名乗っていた。

次に、月英は周囲に視線を巡らせる。

自分の家より遙かに広い部屋。

置いてある調度品はでも塗ったかのように飴に輝き、窓には鳥や花の飾り格子が嵌まっている。日がし込めば、しい紋様が石床に映し出され優な一枚の絵畫になる。

影さえ品になるとは知らなかった。

月英にとって影はただの日よけであり、窓は換気のためとしか思っていなかったため、こんな遊び心のある使い方には素直に驚いた。

――やっぱり、ここは夢の世界だったんだな。

月英が連れて來られた場所は、あの一番偉い人が住まうという萬華宮《ばんかぐう》。そこは全ての権力とが集う萬華國の中心地。

いつも通り仕事に行こうと家を出た瞬間、月英は々しい男達に拘束された。無理矢理車に押し込まれ、著いた先が萬華宮。男達の腰には黒鞘の剣が下がっており、抵抗など出來ようもはずもなく、そしてあれよあれよという間に、今居る部屋に放り込まれたのだ。

一この燕明と名乗る男は何者だろうか、などと思っていると先に彼が聲を掛けてきた。

「お前が月英《げつえい》か？」

何故自分の名を知っているのか。

「変なを使うと聞いた」

燕明の質問を聞いていても狀況が全く摑めず、月英は自分から男に問いかける事にした。

「あのぉ……自分はなぜここに連れて來られたんでしょうか？」

「変なを使うと聞いたからだ」

答えになっていない。人攫いのうえ馬鹿なのか。顔に全養分取られているんじゃなかろうか。

思わず溢れた気持ちが口元を引きつらせれば、立っていたもう一人の細い男――藩季が言葉を付け加えてくれる。

「実は花街であなたの事を聞きまして。なんでも香りで気分や調を整えてくれるのだとか――」

藩季という男は経緯を詳しく話してくれた。

分を隠して、燕明と藩季は花街に來ていた。もちろんを買う為ではない。《ぎじょ》など買わずとも、燕明の後宮百華園(ひゃっかえん)には選りすぐりの姫《びき》達が控えている。

ここに來たのは、先日言っていた『報』を得るため。

『――まあ、それで來られるなんて珍しい旦那様ですねぇ』

は柳のように細い指で、驚きに開いた口を隠す。

『確かに花樓には沢山お客様がおいでになりますからぁ、んなお話が聞けますけどねぇ』

『特に祥府《しょうようふ》で一、二位を爭う程の花樓ですと、方々から旦那様がお見えになるのでは？』

おだてるような藩季の言いに、は気分良さそうにくすりと笑った。

『そうですねぇ。でも、こんなに素敵な旦那様は、今までお目に掛かった事ございませんわぁ』

はしなを作り燕明に寄り掛かろうとするが、燕明がを引き、間に素早く藩季がる。それを々癪に思ったのか、上級花樓のという矜持にれたのか、は途端に眉を顰めてつっけんどんな口調になる。

『それで、よく眠れる薬についてでしたかぁ？　さて、私はこの國の古今東西のお話を伺うんですが、その様な薬は聞いた事ありませんねぇ』

『薬でなくても、なにか良く眠れる方法などは知りませんか？』

『薬でなくても……ですか。まあ……心當たりが無いわけではありませんがぁ……』

ツンとそっぽを向いてしまったに、藩季が頼み込むようにを前傾させる。はチラと燕明に視線を寄越した。その瞳の奧には劣が仄かに見え隠れしている。

燕明はなるほど、との手を優しく取った。

『頼む。俺はもうあなたしか頼る人が居ないんだ。々な方法を試したが駄目だった。どうか俺を救ってくれないか』

絵から出てきたような丈夫に手を取られ、「あなたしか居ない」と憂い漂う眉目

で縋られれば、男慣れしただとて頬を染めるというもの。は燕明の手に頬を寄せると、熱のこもった流し目で燕明を見つめた。

『香りで不調を治す者なら知ってますわぁ』

『その者はどこに？』

勿ぶるような言い方をするに、燕明は互いの吐息がわる位置まで顔を近づけ、その先を催促する。

『月英という年ですよ。――下民の』

の聲は燕明に釘付けになりうっとりとしていたが、最後に付け加えた「下民」という言葉には嘲りが含まれていた。

燕明は目で藩季に合図すると、あとしでが重なる――というところで立ち上がった。反でがるようにして床に転び、目を白黒させる。

『助かった。有意義な時間をありがとう、姫』

の手に銭を握らせると、にっこりと他人行儀な笑みで燕明はそそくさと花樓を後にした。

「というわけだ」

「どういうわけです」

思わず突っ込んでしまった。経緯を聞いてもちっとも理解できなかった。

「えっと……つまり、不眠解消法を聞き出すため仕掛けでを誑かし口を割らせた上、金で片付けてきた、って事で良いですか？」

「どうしてそれで良いと思った」

「凄い勢いで尾ひれが付いて、事実がねじ曲げられていますね」

燕明と藩季の口が引きつる。仕方ない。そうとしか聞こえなかったのだから。

「まあ早い話が、これをどうにかしてしいんだ」

燕明が疲れたような聲で、自の目元を指でトントンと示した。そこには貍も仲間と間違えてしまう程の立派な隈があった。

「どんな薬を処方しても、香を焚いても、をあてがっても駄目でした。古來より伝わるや手練手管のでも――」

やめてくれ。聞きたくない。

耳を塞ごうとしたら、その手は耳に到達する前に藩季に捕獲されてしまう。

月英は驚きに口をあんぐりとさせた。いつの間にこんなに近付かれたのか、全く分からなかった。流石は側近だなと素直に心していれば、藩季は目をカッと見開いて喜聲を上げた。

