《【書籍化】碧玉の男裝香療師は、ふしぎな癒やしで宮廷醫になりました。(web版)》1-4

偉い人だろうとは思っていたが、まさか吏ではなく皇太子だったとは、つくづく自分は運がないと月英は項垂れて帰路についた。

本當は三月の間は舎にと勧められたのだが、そこだけは何が何でも回避した。

「常に誰かの目があるところでなんて、だって隠し通せないって」

下民の自分には、とても吏になるような家柄の人達と同じ場所で暮らすのは神的負擔が大きすぎて、燕明の安眠より先に自分が衰弱死するという事を切々と説けば、そういう事ならと渋々許して貰えた。

「本當、このままトンズラしたかったんだけどなあ……」

あの後、家に帰る事を許して貰え、「よし! このまま帰ったら一目散に邑から出よう!」などと考えていれば――

『そうそう。もし明日出勤しなければ、我が國の全軍事力を上げて指名手配の後に、國庫の金を盜んだ重罪人として法廷に引きずり出しますが……もちろん、月英殿はそのような愚かな真似はされませんよね?』

と、藩季に笑顔で五寸釘をぶち込まれた。

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頼むから脳を読むのをやめてしい。本當何者なんだか。

月英は疲れ混じりの溜息を夜空に流した。

「お金は払ってもらったし、日雇いの時より暫くはまともなが食べれるかな」

そうとでも思っていなければ、正直まともな神ではいれなかった。

今の自分の置かれている狀況は、子虎の檻に紛れ込んだ子貓だ。いつ皆と違うとバレるか時間の問題だった。

しかも隠し通さなければならないのは、なにも別だけではない。

月英は前髪をくしゃりと握り込むと、を噛んだ。

「ま、宮廷っていってもあの二人としか関わらないし、目立つこともないだろ。それに三月ならギリギリ隠し通せるかな……大丈夫、大丈夫」

気付けば家の扉は目の前だった。

月英は前髪を整え一呼吸置くと、ぼろぼろの扉を開けた。

「ただいま、父さ――――ん?」

家はもぬけの殻だった。

◆◆◆

翌日、言われた通りしっかりと月英は出勤していた。

「昨夜は眠れましたか、殿下」

既に支度を整えた燕明は、昨日と同じ様に長椅子にもたれていた。一日で目の下の隈が薄くなるわけもないが、どことなく顔は良さそうだ。

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「寢る前に芳香浴をやったら、いつもよりすんなり眠れたぞ。寢起きも隨分と良い。おで久々にが軽いよ」

そう言って長椅子から立ち上がり、肩を回して見せる姿は無邪気で微笑ましかった。

皇太子だというのに、燕明はとても気さくだった。普通ならば、下民を私室に招きれたりはしないし、こうやって調管理を任せることもない。そういった點で、彼は型破りな人だった。

そんな事を思っていれば、いつの間にか目の前から燕明が消えていた。

「あれ、殿下?」

不思議に部屋を見回そうとした瞬間、背後から脇下にグッと何かが侵してきた。それだけでも驚愕なのに、次の瞬間、月英は宙に持ち上げられた。

「ぎゃああああああ!」

「ほら! こんなにもが軽いぞ!」

まるで子犬と戯れるかのように、月英を抱えにこやかに笑う燕明だったが、月英にとってはそれどころではない。さらしを巻いているとはいえ、燕明の手の位置は本當にギリギリだ。

ジタバタと早く下ろせとばかりに暴れる月英に、燕明はふと真顔になる。

「――って、本當に軽すぎじゃないか、お前?」

喚する月英をそっと床に下ろしてやると、燕明は神妙な面持ちで月英の全に視線を這わせる。

「な、何なんですか! 急に!?」

月英が抗議の聲を上げるが、燕明は月英のを眺めることをやめなかった。そして、一言ぽつりとらす。

「……食ってるか?」

すると食事の話題に反応したのか、月英の腹部から「ぐうぅぅぅ」と何とも哀愁漂う音が鳴り響いた。

「…………」

「…………」

燕明の瞳に憐憫が浮かぶ。し腹立たしい。

月英は「はぁ」と嘆息すると、恥じらいもせず開き直った。

「下民が三食まともに食べれるわけないでしょう」

「威張る事か。しかし、先に渡した金は三月分あったはずだが。それはどうしたんだ?」

月英は言いにくそうに口をまごつかせ、そして「実は」と昨夜の景を語った。

「なに! 父親が居なくなった!?」

「ええ、とうとう朝まで帰ってきませんでした。恐らくは頂いたお金を持って、姿を眩ませたんじゃないかと」

「いやしかし、父が子を置いて……しかも金を持ち去ってだと……?」

理解しがたい、と燕明は顔を曇らせる。

「ところで、父にいくら渡したんです?」

平民の月の稼ぎが大二十貫だ。花街の高級でも月に二百貫がいいところだろう。

燕明達は雇用契約と言った。しかも相手は下民。三月分といってもそれ程多くないはずだ。

そんな多くはない金銭を持ってトンズラしても、すぐに底をつくだろう。父が仕事をとってきて、月英が働いて稼ぐという図式でり立っていたのだから。問題はどれだけ待てば良いのか、という事だけ。

