《【書籍化】碧玉の男裝香療師は、ふしぎな癒やしで宮廷醫になりました。(web版)》1-5
その日の夜、燕明の私室――
「それにしても、月英殿も災難でしたね。まさか有り金全て持ち逃げされるとは。しかも父親に」
火を消したり窓を閉めたりと、就寢の準備をしながら藩季は憐憫の聲を出した。
「まあ、それで宮廷で働けることになったんだがな。それがあいつにとって幸か不幸か……」
牀《ベッド》に腰掛けた燕明も同じく、憂い聲を出す。
「月英殿は、あまり乗り気ではなかったみたいですからね」
「あいつの乗り気など、朝餉を前にした時くらいだったぞ」
二人は、朝餉を前にして靜かに涎を垂らしていた月英の姿を思い出し、眉を下げてくすくすと笑った。
しかしその笑いを納めると、燕明の表は途端に曇る。
「……三食まともに食べれないと言っていた」
藩季はその言葉に手を止め、部屋をぐるりと見回した。置いてある調度品や品、それに柱、床板、窓枠、どれをとってもこの部屋の中のは、余すことなく一級品だった。三食食べられない――そんな事考えたこともなかった。
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恐らく萬華宮で働く者達は皆、自分が何食食べているのか意識していないだろう。當たり前にそこに食事が用意され、それを特別とも普通とも思わない世界で生きているのだから。
「月英殿は、ここ宮廷ではあまりに異質でしょうね」
年は見るからに『下民』だった。
櫛《くし》で梳《す》いたこともないだろうび放題の髪は、髪留めどころか、ただ裂いただけの布で纏められていた。著ているも染や刺繍などとは無縁の生《きな》りの。
表も乏しい方だった。しかもその乏しい表でさえも分厚い前髪によって隠され、口元でしかが判別できない。
「一応、萬華宮に出りするからと思って著一式は渡しましたが……」
「それでも下民だと気付く者は居るだろうな」
「ここに勤める者達は、無駄に矜持だけは高いですからね」
「それはお前の事も含まれるのか? 藩季」
にやりと揶揄う視線を向ける燕明に、藩季はわざとらしく肩をすくめ嘆息する。
「いえいえ私の矜持など燕明様と比べたら、月とすっぽん、天と地ですよ」
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「良い度だ、藩季」
燕明が口端をひくつかせて重い目を向けるが、藩季は素知らぬ顔で就寢準備を再開させる。
「それにしても月英殿は面白いですね。我々が皇太子と側近だと知っても、態度が変わりませんでしたよ」
「しかも俺を変態呼ばわりするしな。確かにあんな奴は見たことないな」
姿はみすぼらしいくせに、に纏う香りは極上。下民だと自ら言うくせに、皇太子と知ってもずけずけと言う。そのちぐはぐさが興味を引いた。
「もしかしたら、弟が居たらあんなじだったのかもな」
そう言って笑った燕明のその顔は、しだけ寂しそうだった。
燕明には兄弟が居ない。正確には、居るか居ないのかさえも知らなかった。
皇太子や公主は人するまで後宮で育てられる。各母親の宮で育てられるため、同じ母親から生まれなければ、後宮の外に出るまで兄弟が居たとしても會う事は難しい。
現皇太子は燕明一人だ。
それは最初から一人だったのか、それとも《《一人になった》》のか。
燕明には分からなかったが、薄々とは気付いていた。だが、様々な思がりれる宮廷において、その様な事をわざわざ口にすべきでない事も分かっていた。
藩季も言葉の裏に隠された意味に気付いたのだろう。ふと優しく微笑んだ。
「そうですね。確かに小さいでせせこましくく様は、弟というじでしょうか」
藩季の返答に燕明は満足したように頷いた。
「だったらやはり、兄である俺が弟を守ってやらんとな」
守ってやるの意味を瞬時に藩季は理解して、「ああ」と相槌を打った。
「太醫院ですか」
醫になる事が決まった後、月英が勤めることになる太醫院の房に挨拶がてら連れて行けば、醫達は皆訝(いぶか)しげに月英を見ていた。
突然、皇太子の鶴の一聲でってきた醫の使えない醫。
國中から選りすぐりの頭と腕を持った、矜持の塊である醫達が集まる太醫院で、そんな月英が素直にけれられるはずない事は目に見えていた。
「醫は使えないけれど、妙なは使う。しかも、臨時とはいえ試験無しで任されている。――となれば、間違いなく苦労するでしょうね」
燕明は棚の上に置いてある香爐臺に目をやった。甘いながらも涼しげなさっぱりとした香りが部屋に満ちている。
「妙な……な。この國のほぼが集まるこの祥府でも、あんなものは聞いた事も見た事もなかったな」
「ええ、私もありません」
「本當、謎な奴だよ」
