《【書籍化】碧玉の男裝香療師は、ふしぎな癒やしで宮廷醫になりました。(web版)》3-2
「――なあ、本當にコレで合ってんのか?」
「合ってるもなにも、こういうもんだからね。圧搾法《あっさくほう》って」
ドスドスドスドスと、太醫院房の裏では月英と豪亮が、盥の中で一心不に足踏みをしていた。
「まさか足蹴にされた柑から、皆大好き柑の油が出來てるとは、誰も思わねえだろうな」
「柑じゃない。柑の皮だよ。か・わ! それに柑橘系って、蒸留法使うと熱で香りが飛ぶし、この方法で絞るしかないんだよ」
「そりゃ分かったけどよ……あんな良い香りなのに、まさか足蹴にされて出來てるなんてよう……」
「何事も裏側ってのは汗臭いものだよ。それに足蹴にしてるっていっても、間に板を挾んでるから汚くないよ」
それでも房の裏でやるのは一応の配慮だが。
盥《たらい》の中には大量の柑の皮がった麻袋が置かれ、その上に板が乗せられている。そして、月英と豪亮はまるで親の仇を討つように、その板の上から柑の皮を踏み潰す。皮達のギュッギュという斷末魔が聞こえるが、容赦無く踏み続ける。
暫くすると、斷末魔も靜かになり、代わりに盥は二種類の水分で満たされていた。
「下のは果で、上澄みが油。上の部分だけ海綿に吸わせて、油瓶に絞れば……ほら、皆大好き柑の油だ!」
「この、皆大好き柑の油が一番使うもんな」
「香りも良いし、他の油とも合わせやすいし、一番使い道が広いからね。何より皆大好き柑のせ――」
「皆大好き皆大好きってうるさいんだけど!」
豪亮と談笑していれば、突如、房の円窓が開き第三者の聲がしてきた。
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「その油そんな名じゃなかったよね!? うっかり暗示にかかりそうなんだけど!」
よく豪亮と一緒に居る醫だった。
月英は、突如窓から上半だけさせた醫に、作りたての柑の油がった瓶を控え目に差し出す。
「……嫌いなの?」
「いや、好きだけれども!」
醫は悔しそうな、「だめ、抗えないわ」とでも言いたそうな表でんでいた。
――太醫院の醫って、大概乙混じってるよなあ……。
本の乙のからすると、自分より乙な醫達に複雑な思いを抱かざるを得ない。隣の筋ダルマがらしい悲鳴を上げていたのは記憶に新しい。
「――って、そうそう。遊んでる場合じゃなかった」
遊んでいたのか。本気に見えたが。
醫は思い出したように顔を上げると、月英を指さした。
「月英にお客様だよ。本當……恐れ多いから早く戻ってきて」
「恐れ、多い?」
月英と豪亮は顔を見合わせ、首を捻った。
◆◆◆
醫が恐れ多いと言った意味が分かった。
「や、やあ月英! 久しぶりだな」
太醫院の房に、なぜか燕明が居た。
月英にとっては第一印象が人攫《ひとさら》いのうえ変態なので、あまり有り難みをじないのだが、やはり他の者達にとっては違うようだ。燕明を遠巻きからチラチラと熱のこもった目で見つめている。意外にも燕明の人気は高いようだ。
「久しぶりも何も、先週油を屆けに行った時にも會ったじゃないですか」
「……一週間も空いているじゃないか」
「なんて?」
燕明が何やら言った様だったが、ボソボソとしていて聞き取れなかった。背後で醫達が「言葉!」「お前ェ!」と小聲でんでいた。うるさい。
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「い、いや! ちょっとが痛くてな!」
「そうですか。呈太醫《ていたいい》をお呼びしましょうか?」
皇族の診察は呈太醫が専任している。
月英が呈太醫を呼びに行こうと背を向けようとした時、燕明に手を摑まれた。
なぜかその顔は焦ったように、眉が波打っている。
「いや、呈太醫じゃなくて大丈夫だ。その……肩が凝ってだな。藩季から聞いたんだが、布というものを月英がやっていると……俺にもそれを……」
月英は燕明の執務機を思い出した。何の書類かは分からないが、いつも山のようにうずたかく積まれている。確かにあの量をずっと機に向かってこなしていれば、肩も凝るだろう。
