《【書籍化】碧玉の男裝香療師は、ふしぎな癒やしで宮廷醫になりました。(web版)》3-4

月英はこれまで歩んできた生活の全てを燕明に打ち明けた。

子順《しじゅん》という養父に預けられ、僅かだが幸せだと思える日々を過ごした事。しかし彼が死んでからは犬と変わらぬ暮らしをし、様々な父親に売られてきた事。

燕明は最初こそ驚愕に表を固めていたものの、月英の話を聞くに、しずつ眉間を険しくしていった。目元には哀が浮かび、口は何度か開きかけたがその度に言葉を飲み込んで閉じた。

「この國では、僕は粛正対象なんでしょう? 殿下、僕をどうしますか?」

困ったように月英は笑っていたが、膝の上で握られた拳は震えていた。

「――さすがに僕の存在は、殿下に迷を掛けますね」

言葉を発さない燕明に、月英は「仕方ない」と牀から腰を上げた。

「すみません。どんな事っていっても限度がありましたね。忘れてください。僕はここを去りますから、出來れば……見逃してくれると嬉しいです」

燕明の肩を抱く手が、背をでる溫かさについ気が緩んでしまった。いくら異國融和策を唱える者だとて、急にこんなものを見せられれば誰だとて困るだろう。

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しだけ、ほんのしだけ、「やっぱりか」という落膽が月英の心を重くした。

《お前さえ居なければ》

口に出さずとも、もしかしたらそう思われているのかもしれない。そう思えば、月英は一刻も早く燕明の視界から姿を消したかった。「もしかしたら」と思った自分の甘さが悔しかった。

――本當、なんで彼なら大丈夫って思っちゃったりしたんだろ。

そんなわけないのに。

月英は無言で頭を下げると、燕明の顔も見ず踵を返し部屋を出ようとした。――が、予期せぬ力が腰を引っ張った。

「えぇ!? ――どぉわっ!」

月英の腹に突如絡みついたそれは、そのまま後ろに引き寄せ、月英は倒れ込むようにして腰から落ちた。衝撃を覚悟していたら、ぽふんとしたらかなれた。

驚きに月英が振り向けば、見上げた先には燕明の顔があった。彼の腕は月英の腰に巻き付き、どうやら自分は燕明の足の間で抱きすくめられていると知る。

驚きに目をぱちくりさせていれば、燕明の腰を抱く腕に力がこもる。

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「え、ちょ……殿下!? いや、何して――」

「――ありがとう……っ」

月英の言葉を遮った燕明の聲は、絞り出したような聲だった。

「ありがとう、月英。……っ生きていてくれて!」

目を潤ませ微笑む燕明のその表は、花が咲くよりもきらきらしく、聲を詰まらせ繰り返される言葉は、それが噓や取り繕った言葉や世辭でない事が伝わってきた。

「ああ……この瞳だ。確かにあの日俺が心を奪われた瞳は……」

萬華國の皇太子の名にふさわしい、それこそ幾億の花が一斉に花開いたような笑みに月英の目は釘付けとなった。

「ずっと……ずっと心殘りだった。當時俺はまだ五つの小僧でしかなくて、あの時の赤子――お前の向など知りようもなかったから。本當に……生きていてくれて良かった」

月英の首筋に顔を埋め、繰り返し「良かった」と呟く燕明。

「……知ろうと……してくれてたんですか」

「當然だ。い赤子が――ましてや瞳のが違う赤子が、この國で苦労せずに生きていけるはずがない。ずっと気になっていた……どうやったら……お前がこの國で普通に生きていけるだろうと」

「もしかして、だから異國融和策を……」

碧い瞳が風をけた湖面の様にゆらゆらと揺らめく。部屋の燈りをするそれは、碧だけでなく白や黃丹《おうに》、珊瑚《さんご》にまでも見え、燕明は萬華國の至寶と言われる自分を恥じるような心地になった。

「俺達は井の中の蛙だった。こんなしい空があるのを知らずに、狹苦しい井戸に蓋をして、その中で一生を終えようとしている」

月英の前髪がはらりと額に落ちれば、まだ見ていたいとでもいうように、燕明は都度その前髪を払う。

「俺は、お前に幾度も助けられた。何度、蔡侍中の言葉に屈してしまおうと思ったことか。だがその度、赤子のお前を思い出しては、絶対に退いてなるものかと襟を正したもんだ。今こうして俺が真っ直ぐに立ってられるのは、お前のおだ。ありがとう、月英」

「僕のお……ですか?」

確かめる聲は意図せずに震えたものになった。

《お前さえ居なければ》

呪詛のように口々に言われてきた言葉。それはどんなに聞き流そうとも、ずっとずっと心の奧深くで、石のように固まって沈んでいた。いつも月英の心を、暗澹《あんたん》たる世界に引きずり込む重石だった。

