月英は燕明と藩季と共に萬華宮の外に出ていた。

「いやあ、久しぶりだな。《《ここ》》に來たのも」

「《《あれ》》から、もう三月近くなりますか」

燕明がチラと視線を寄越したような気がしたが、月英は気付かないふりをした。

まだ日は中天で輝いている時間、世間は汗水垂らし働き、頭を捻り文字を記している一方、ここはひっそりと眠る時間だった。

月英も久しぶりにその區域に足を踏みれる。

ここは祥府の夜が濃く香る街――花街だった。

「――二十五、六年前のですかぁ？　そんな昔の事を知るは居ないと思いますよぅ」

そのを見るのも久しぶりだった。相変わらず眠たそうな喋りをする人だ。営業時間前という事もあり、はいつもの幾重にも重ねられた艶やかな著姿ではなく、襦袢に薄羽織りという簡素な出で立ちだった。ただ流石は祥府で一、二位を爭う高級花樓のだ。普通なら手抜きに見えるような格好でも、解かれた濡れ羽の髪を橫に長し、の線が出るように帯を締め、薄化粧でもしっかりと気を漂わせている。

「金は言い値を払います。あなたで分からなければ他の方達にも聞いてしいのですが」

「そんな事言われても、元々は三十過ぎればお茶挽きですしぃ、長くても三十五には上がりますもの。特にうちみたいな高級花樓は、それなりのを揃えなければいけませんし、今殘る年嵩のでも二十七ですものぉ」

「でなくとも、誰かこの街で長くいる方を知りませんか」

「んー」と悩ましげな聲と共に、顎に柳の枝のようにたおやかな指を這わせるの姿は相変わらずしい。

「あぁそういえば、上がりの店主がやってる花樓があったようなぁ」

「何、どこの花樓だ！」

燕明が食いつくように腰を上げた。

するとは、燕明と藩季の後ろでずっと石のように沈黙を守っていた月英に、ふと視線を向けた。

「誰かと思ったら隨分と小綺麗になったわねぇ、月英。けれど相変わらず不細工な前髪ねぇ。見てるだけで鬱陶しいわぁ」

形の綺麗な薄いがにやと歪んだ。

「良かったわねぇ。こんな雅な旦那様にお仕えできてぇ。けれど……それって私のおでしょう？　ねえ、だったらあんたのを私にも教えてちょうだいなぁ？」

「そ、れは……」

香療を知りたいというのなら、本來喜んで教えるべきだろう。この香療を世に広めるのが、月英の目指すところなのだから。

だが――

「いえ。お斷りします」

月英ははっきりとした語気で拒絶した。のこめかみが、ひくりと痙攣する。

「下民の分際で生意気ねぇ。使ってやってた恩を忘れたのかしらぁ？」

「教えるのが嫌なのではなく、あなたにこのを使われるのが嫌なんです」

――このは、父さんが僕に殘してくれた……大切なだから。

以前までの月英と違う毅然とした態度に、の片眉と上は険しく吊り上がった。そして、矛先を月英でなく燕明に切り替えた。

「ねぇ旦那様？　私を請けして下さるのなら、その花樓の名を教えて差し上げてもよろしいですわぁ」

は月英を無視して、その香で出來たような肢を妖艶に揺らしながら、燕明ににじり寄る。

「私がこの子と同じを使えれば、この子を雇う必要はありませんわよねぇ？　旦那様も、同じを使えるんなら、こんな気な下民の小僧よりも、私の方をお側に置いた方が良いと思いません？　もちろん――」

「毎夜でもお相手いたしますわよ」と、は燕明の耳元で艶っぽく囁いた。しかし、の指が燕明の頬をでようとしたその瞬間――

「――ッあガぁアっ!?」

は化け染みた聲を吐いて、ドッと床に押し倒された。毎夜押し倒されているだろうも、さすがにこんな倒され方はしたことがないだろう。藩季の大きな手が、の顔を鷲摑み、指の力だけでぎりぎりと締め上げている。