燕明は「ああ」と思い出すように宙に視線を投げた。

そして事も無げに出てきた額に、月英は頭を抱える事になる。

「確か、一千貫《がん》だな」

「いっ! 一千……っ!?」

そりゃあ逃げる。絶対に戻ってこない。

今まで通りに下民の生活を送れば一生、平民並でも十年は余裕で暮らせる。常々「お前さえ居なければ」と言っていたくらいだ。貰った金を見て、喜び勇んで飛び出していったに違いない。

「はぁ……」

つまり三月の勤労を終えて晴れて自由のになったとしても、自分は無職ということか。

「今まで雇ってくれたところが、また雇ってくれると良いんだけど……」

相変わらず不運な未來に、月英は背を丸くして溜息を吐いた。

そのただでさえ小さい背が一層小さくなった月英を見て、燕明は「ふむ」と思案顔をする。

「なるほど。つまりお前は今一文無しの上に、この先も不安定なのか……」

子ウサギを前にどういたぶってやろうか、と舌舐めずりをする獣のように、にやにやと楽しげな様子をみせる燕明。

何かろくでもない事を考えてるに違いない。

昨日出會ったばかりだが、月英は目の前の男が割と突拍子もない事をする人間だと十分に把握していた。思わず腰が引けてしまう。

「よし! これを機に宮廷で働いてみないか。臨時任という形で」

「それって、宮廷吏として働けって事ですか」

「仕方あるまい。理由なく、一個人に國庫の金を消費するわけにはいかんのだ。だったら働いて賃金を得るしかないだろう?」

燕明の言っている事は至極當然のことなのだが、月英は容易には頷けなかった。

「宮廷って沢山人が居ますよね」

「まあ、宮廷吏だけでも千人は居るな。下男などもあわせるともっと居るが」

桁違いの多さに月英の口は引きつる。

軽く見積もっても千人以上。そんな大所帯の中で、果たして自分のを隠し通せるのか、と一抹の不安が過る。

「いえ、やはり雑草でしの――ぐうぅぅぅぅ」

折角の話だが斷ろうとした時、まるで斷るなと言わんばかりに腹の音が邪魔をした。

「…………」

「ぐきゅうぅぅ」

不可抗力だ。だって昨日から何も食べてない。

燕明は月英の背を優しく叩いた。

「……な。意地張るな」

心配されているのだろうが、何故か腹立つ。しかし確かにこのままだと三月と言わず、明日にでも空腹で死んでしまいそうだった。

「宮廷といっても、お前が働くのは外朝《がいちょう》の吏じゃないぞ」

「どこぐうぅ?」

腹の蟲に発言が浸食され始めた。燕明はもったい付けるようにふふふと不敵な笑みを浮かべると、ビッと月英に指を向けた。

朝《ないちょう》にある太醫院《たいいいん》だ! 香りで不調を治すというのは、醫に通じるものがあると思ってな。月英、これからは醫として働け! どうせ俺も朝に居るし丁度良い。働くのなら毎月の給金を出すぞ」

「で、でもぎゅうぅぅ!?」

給金を貰える日まで生き延びていられるか。

「ああ、確かに。だったら當座の生活費も前払いという事で出そうか」

「ぐぅ! ぐ、ぐぐうぅぅ?」

なんという好待遇。甘えついでにもっとねだってしまおう。

「ん、賞與? はぁ……ちゃっかりしてるよな、お前。分かった分かった、付けるよ」

満額回答だ。背に腹は代えられぬとはこの事。がバレるのはいただけないが、たった三月の間だけだ。頑張ればどうにかなるだろう。無一文で三月生きる方が危うい。

月英は腰を折って、燕明に了承の意を伝えた。

「よろしくお願ぐうぅぅします」

「腹の蟲が邪魔すぎるな」

「きゅるぅ」

「無駄に可いく鳴くな」

こうして月英はを抱えたまま、宮廷醫として働く事になった。

話が一段落したところで、ちょうど藩季が部屋にってきた。

「燕明様、朝餉《あさげ》をお持ちしましたよ」

「お、丁度良かった藩季。月英を醫として臨時任する事にしたぞ」

「え、どういう経緯で――」

「ぐるるうぅぅ」

「…………」

藩季の聲を遮って、月英の腹が自己主張するように唸りを上げた。藩季の月英の腹を見つめる目が切ない。

仕方ない。朝餉の香りが味しすぎるのがいけない。

「詳しくは後で聞きますが……取り敢えず、もう一人前朝餉を用意しますね」

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