《【書籍化】碧玉の男裝香療師は、ふしぎな癒やしで宮廷醫になりました。(web版)》4-3
そろそろ無くなる頃だろう、といつもの柑《オレンジ》と薫草《ラベンダー》の油を屆けに來てみれば、部屋の中は泥棒がったように滅茶苦茶に荒らされていた。
その中で向かい合って立つ男二人――燕明と藩季。藩季の手は燕明の襟を両手で摑んでいた。
「え……下剋上?」
月英が戸いに一歩後退れば、藩季が引きつった笑みで飛んできた。
「違いますよ~。ちょっと裝合わせをしていただけですからね~。危ない事を吹聴しないでください」
――せっかく、醫達に教えてあげようと思ったのに。
「何がせっかくだ。面白がってるだけだろ」
バレた。しかも読まれた。だから何で読めるのか。
「ああ、宮祀儀禮の裝選び……だからこんなに床が裝だらけだったんですね」
そういえば劉丹もそんな事を言っていた。
それにしても高そうな著が無雑作に床に投げ捨てられている景は、無駄に豪華だ。とりどりの沢のある生地や、らかな薄手の紗の羽織。花街一の高級でもこれ程の裝は持っていまい。対してそれを纏わされている燕明の顔に疲れがありありと浮かんでいる。恐らく、朝からずっと著せ替え人形にされていたのだろう。
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絢爛豪華な床に目を這わせていれば、藩季の「これですね」という聲が聞こえた。どうやら著せ替え人形は終わったらしい。
目を向けた先の姿に、月英は「へえ」と嘆をらした。
白地に黒の縁取りのった長に、銀刺繍の黒帯が巻かれ赤い細紐で留められている。加えて、いつもは簡単に結われ背に流されている髪もきっちりと纏められ、形の良い頭の上には大裘冕《だいきゅうべん》が載っている。
「殿下はやっぱり殿下だったんですね」
「何を當たり前のことを」
すっかり慣れていたが、目の前の男はこの國の皇太子であり、『萬華國の至寶』の異名を取る者だと改めて実する。
すると燕明が何やらチラチラと月英に視線を向けてくる。
「……げ、月英は……その、これは格好いいと……思うか」
誰が見ても今の燕明なら格好いいと言うだろう。わざわざ変なことを聞くものだ、と月英は首を傾げながら思ったことを素直に返す。
「ええ、よくお似合いですよ」
「ほ、本當か!」
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途端に燕明の表が晴れやかになる。
同時に、その奧で裝の後片付けをしていた藩季から「ぶふッ!」と噴き出す音が聞こえた。心なしかも震えている。疲労だろうか。あとで疲れに効く油でも差しれしよう。
「あ、殿下。ちょっと失禮します」
帯飾りがずれている事に気付いた月英が、正しくしようと手をばした。が、その手は目的地に辿り著くことなく空を切った。
燕明がその手を避けるようにを退いたのだ。
「え……?」
「あ……」
二人共互いに驚いたような聲を出す。
「ちょっと飾りをなおすだけですから」
言いながら月英が再び手をばすも、やはりその手は空を切る。
偶然ではなく明らかな拒否。流石の月英もムッと頬を膨らませる。
「一何ですか。僕にられるのが嫌ですか」
すると焦って燕明が否定する。
「そ、そんなことはない! 違うっ! 斷じてそれだけはない!!」
相を変えて否定しているが、じゃあどんな理由があるというのか。
「大、この間までは殿下の方から距離を詰めてた來てたじゃないですか」
「うっ……、それは……その」
指先をツンツンとつつきながら口をまごつかせる燕明に月英が痺れを切らし、一気に距離を詰めれば燕明の顔が一瞬で湯だった。髪を上げているため、耳まで綺麗に染まっているのがモロ見えだ。
「だだだだって! お前がだって分かったから!」
奧から、またも「んふッ!」と奇音が聞こえる。
「後宮を持ってる方が何言ってんですか」
「こ、後宮とお前を一緒にするな!」
意味が分からない。確かに後宮の姫と自分とを一緒というのはおこがましかったが、今更相手に赤面するタマでもあるまい。
「やめろ! 必要以上に俺に近付くな! 俺もそんなに強い方じゃない!」
両手を付きだし、月英との距離を稼ごうとする燕明。