「あ゛ア゛ぁ……やっ、やめ――ぇッ！」

の小さな頭など、皇太子の護衛役である藩季の力の前では卵も一緒だ。視界を塞がれた中で、次第に頭や顔に食い込む指は恐怖だろう。藩季の腕に爪を立て、著がれるのも構わず足をバタつかせるに、姫の面影はない。

「無禮者が。我が主にその腐った息を吐きかけるな。面の皮一枚ので何を威張っている。その皮の下は腐臭がさぞかし酷かろう……剝いで確かめようか？」

月英は目を丸くしてその景を眺めた。いつも朗らかに笑っている藩季が、優しさしか宿ってないと思っていた手で、を壊そうとしていた。

「月英殿を侮辱する言葉もいただけない。月英殿はお前より遙かにしい。それが分からぬからお前は醜いというんだ」

月英が言葉を失っているのに対し、燕明は驚きもしていない。それはつまり藩季のこういう側面を知っていたのだろう。

「藩季、退《ひ》け。それくらいで十分だ」

藩季は「ハッ」と短く答え、そつのないきで燕明の隣に戻った。それはいつものおちゃらけたじの主従とは違い、本の主従の姿だった。

床ではが淺い息を吐きながら緩慢なきでを起こしている。顔に掛かるれた髪の隙間から燕明を睨み據える瞳は、姫とはほど遠い醜悪さに歪んでいた。

「あなたは確かにしい。だが姫よ、それはこの狹い花街の中だけの価値観。俺はあなたをしいとは思わん。だのに、こうやって俺があなたを姫と呼んでやってるのも、座して話を聞かせているのも、最低限度はこの世界の禮儀を弁《わきま》えているからだ。もし、あなたが俺の世界にりたいというのならば、俺もコイツも容赦はしないが」

月英からは前に座る燕明の表は見えなかった。

しかし、彼の表を目の當たりにしているであろうの表は良く見えた。恥や怒りかで真っ赤だった顔からは、引きが全てを攫うような速さでの気が失せていた。紅が引かれたも青紫に変している。

「姫、あなたが俺の寶玉を貶めるような発言をした事は、忘れてやろう。ただな、その小さすぎて中がっているのか怪しい頭でも、しっかり覚えといて貰いたいんだ」

その聲音はとても優しく聞こえた。月英には。

次の瞬間、燕明はの後頭部に手を回すと顔を近づけ、口づけの距離でか事のように囁いた。

「――次に月英にその悪口を向けたら、その顔を化粧で彩ってやるからな」

「ひッ――！」

月英の方向からは、燕明とが口づけをわしている様な格好にしか見えなかったが、のを引きつらせた怯え聲に、そんな甘い狀態でないことは分かった。一、何を言ったのか。

「さて、噂の花樓を教えて貰おうか」

燕明は綺麗に笑った。

◆◆◆

「おやまあ、わざわざそんな昔話を聞きにきたのかい？　変わった旦那方だねえ」

三人はに教えて貰った、先の花樓と同じく祥府で頂點を競う花樓に來ていた。事を話せば、出てきたのは白髪頭で皺を刻もうと、往時は間違いなく姫だっただろう事を窺わせる店主だった。

「で、そんな昔のどういった話が聞きたいんだい」

「その當時、吏との子を生んだが居たと思うんですが……」

店主は記憶を遡っているのか視線を天井に向け、「ああ」と聲をらした。

「確かに居たよ。時々アタシもその赤ん坊を可がらせて貰ってたねえ。赤ん坊が二歳くらいな時に、その子は居なくなっちまったんだけどね」

その時の事を思い出したのか、店主は寂しそうに控え目に微笑んだ。

「本當ならが子をこさえるなんて馬鹿だ、と責められるもんなんだけどね、その子は相手が相手だったんで、そりゃ大層皆に羨ましがられたよ。例え正妻でなくとも、お大盡様の妾なんて願ってもない事だからね。だけど……」

「だけど、捨てられた……？」

言葉を切った店主に変わるように月英がその先を尋ねれば、店主は微妙な顔で「分からない」と首を振った。

「分からない？」

「金はちゃんと送られてきてたし。子を抱きにも來ちゃいたんだよ。だけど、花樓から請け出そうとはしなかったんだ。いくら待てども暮らせども。その、あの子の方が先に我慢できなくなってね。同じ邑に住んでるのも苦しいって故郷に帰っちまったよ」