「分かりました。布しましょうか」
「ああ、ありがとう月英」
月英の言葉に、燕明の表は後がしたように晴れやかなものとなった。そんなに布をやりたかったのか。
「うっ、眩し……っ」
それと顔の良さを自覚してしい。前髪がなければ後が直撃していた。
現に背後では流れ矢ならぬ、流れ後を食らってしまった醫達が、バタバタと倒れている。業務妨害だ。
「で、布というのはなんだ?」
「ああ、香療の処方の一つですよ。殿下が今お休みの時に焚かれているのは、嗅覚からその効能を取りれる芳香浴でしょう? 対して布ってのは、直接からその効能を取りれるんですよ。から吸収された効能は、の奧深くに浸みての管や津《しん》《えき》を巡って全に作用するんです」
ツラツラと淀みなく説明してみせる月英に、燕明は「ほう」と口を丸くして心した聲をらす。
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「じゃあ俺はどうすればいいんだ?」
「殿下はそのまま座っていて下さい」
「分かった」
月英は燕明の襟《えり》に手を掛けた。
見守っていた周囲の醫達に、ざわりと張が走る。
「ん? なんだ月英」
「何って、処置をするんですよ」
月英がそのまま一気に燕明の上を剝こうとした時――
「きゃあああああああ!!!!」
周囲から數多の悲鳴が上がった。まるで乙の巣窟。ここの醫達は皆、別を偽っているんじゃなかろうか。そんな事を思った次の瞬間、月英はドドドと飛び込んできた醫達に取り押さえられ、燕明から引き離された。
「このバカタレ! ならまだしも、こんな所で殿下の玉《ぎょくたい》を曬す奴があるかっ!!」
豪亮が月英を後ろから羽い締めにして持ち上げていた。
「ほんっと馬鹿! この香療馬鹿!!」
「もうし一般常識を持ち合わせてくれ! 壽命がむ! お前じゃなく俺達のなぁっ!」
方々の醫から叱責やら悲鳴やらなんやらが飛び、房は軽い阿鼻喚に陥った。
「でも、ここで処置した方が早いから……」
構わず燕明に向かって手をばし剝こうとする月英に、醫達は月英のと燕明の間にって、月英の魔の手から主を守ろうとする。
「剝くな剝くな剝くな! 殿下の私室で処置して差し上げろ!!」
豪亮の一聲で、醫達はてきぱきと水桶と布と月英のいつもの竹籠準備すると、月英に持たせて、ぽいっと房から追い出してしまった。
「…………?」
あまりの展開の速さに、房の外で水桶を抱えて呆然とする月英。
その様子を、一歩送れて出てきた燕明が、腹を抱えて笑っていた。
「どうやら、太醫院では楽しくやれているようじゃないか。安心したよ」
「……今し方追い出されたんですが?」
「しっかりと必要なを整えてくれて、な」
手に抱えた水桶に視線を落とす月英。何も言っていないのに、処置に必要な道が全て揃っていた。
「布のやり方なんて教えてないのに……」
「それだけ皆、お前の事をしっかりと見てるんだろ」
月英は一度房を振り返った。戻ってくるなと言わんばかりに戸は閉められていたが、それを拒絶にはじなかった。
「さて、では行こうか。しっかり俺の疲れを癒やしてくれよ、月醫殿」
「殿下こそ、剝かれても泣かないでくださいね」
燕明は「泣くか」と、片口を橫に引っ張って揶揄ってみせた。その子供っぽい態度に、月英も思わず笑いを噴き出した。
◆◆◆
「それじゃあ殿下には花薄荷《マジョラム》と柑《オレンジ》、薫草《ラベンダー》を」
數本の油瓶から油をポタポタと水桶に落とす。手で掻き混ぜ、布を浸せば準備完了だ。
牀でうつ伏せに寢転がっている燕明の肩に、固く絞った布を一枚ずつり付けていく。
「一刻《十五分》ほど、このままでいて下さいね」
月英は牀《ベッド》から下りると後片付けを始めた。カチャカチャと陶がこすれる音が靜かな部屋に響く。
その小さな後ろ姿を、燕明は牀に垂れ下がる薄絹越しに眺めていた。
「……この布は、皆同じ配合なのか?」
「違いますよ。癥狀やその人の好み、調に合わせて配合してます。燕明様は、もう《《無くなった》》とはいえまだまだお疲れのようですから、集中力を上げる香りより、気持ちを落ち著ける香りを合わせてます」