「――しかし！　そこで月英殿の話を得たのです！」

藁《わら》にも縋るとはこの事だろう。藩季の目は月英に救いを求めるように潤んでいる。

「し、しかしわざわざ僕みたいな下民を……」

そこで月英は手を握られていた事を思い出し、慌てて振りほどいた。

今更ながら自分と目の前の男達との差を思い出し、自分が恥ずかしくなったのだ。絹のをに纏った燕明達に比べ、ぼろぼろでつぎはぎだらけの麻のをに纏う月英。この『綺麗』ばかりの空間で、自分は藁でしかないと思い出し、をめた。

「ああ、これは失禮致しました。不躾にれてしまいまして」

藩季の言葉に月英は驚いた。

下民である自分に謝る者など居ただろうか。しかも相手は上級吏だろう者。

「え、いや……えと……」

初めての事に何と反応して良いのか分からず、月英が言葉を詰まらせていると、燕明が指先で長椅子の脇息をトンと叩いた。

「下民だろうと平民だろうと関係ない。俺に安らかな眠りを與えてくれるのならば、呪法《じゅほう》にでも何でも縋るさ。それで、香りで俺のこの不眠を治せるのか、治せないのか、どっちなんだ？」

呪法とは星読みや卜占を元としたで、當初は明日の天気だとか吉兇などを知るための手段だったのが、今ではまじない的要素が強まり、雨を降らせるだとか誰それを不幸にさせるとか、謂わば眉唾的呪と化したものである。その呪法にも縋るとは……余程追い詰められているようだ。

「確かに、香りで心の疲れを癒やす事も出來ます」

「本當か！　ならば是非やってみせてくれ！」

燕明の言葉に、ドキリと月英の心臓が跳ねた。ただしそれは甘い疼きではなく、張に締め付けられる痛み。

「し、しかし、ここにはその道がありませんから」

正直、香りの事は知られたくなかった。

元々月英はそれを生業としているわけではない。普段は日雇いの仕事をして日銭を稼いでいた。に香りを処方していたのだとて、時たまにしか來ない割りの良い仕事だったからだ。狹い花街界隈での話だし、外にれることはないと思っていたが、まさか宮廷吏に知られるとは。

「一旦、道を取りに家に帰ってもよろしいでしょうか」

――そしてそのままトンズラしよう。

月英はなんとかこの空間から逃げ出す方法を思いつき、口元を弧にして怪しまれないように想良く尋ねる。

すると、燕明の口角がニタリと上がった。

「藩季」

その呼び聲と共に燕明が指を鳴らせば、藩季はどこから出したのか、手に竹籠を取り出した。

「なぁ――っ！？」

藩季の手にあったのは見覚えのある竹籠。

「こんな事もあろうと、お前の荷も全て持ってきている。それにしても持ちがこの竹籠一つとは……凄いなお前」

ぐるりと燕明が部屋を見渡した。當然彼の持ちであろうこの部屋のは、竹籠一つには収まらないだろう。

「……下民と上級吏様を一緒にしないで下さい」

「ん？」

月英の言葉に燕明と藩季が目を丸くした。

「え？」

思わず月英も首を傾げる。

燕明と藩季は顔を見合わせると、二人して笑いを噛み殺すように肩を揺らす。

何か変なことでも言っただろうかと心配したが、今はそれよりもどうやってこの場から逃げ出すかが先決だった。

「あー……えっと、そう！　父が家で待ってて。僕、仕事に行かないとなんで。行かないと生きていけないんで！　だから一先ず帰っても――」

「ああ、その件でしたらご心配なさらず」

「はい？」

「今回のこれを仕事と思って貰えれば。お金も、あなたを連れてくる時に親さんに先払いしておりますし。何分危急の最優先事項でして」

「たっぷりとね」と言った藩季の顔が、仄暗く見えたのは気のせいだと思いたい。

しっかりと逃げ道を塞がれていた。

「じゃ、じゃあその香りを作ったらもう帰っても良いですか」

こうなればさっさとやる事だけやって、々聞かれる前に帰ってしまおう。

――そして、トンズラだ！

しかしそうは問屋が卸してくれない。

「まさか。一日寢られただけで、あの貍も仲間と勘違いする立派な隈を消せるとお思いで？」

藩季が和な顔で笑いかけてきた。しかしその聲は和というにはあまりにドスがきいている。

「では……一週間くらいでしょうか……？」

藩季がにっこりと笑んだ。

「三月です」

「はぇ？」

月英は耳を疑った。

「あなたの親さんにお支払いした額は、きっちり三月分ですよ」

「み、三月……っ！？」

月英は膝から崩れ落ちた。