「その故郷って、もしかして北方じゃないですか？」

「おお、良く分かったね」

「じゃあ、赤ん坊の名はもしかして――」

店主は頷いた。

◆◆◆

「月英殿、花樓ではすみません。怖がらせてしまいました」

藩季が隣を歩く月英にぺこりと頭を下げる。顔は一応は笑んでいたが、眉目には遠慮が滲んでいた。

花樓では――とは、を床に押し倒して凄んだ件だろう。

「多は驚きましたけど、怖いなんて思いませんよ。だって、僕の代わりに怒ってくれたんですから」

「怖く……ないですか」

「ないですよ」

へへッと照れくさそうに笑えば、藩季の笑みがいつものものへと変わった。

「二人だけの世界を作るな」

燕明のむくれた聲で、月英はその存在を思い出した。藩季と月英は揶揄う者を見つけたとばかりに、顔を寄せ合って忍び笑いをらす。

「やですねぇ、男の嫉妬はみっともありませんよぅ」

「どんだけ藩季様が好きなんですかぁ」

「藩季は帰ったら覚えてろ。月英は鈍を治す油を見つけてくれ、早急に」

すっかり日は傾き、道の先にそびえ立つ萬華宮は西日に橙瓦を赤くしていた。

さすが首都祥府。夕餉前のかきれ時とばかりに、両側の店から活気のある売り文句が飛んで祭りのような様相を呈していた。

獣を焼いた香ばしい香りに、ピリリと鼻を刺激する醤の香り。店先で羹《スープ》を作っているのだろう、トントントンと小気味よい音と共に青菜が刻まれ、ぶつ切りの海老や魚と共に投されれば、磯の香りのするなんとも旨そうな香りが一帯に広がる。橫の大型の蒸《せい》籠《ろう》では白だけでなく茶や緑の饅頭が蒸され、湯気と共に街の熱気を加速させていた。

「誰も皇太子が呑気に歩いてるなんて思わないんだろうな」

燕明の言うとおり、誰も三人を気にしてなかった。

活況に沸く聲に、値切りの談笑、所々に置かれた卓で酒の喧嘩が起きていたが、それも日常の景の一部。

「主人、そこの緑の饅頭をくれ。三つ」

饅頭屋の主人は「あいよっ」と威勢の返事と共に、手際よく饅頭を笹の葉で包んでくれた。茶の包みから見える鮮やかな緑が食をそそる。

「……なあ、主人。もしここに異國の食材が並ぶとしたらどう思う」

燕明の問い掛けに、主人はそうな顎髭をざりざりと手でしごきながら、「そうさねぇ」と考える素振りを見せる。

「異國の食材ねえ……どんなのがあるか想像も出來ねえけど、あったら楽しいんじゃねえか？　そんなの材料があるか知らねえがよ、もし手にるなら紅や紫の饅頭を作ってみてえなあ！」

「なーに馬鹿なことばっか言って！　ほら、お客の相手しな！　饅頭五つを角楽《かくらく》んとこだよ」

「あてててて！　ご、ごめんってかーちゃん!?　今行くから！」

店奧からやってきた奧さんらしき人にを捻られて、主人は慌てて奧へと引っ込んでいった。

その微笑ましい景――主人にとっては微笑ましくはないのだろうが――を目に、三人は口に草饅頭を押し込みながら再び歩き始める。

使われているのは蓬生だろうか、苦味と塩味が良いあんばいだ。

「案外……民達の方が融和策をすんなりけれるのかもな」

もそもそと口をかし饅頭を飲み込むと、燕明が呟いた。

「そうですね。広まってくれると良いですね」

月英は殘りの饅頭を一口で頬張り嚥下すると、足を止めて賑やかな街を見渡した。

「――その為にも、即位は恨なく行われなければなりませんね」

藩季も足を止め、夕に付く街並みに目を細めた。元々涼しげな目元は狐のようになる。

「じゃあ、早く帰って真相を解かねばな。無実の者が裁かれる前に――」

冬至――即位式まであと五日。

そして、月英の臨時任の任期もあと五日となっていた。