振り向いた月英が目元をトントンと指さしていた。といっても月英の場合、目元も前髪で隠れている為、目元だろうという事しか分からないのだが。
「僕が醫になって、もう二月経ちますね。燕明様もちゃんと眠れているようで安心しました」
「確かに。お前に香りを貰ってからは毎夜眠れてるな。助かっているぞ、月英」
「それは良かったです」
燕明は月英との當初の約束を思い出していた。
約束では、月英が醫としているのは三月という事だった。
「なあ、月英。約束のき――」
「あ、これ! もしかして白檀《びゃくだん》の香木《こうぼく》ですか!?」
燕明が掛けようとした聲の上から、月英の嬉々とした聲が重なった。
どうやら時間を持て余し部屋の中をうろついている時に、何か惹かれるを見つけたらしい。
月英は茶の木片を手に、顔を明るくさせていた。
「そうだが? 以前使っていた殘りだろう」
「これ、焚いてみていいですか! 僕、この香り嗅いだ事ないんですよ! とても高価で買えるもんじゃありませんし、この木は南部にしか生えてないですし」
顔が見えずとも、月英の聲から興しているのが分かった。が小柄な事もあって、端から見るとまるで子供がはしゃいでいるようだった。
「はは、いいぞ。好きなだけ焚け焚け。殘りもお前にやるよ」
「え、良いんですか! ありがとうございます!」
高揚して今までないくらいにハキハキとした月英に、燕明は枕に顔を埋めかに笑った。「まったく、可いもんだ」と呟いた聲は上質な枕に吸い込まれ、月英には屆かなかった。
また部屋にガチャガチャと音が響く。先程よりも幾分か騒がしく、まるで月英の気持ちが音に表れているようだった。
暫くすると、部屋の香りが変わった。
燕明は目を閉じ、久しぶりのその香りを懐かしむ。
月英の深呼吸する音が聞こえた。
「ああ……こんな香りだったんですね」
弾む月英の聲に、自然と燕明の表も緩んでいた。
布を剝がし終わると、燕明の肩は噓のように軽くなっていた。ふわりとから香ってくる香りも心地良い。
「いやぁ、布と言ったか。これは良いな。時々疲れたら頼もうかな」
燕明は牀の縁に腰掛け、上を軽く羽織っただけの肩をくるくると回せば、した聲を出した。
月英は「良かったです」と言って、燕明に背を向け後片付けをする。
カチャカチャと再び片付けの音が部屋にこだまする。燕明は靜かにその後ろ姿を見つめる。この音が消えれば、きっと月英は仕事に戻るのだろう、と燕明は僅かな寂寥《せきりょう》を覚えた。
「――なあ月英。し、話さないか」
特に話さなければならない事があったわけではないが、燕明はもうしだけこの時間を長引かせたかった。月英の事だから「仕事がありますんで」と一蹴されるかとハラハラしたが、意外にも月英は「いいですよ」と応じてくれた。
燕明が自分の隣を手でポスポスと叩く。
「いや、さすがに殿下の牀《ベッド》に座るのは気が引けますって」
「俺の上を剝こうとした奴が何を遠慮する。ほれ、さっさと來い」
それもそうか、と月英は妙な納得を覚え素直に燕明の隣に腰を下ろす。すると、かつてない程のの下のらかさに、月英は「お」と小さくの聲をらし、小さくを跳ねさせそのらかさをで目一杯堪能する。心なしかその口元は楽しさが堪えきれないように波うっている。豪亮達がこの場にいたら憤死していたかもしれないが、燕明はその月英の姿を目を細めて眺めていた。
「なあ月英。醫は楽しいか?」
月英はふわふわさせていたを落ち著かせる。
「ええ楽しいです」
間髪れず答えた月英のその表は、目元が見えなくともそれが世辭でない事が分かる程晴れやかだった。
「お前が楽しくやれているようなら、俺も嬉しいよ」
まるで「良い子良い子」とでも言うように、燕明は月英の頭をで、月英はそれを不服そうに口をへの字にしてけれていた。
「よく皆、僕をでますけど子供だと思ってますよね。僕はこう見えても立派な人なんですが?」
「はは、そんなむくれっ面で凄まれても全く怖くないな。むしろ可いわ。で、誰がお前の頭をでるって? 皆って誰だ? ん?」
「いや怖い怖い怖い。なんですか。急に真顔になるの止めてください」