しかしその重石が今、噓のように、まるで一陣の風に散る花のように、月英の心からさらさらと消え去った。

「僕は……ここに居て良いんですか?」

「ああ、居てくれ」

「僕は……誰かに必要とされる存在であって良いんですか?」

「俺達がお前を必要としてるんだがな」

「僕は……っ」

瞳に薄く張った熱のがぽろりと崩れ落ちれば、それを燕明の指が丁寧に払う。

「月英、お前はどうしたい。お前は誰のものでもないし、お前はお前だけのものだ。だから、お前は自分で未來を選んで良いんだよ」

「――僕は香療を國中に広めれば、どこかで生きている父の耳にもって、いつか會えるかもしれない、と思ってやってきました」

しかしそれは葉わないみとなった。會いたい人は、とうの昔にこの世には居なかったのだから。

「……醫を辭めるのか」

だが、そこで月英の願いが潰えたわけではない。新たな希が月英のの中で芽吹いていた。

燕明の不安が滲む聲に、月英は首を橫に振った。

「當初の目的は葉いませんでした。だけど変わらずに、僕はやっぱりこの國に香療を広めたいんです。父のしたこの香療がこの國中に広まって認められれば、きっと父も喜ぶと思うから」

月英は、いつもお守り代わりのように懐に忍ばせていた本を取り出した。

「父がなぜ法を犯してまで異國に行ったのかは分かりません。だけど、戻れば処罰と分かりながら國に戻り、この本を僕に――この國にしたことには意味があると思うんです」

「その本は?」

燕明は月英の手にあった、ぼろぼろにすり切れた紺表紙の本を手に取った。手に持っただけで、どれ程読み込まれたものかすぐに分かった。薄くなった表紙に、掠れた文字。紙は所々すり切れ、極めつけは大きく欠けた表紙。

「父が僕にした香療の本です」

英が!? ……題字が欠けているな。香、療之……法――香療だという事はわかるが……」

「欠けた部分には『西國』の文字があったんです」

「西國! って、あの西國か!? 我が國と対をす、大陸西の雄の……」

燕明は目を見開き、確認するように本を慌ててパラパラと捲った。

柑《オレンジ》、薫草《ラベンダー》、天竺葵《マジョラム》――僕が使っていた油は、どれも西國の読み方です」

燕明は納得がいったように「通りで」と嘆する。

「俺は知らず知らずに、既に異國の風を萬華宮にれていたのか。そして皆異國のの恩恵にあずかっていたと……」

燕明にとってこれは予想外に嬉しい結果だった。月英に新たな風になって貰えればと思っていたが、既に月英はその役目以上の事を果たしていた。

今、宮廷では香療を知らない者は居ないだろう。それ程に香療吏達の信用を得ていたし、誰もがれていた。噂では吏部《りぶ》や工部《こうぶ》の尚書達も、かに香療の世話になっているとの噂も聞く。

「蔡侍中は『何か役に立つ新しいものを見せろ』と言っていたが、図らずもそれに言い返せるものを得てしまうとは……俺はなんと幸運なんだ――っ!」

燕明は喜びを全から溢れさせ、足の間に抱く月英の背に貓のように額をりつけた。

「ぎゃあああ! や、やめてくださいって殿下ァ!?」

燕明が額をぐりぐりと背にり付ける度に、首筋に燕明の艶の良い長髪がさらさらと當たりくすぐったくなる。を捩って逃げようとも、燕明の腕力がそれを許さない。

「お前は本當、こいし小こい…………ん?」

突然我に返る燕明。

「……月英。お前の父親は英で間違いないんだよな?」

「ええ。姓なのは間違いないですし、その香療の本にもそう記してありますよ」

「……俺の記憶が正しければ、英の赤子は《《児》》だったはず、だが?」

二人は互いに顔から表を消して見つめ合っていた。

じわりと燕明の腕が月英の腰から外されれば、月英もそろりと燕明の足の間から立ち上がる。

「…………」

「…………」

立ったことにより燕明より視點が高くなった月英が、真正面から燕明を無表に見下ろす。逆により先程まで輝いていた月英の碧い瞳は、面白いくらいに輝きを失いまるでの底のようだった。燕明は視線だけを逸らし、その死んだ魚のような目から逃げる。

不穏な空気が流れる。

『男』でなかった事が確定して喜びたい反面、燕明は今までの自分の行を振り返って泣きたくなった。首筋の香りを嗅いだり、口づけしそうな程に顔を近づけたり、半で迫ったり……それは申し分ないほどに、完璧に変態のそれだった。

「月え――」

燕明が無禮を謝ろうと視線を戻した時、暗殺者のような顔した月英が既にそこまで迫っていた。

「殿下、失禮!」

「――ぐがっ!?」

月英の鋭い手刀が延髄《えんずい》に叩き込まれ燕明は沈黙した。

「南無三」

どうか次に目覚めた時には記憶がごっそり抜けてますように、と月英は牀《ベッド》に橫たわる燕明に手を合せた。

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