香爐臺の蝋燭がジジッと音を立て、白い皿の底を赤い頭ででる。その様子を二人して、靜かに眺めていた。
「もしかしたら、あんな奴がこの國を変えるきっかけになるのかもな」
獨り言のようにこぼした燕明の言葉に、藩季もそうですね、と獨り言のようにぽそっと返す。
「ここ萬華宮に居て誰よりも異質で異端。これはもしかしたら、俺にとっては幸いな狀況なのかもしれんな」
「新しい風……に、なりますかね」
「さあ。だが俺はそうなってしいとは思う。ま、ならずとも、俺の睡眠が改善されればそれで雇った意味はあるがな!」
そこで漸く燕明と藩季の視線がわった。われば互いにふと目元を緩める。
「さて、明日からは弟のことも気に掛けなければならんし、忙しくなるな」
気分が前向きになったのか、燕明はもぞもぞと被《布団》の中に潛り込む。
すっかり本人の了承もなく兄気取りの燕明に、藩季は片眉を上げ肩をすくめた。彼が楽しそうであれば、それが何よりだった。
「弟君がいじめられて泣かないと良いですね」
「もし泣いてたら、兄らしく優しく肩でも抱いてやるさ」
被を肩口までかぶり藩季に背を向ければ、牀《ベッド》にかかる天幕が下りるれが聞こえ、寢所が一段とる。
「――ま、あいつには泣いてしくないがな」
誰に聞かせるでもなく、ポツリと口を突いて出てしまった。それは燕明の本音。
し関わっただけで、その人生のほぼを苦労してきた事が分かる年だった。だからこれ以上、苦労で泣いてしくはなかった。
藩季が部屋の燈りを落とせば、部屋は一気に暗闇に包まれる。視覚が閉ざされた分、嗅覚が鋭くなる。
「良い香りだな」
藩季は「そうですね」との言葉と共に部屋を去った。
パタンと微かな音を立てて扉が閉まり靜寂が訪れる。つい先日まで、この無の世界が嫌だった。要らぬ事が頭を駆け巡り、瞼を閉じても脳が休まることはなかった。
だが今は違った。鼻孔をくすぐる香りが心地良く、深い呼吸を繰り返していれば自ずと気分が落ち著いてくる。
「……良い香りだ」
燕明は靜かに瞼を閉じた。
◆◆◆
夜も更けた頃、吏達はとっくに仕事を終え職場を離れている頃なのだが、その中で一つだけ燈りが煌々と燈る部屋があった。
そこは、各部省の長達にだけ與えられた特別室。その一つ――そこは蔡京玿《さいけいしょう》の部屋だった。
「のう、蔡侍中《さいじちゅう》。お主、意固地になっとりゃせんか」
「なんだ、孫二尚書《そんじしょうしょ》。説教か? 隨分と殿下に過保護なんだな」
部屋の中には白黒頭と白頭の老人が二人。卓を挾んで向かい合い、宅に置かれた盤上にパチパチと石を置いていく。
「そんなんじゃないわい」
「ふん。だったらこんな時間に何の用だ」
二人の視線は盤上から外れない。
「なあ、蔡侍中。何をそんなに恐れとるんだ」
「意味が分からんな」
「ワシから見たら、お主は変わることを怖がってるようにしか見えんぞ。殿下の言葉を、それっぽい理由を並べて叩きのめそうとしてるようにか見えんよ」
部屋に石が盤を弾く音が小気味よく響く。
「私は殿下に事実を言っているだけだ」
「事実じゃない。お主のは固執《こしつ》と言うんじゃ。……なあ、そんなに変わるのは嫌か」
「変わる必要が無い。今までこの國はそうやって來た」
「それはその時の皇帝がそれを良しとしてきたからだろう。だが殿下は違う。殿下の意見に一理あるようならば、それを汲むのが朝廷吏であるワシらの役目ではないのか? そしてワシは、殿下の融和策という考え方には一理あると思うんじゃが」
先程まで調子よく石を打っていた蔡京玿の手が止まった。
「私は、過去を否定したくないだけだ」
「方策を変える事は、過去の否定とは違うぞ」
「もういいだろ。殘った仕事があるのだ。さっさと帰れ孫二尚書」
蔡京玿は次の一手を打つことなく、石を箱に戻し席を立った。遊技の相手が居なくなってしまっては、孫二高もそこに留まるのは憚られた。
「そういえば、殿下が何やら妙な醫をれたらしいぞ」
「妙な醫?」
「見たこともない様なを使うんだとか。お主に言われたかられたのかは知らんが、殿下は口だけでなく結果を出そうとしておるよ」
暗に「お前は口だけだ」と批難されたように蔡京玿はじた。
「妙なが使えれば良いものでもないだろう。その結果が國に益をもたらすかだ。早計だ」
孫二高はかに溜息を吐き、自分の石だけを片付けると、何も言わず部屋を出て行った。
蔡京玿は盤上に殘った自分の石を眺めた。
今まで意味があって配置されていた石は、相手が居なくなったことにより無意味と化し、自分の真っ白な頭と同じの石だけが歪な形で殘っていた。
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