《【書籍化】碧玉の男裝香療師は、ふしぎな癒やしで宮廷醫になりました。(web版)》序-3.毒殺の寶庫です

次話は金曜日更新です。

腰にっていた布を剝がすと、翔信はぐぐぐっと腰を反らせて、貓のようにびる。

「おお、助かった助かった! これでまた仕事が出來るぜ!」

「それは何よりです」と口では言いながら、月英は「この仕事中毒者め!」と心の中で毒づく。こうして場當たり的な治療にばかり逃げるから、最後は腰を曲げて醫薬房の扉を叩く事になるというのに。

「忙しいのは分かりますが、ちゃんと休憩はしてくださいね」

しかし、恐らくそれは無理だろう事は分かっていた。

刑部の房の中をぐるりと見回す。どの機の上にも山のような書類が、今にも崩れ落ちそうな危うさで積んである。視線を機の上から下へと向ければ、今度は機のから誰かの手や足が覗き、ついには「うぅぅ」という、地を這うような重低音のきまで聞こえてくる。

――うん、僕は何も見てないぞう。何も居なかった。

もしかして、この慘狀の中で生き殘っている翔信は、実はとても凄いのではなかろうかと錯覚すら覚える。ただの仕事中毒者も、最後まで立っていれば偉人見えてくるから不思議である。

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すると、春廷が奧の部屋から戻って來た。用事を終えたのだろう。

「ワタシの方は終わったけど、月英はどう?」

「僕も終わったところだよ」

「お、春廷。悪いな、いつも手伝ってもらって」

その翔信の言葉から、春廷が刑部と常日頃繋がりを持っている事が窺えた。春廷の顔を見るなり、翔信は顔の前で両手を合せている。

裁判や刑罰を司る刑部と太醫院が、どのような関わりがあるのかと聞いてみれば、どうやら毒殺案件などは、どのような薬草を使ったのか、証言と一致するかなど太醫院で調べるという。今回、春廷はその調査書を屆けに來たという話だった。

「毒とか怖っ!」

思わず月英の顔が引きつる。

「なに言ってんのよ。古來から王宮なんか毒殺の寶庫よ」

「そうそう。仕事柄、よく過去の裁判資料を読むけどよ、昔の百華園なんか日常的に毒が橫行してたみたいだしな」

嫌な寶庫もあったもんだ。

そこで翔信が何かを思い出したように口を丸くして、ポンッと掌を打った。

「百華園と言えば、狄のお姫様が今度宮されるよな。確か、春廷の弟って侍省に勤めてなかったか?」

侍省と言えば、百華園の管理を一手に請け負う省である。太醫院を除いて、吏が勤める部署の中では唯一、朝の中に房を置いている。

「え、春廷って弟とかいたの?」

「え……えぇ……まあ」

初耳だった。

まあ、確かに最近まで名さえ知らなかったのだから、家族構など知るはずもないのだが。

それにしても、兄弟が同じ場所で働いているというのに、春廷の様子はあまり芳しくない。それどころか、気まずそうに視線を月英と翔信から逸らし、床に這わせていた。

しかし、その春廷の変化に気付いたのは月英だけだったようで、翔信は椅子の背にを大きくもたれさせ、「あーあ」と締まりのない聲を出す。

「いいなぁ、春廷の弟は。絢爛華麗、百花繚の絶景を毎日見ることか出來て。俺も今度は侍省に異したいぜ。それか、その醫服とこの服を換してくれ。醫なら百華園に治療に行くこともあるだろ? な、一回で良いから頼むよう」

両手を合せて月英を拝む翔信。

「うーん、饅頭一年分くれるなら」

「まず、一日あたりの饅頭の消費量が分かんねえよ」

と言いつつも、翔信は「一日に一個とするだろ……」などとブツブツ呟きながら計算し始めていた。

どれだけ人に飢えているのか。今度は甘い香りのする製油でも差しれてあげよう。

「言っとくけどこの子、人の十倍は食べるわよ」

「下っ端吏の薄給激務なめんなっ!」

翔信は指折り數えていた手を開き、わっと顔を覆った。薄給かは分からないが、激務なのは認めよう。この死累々の職場を見れば、頷かざるを得ない。

月英が苦笑でもって翔信の慟哭を眺めていれば、そこで茶番は終わりだ、と春廷が手を打つ。

「はいはい、冗談はこれくらいにして。それに、そんな簡単に換なんて出來るはずないでしょ。この醫服はワタシ達の誇りなんだから」

「そ、そうっ! これは僕達の誇りなんだからね!」

「……月英、あんた本気で饅頭に釣られかけてたでしょ」

春廷からのじっとりとした視線をじ、月英はサッと顔を伏せる。

「ソソソソンナコト、ナイヨッ!」

そんな、饅頭一年分くらいで、せっかく手にした香療師の服を簡単にぐわけがない。渉の卓に著くのは、せめて最低十年分からだ。

月英はわざとらしい咳払いで、空気を変える。

「ま、まあ、今度その狄のお姫様の宮式典があるんでしょ。だったら翔信殿も見られるんじゃないですか。そのお姫様を。きっと後宮にるくらいだし綺麗ですよ」

「確かにな。だけど、ちょっと心配だよな。いきなり異國のお姫様がやって來て、他の後宮妃達がすんなりれるとは思えないしよ」

確かに、月英でさえまだ、完全にれられているとは言い難い。恐らく難無くれられるという事はないだろう。

「でも、陛下は異國融和策を唱えてるんだし、後宮妃達も悪いようにはしないでしょう。それに、こうして翔信殿みたいに分かってくれる人もいますし。きっと大丈夫ですよ。お互いを知っていけば、分かりあえますよ」

月英が翔信に心満意足が滲む笑みを向ければ、彼は頬を掻きながら照れくさそうに「まあな」と笑みを返した。

和やかな空気が満ちる。

しかし、表らかくしている二人に対して春廷は、一人憂げに眉を寄せていた。

「分かりあうこと……ね」と、一人ごちながら。

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