整っている顔が真顔になると怖くなると初めて知った。ズイズイとその真顔を近付けてにじり寄ってくる燕明のを押し返し、月英は溜息を吐く。
「正直、殿下には謝してます。最初は人攫いだと思っていましたが、攫われたのが殿下で良かったです」
これは本音だった。きっと彼等に攫われなければ、未だにあの養父と一日幾らにもならない仕事をし続けていたと思う。そうしてまた新しい養父に売られていたことだろう。
月英が「ありがとうございます」と頬を緩め禮を述べれば、燕明は目元を覆い、膝の間に長い溜息を吐き出していた。
「……お前……本っ當気を付けろ。ここは宮廷だぞ」
「知ってますが?」
宮廷に居るから宮廷醫として働いているのだが。意味が分からないと小首を傾げれば、再び燕明の口からは盛大な溜息が吐き出された。
「男しかいない環境ではな、男は男に懸想《けそう》するようになるんだ。特にお前みたいな……」
そこで燕明は一度言葉を切ると、月英を橫目に頭の先から爪先までジロジロと眺める。
「……お前みたいな、小柄でらしい小はすぐに虎に食われるんだぞ」
「男が男に懸想? ……ああ、そういえばとある吏に好きだと言われましたね。まあ冗談でしょうけど」
「好きと言われただと!? それでそいつはどうした! まさかけたなんて――」
空を切る音がするような速さで振り向かれ、月英は燕明に肩をワシッと摑まれる。その形相は檸檬《レモン》でも食べたのかと思う程、顔の中心に皺が寄っていて険しい。
「イタイイタイイタイ。殿下痛いです。けたも何も、別になんとも返事してませんって。っていうか、何で殿下がそんなに怒るんですか?」
「こここ、これはその、な! あれだ! お前を任したのは俺だからな。保護者としての……!」
「この間、僕は弟とか言ってませんでした。保護者やら弟やらと忙しいですね」
燕明がグッと押し黙った。一彼は自分の何になりたいのか。本當に家系図に組み込むつもりなのか。一度頭も治療した方が良いのかもしれない。今度呈太醫に進言しておこう。
「……何か失禮な事考えてるだろ」
どうして藩季といい、そうやってすぐに人の心を読むのか。というか読めるのか。どうなってるのか。
「お前は隨分と分かりやすいんだよ」
また読まれた。癪《しゃく》過ぎる。
「とにかく痛いんで離してください。それにその吏だって冗談ですよ。方面は死んでるって彼にお墨付きも貰いましたし」
「あ、ああスマン。……いやまあ、そうか……月英には、早すぎる、よな」
燕明の顔から険のある皺が消えた。眉間は開かれどことなく安堵が滲んでいた。
「だから僕は人してますって」
やはりこの小さいがいけないのか。しかし男としては小柄でも、としては普通の部類なのだしどうしようもない。
「が大きくなる薬があれば絶対飲んでやる。むしろ探しに行きたい」
そっぽ向いてぼそっと呟けば、燕明が反応した。
「――月英は異國に行ってみたいのか?」
『異國』という言葉に月英のが跳ねた。何かを図られているのか、その質問に深い意味はあるのか、もしかしてがばれているのでは、と月英の頭は高速で思考を巡らした。
「で、殿下は異國融和策をお考えですよね。だったら、異人でもけれられたりします?」
質問を返すことで、燕明の問いから逃げた。
燕明はさして気にした質問ではなかったのか、月英が回答の代わりに繰り出した質問に疑問無く答える。
「そうだな。俺はむしろ異人もこの國で、普通に住めるようにしたいと思っている」
「普通に……住める?」
その答えは衝撃だった。月英の前髪の下の雙眸は眥が裂けそうな程見開かれていた。
「俺が異國融和策を推しているのはな、昔會った赤子が忘れられないからなんだ」
「赤子?」
燕明はおもむろに肩に掛けていただけの上に袖を通すと、なりを整え、一拍間を置いた。その間に薄く深呼吸をする。
「月英、昔話をしようか」
燕明の昔話で、まさか月英は、知りたくなかった事を知る羽目になろうとは思わなかった。
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