「――っはぁ、月英(げつえい)に會いたい」

「仕事が終わるまで無理です」

いつもの私室にて、燕明(えんめい)は溜め息と共に機に突っ伏していた。嘆く聲は、まるで日常から潤いを奪われたと言わんばかりに、しわがれている。

「燕明様……」

側で控えていた藩季(はんき)が、小さくなった燕明の肩を優しく叩く。

「私で我慢してください」

「出來るはずがないだろう!?　お前を月英と同列になど、おこがまし過ぎるわ！」

「え、私の存在は唯一無二で誰の代わりにもならないですって。とんだ栄です」

「とんだ誤変換だよ。その耳どうなってるんだ」

どうして藩季と話していると、こうも気持ちが殺伐としてくるのだろうか。側近としての素質がなさ過ぎると思う。

勢いでもたげた頭を、燕明は再びの溜め息と共に緩く振った。長い髪が機の上にれ落ち、書類の文字を隠す。

「ただでさえ頭が痛いというのに、お前は全く……わざと悪化させにきてるだろう」

燕明は目頭を指でみながら、本日三度目となる溜め息をらした。吐き出された息には、憂いと疲労が濃く滲んでいる。それもこれも原因は、今、目下で髪が隠している書類の容にあった。

艶やかな黒髪が書類の上でわだかまり、上手い合に見たくもない容を隠してくれている。

書類は、昨日、侍省から屆いた報告書だ。

「……また貍になりそうだ」

「それは困りますね。せっかく月英殿の努力で消えたというのに、再び貍に化けられては、月英殿もお手上げと匙を投げてしまうかも知れません」

燕明は「確かにそれは困る」と、むうと難しい表で口を歪めた。

「確か、『亞妃(あひ)様のご様子について申し上げます。一日中芙蓉宮に籠もられるばかりで、食膳についても口にするのは僅か。侍達が聞いても、何でもない、としか言わず。気持ちを昂ぶらせることも、不平を言うこともなく、ただ靜かに過ごされるばかり』――でしたか」

せっかく隠れていた報告書の容を、藩季が一言一句誤らずに述べてみせれば、燕明の眉間は一層険しくなる。

つまりは、亞妃の様子がおかしいという報告であった。

『亞妃』――それは先日、狄から輿れした姫に與えられた、百華園での名である。

萬華國に北接して広がる荒涼とした大地を持つ狄(てき)。

その土地の風土故に定住は向かず、狄の民は邑(まち)という概念を持たない。邑の代わりに部族ごとにまとまり、遊牧して生活していると聞く。

また、部族にもいくつかの派閥があり、亞妃はその派閥群の中でも、最大勢力を誇る派閥を率いる部族長――『烏牙石耶(うがせきや)』の娘であった。

「亞妃が宮してからどれくらい経つ」

「今日で五日ですね」

「五日か……」と、燕明がいた時である。

部屋の外から聲が掛けられ、室の許可を待って小さな老人がってきたのは。

「呈太醫(ていたいい)、今日の亞妃の様子はどうだった」

老人の挨拶もそこそこに、待っていたとばかりに、燕明が上を前のめりにさせて早速に尋ねた。

しかし、小さな老人――呈太醫は、小冠を載せた真っ白な頭を橫に振る。

「ここ三日、投薬してみましたが、改善の傾向はありませんでした。恐らく、あれは私には治せない病かと」

「なに、それ程に容態が芳しくないということか!?」

燕明の聲に焦りが滲む。

「いいえ、おは至って健康です。食が細くなっているせいで、多の衰えはありますが、それでも呂侍や陛下が心配なさっているような病を得ているわけではありません」

呈太醫の言葉を聞いて、燕明はあからさまな安堵の息をらした。

他國から輿れしてきた姫を、宮早々に罹患させたとあれば、下手したら國問題に発展しかねない。せっかく『異國融和策』の前進となり得る事例を、初手で頭打ちさせるわけにはいかなかった。

「恐れりますが、陛下が最後に亞妃様にお會いになられたのは？」

「宮したその日のみだ」

宮初日、前殿である先華殿で宮の式典が行われた。初めて他國より迎えれる妃という事で、盛大に宴は催され、それは晝から夜半まで続いた。

もちろん、遠路はるばる輿に揺られやって來た亞妃は、疲れているだろうからと途中で離席させた。燕明自ら百華園での新たな住まい『芙蓉宮』まで亞妃を見送った。

その翌日にはもう、亞妃の様子がおかしいことに気付いた侍省から、「病かもしれないから、芙蓉宮にはらないように」との報告がきていた。おかげで初日以降、燕明は亞妃の顔すら見ていなかった。

「初夜だというのに、百華園から殿下が戻って來る姿を目撃した時は驚きましたね。太が昇らない朝が來るとは、と天変地異まで疑いましたよ」

「ゆっくり休ませる為だ。側近なら天変地異を疑う前に、俺の優しさに思い至れよ」

「はは、燕明様の場合、天変地異の他の候補は『不能だったのか』ですよ」

「よし、首を差し出せ藩季」

無禮千萬極まりない。

東覇の皇帝にここまで下品な言いが出來る者など、彼くらいしかいないだろう。握った拳を機の上で震わせている燕明をよそに、藩季はいつもと変わらず飄々として、隣で直立している。

品があるとも言える線の細い顔貌は、燕明には小賢しい狐のように見えた。

「……皆この顔に騙されている」

「他人を誑かせるほどのしい容姿だとお認めいただき、至高にございます」

「お前の耳はどうなってるんだよ。ちょうど良いから呈太醫に診てもらえ」

しかし、燕明が目で呈太醫に訴えるも、呈太醫は「ほほ」とまろやかに笑うばかり。彼が笑いに肩を揺らすたびに、太醫院の長である印の黒襟の金刺繍がキラキラと輝く。

「いつ見ても、お二人は仲がよろしいですねえ」

「これを見て仲が良いはおかしいだろう」

しかし、燕明の批難めいた言葉を聞いてもやはり呈太醫は、春のような笑みを湛えるばかり。

分が悪すぎることを悟った燕明は、線した話題を、機に拳を落とすことで強引に引き戻す。

「で、だ！　俺の事はどうでもいい。問題は亞妃だ、亞妃！　病でないとなると、原因は何だというのだ」

呈太醫は笑みを収めると、藩季よりも幾分か目の下がった狐目を開いた。瞼の奧から現れた瞳に、険しさがった。