「いえ、絶対殿下の方が強いでしょう。僕、剣とかからっきしですし。それ以前に命なんか狙いませんよ」
「違う! いや命に関わる點では間違ってないが、々と違う! 察してくれ! 俺を変態にしないでくれ!!」
「ははは、手遅れですよ」
「噓!」
最初から変態だと認知している。
すると、「では鍛える必要がありますね」と、奧から聲を上らせた藩季がやって來る。
「月英殿、燕明様よりお話伺いました。よろしければそのしい瞳を私にも見せて頂けませんか?」
突然何だろうかと不思議に思ったものの、相手が藩季ならば問題ないと月英は素直に前髪を捲れば、黒髪の下からは翡翠《ひすい》もかくやと言わんばかりの碧が現れた。
「――っこれは……本當にしいですね……」
ほぅ、とうっとりした溜息じりに、藩季の目が雙眸に釘付けになる。
「聞く以上の衝撃ですよ、本當に。こんなしい瞳がこの世にあったとは……」
まじまじと至近距離で瞳の奧まで見つめられ、々気恥ずかしく、つい視線を逸らしてしまった。それを合図に藩季はを退き、「失禮しました」と満足気に頷く。
次の瞬間、藩季は月英の背後に回り込み、ズイッと燕明に向かって月英を押し出した。
「え、おぁ――んぐッ!?」
唐突に背を押された事により、月英は為すもなく燕明のに突っ込み、案外とい板で鼻をしこたま打つ。
「――っ何するんですか、藩季様!? 驚きましたよ!」
「ふふ、すみません。手がってしまったもので」
どんなり方だ。
抗議に振り向けば、藩季はにこやかな顔で「上を向けと」指を天井に向けていた。
「ん? 上?」
言われるがまま顔を上げれば、そこにあったのは眉を垂れ下げ、何かに耐えるようにを強く噛む燕明のけない顔。
「……殿下?」
月英は首を傾げた。燕明の板にしがみ付いた狀態で。すると必然的に上目遣いになる。
「ぅ゛ん゛ん゛ん゛ん゛ん――ッ!!!!」
燕明は宙をきりもみしていた両手でバチンと顔を覆い隠し、そのまま奇聲を上げながら天を仰いでいた。
奇特なものを見る目の月英と、笑いすぎてひぃひぃと口も腹も痙攣させる藩季。異質な空間の出來上がりだ。
「さあ燕明様! 理を鍛えるお時間ですよ!」
「~~ッ藩季ィィィィィ!!!!」
これが皇帝になって大丈夫なのか、と月英はぎゃあぎゃあとやり合う二人の間で、かに溜息を吐いた。
◆◆◆
蔡京玿は自分の機に置かれた手巾をじっと眺めていた。
日が経つにつれ染み込んでいた香りは薄まり、今では鼻に押し當てないと分からない程度だ。
「蔡侍中、失禮いたします。宮祀儀禮の水鏡に使う清水《せいすい》を頂きに參りました」
戸の向こうから若い男の聲がした。禮部の者だろう。
蔡京玿がるように促すと、靜かに一人の青年が部屋にってきた。橫一文字に結ばれたと眠たそうな垂れ目で無想に見えたが、口を開けばそうでもない事が分かった。
「禮部の劉丹と申します」
言葉はそれだけだったが、その聲は低くも高くもなく、まろやかな水のように心地良いものだった。目をあわせれば、垂れた目に皺が寄り人懐こい雰囲気になる。
蔡京玿はその青年に心當たりがあった。
「ああ、お前は……確か先日城門で會った」
一瞬劉丹の表がったが、すぐにニコリとして「覚えて頂いて栄です」と人懐こい顔になる。ったように見えたのは、傾きだした日の影のせいだろう。
「清水はそこの棚の上だ。龍《りゅう》巌《げん》山《さん》の湧き水だから問題ないだろう」
目で部屋の隅に置かれていた小機を示す。
「北の龍巌山まで行かれたのですか。それは凄いですね。こちらの清水で十分すぎる程ですよ」
「ほう、龍巌山を知っているか。あまり有名ではない小さな霊山だが」
「僕は北の出でして。丁度その麓に村があるのですよ」
「そうか」
「今回北の霊山を選ばれたのには何かわけが? 例えば、過去に殘してきた妾や子をかに訪ねたとか」
「はは、そんなもの居らんさ」
「そうですか」
劉丹は清水のった革袋を手に持つと、世慣れしていそうな綺麗な笑みを向けた。
「では、確かに清水を頂戴しました」
來た時と同じ様に、劉丹は會釈すると靜かに部屋を出て行った。
會釈から顔を上げた時に見えたその顔は、どこか酷薄で、誰かに似ている気がした。
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