《ニジノタビビト ―虹をつくる記憶喪失の旅人と翡翠の渦に巻き込まれた青年―》第95話 本棚のノート
早くに目が覚めた。アラームが鳴るまでまだまだ時間はあったが、すっかり目が冴えてしまって二度寢はできそうになかった。いつもであれば寢起きが悪く、ヨガの貓のポーズをしてしばらくしなければ瞼が開かないくらいなのに。
目が覚めるまでに時間がかかるからいつもキラのものよりも早く鳴るようにアラームをかけていた。それでも今日、早く目が覚めてしまった理由はニジノタビビトもよくよく分かっていた。
ニジノタビビトの部屋はキラの部屋よりもしばかり広い。広いと言っても棚ひとつ分広いくらくらいで、その広さに本棚を置いているので、足で踏める床面積は実質ほぼ同じであった。
ニジノタビビトはその本棚に今までつくられてきた虹やカケラについて記録したノートを収めていた。宇宙船のカメラによる記録映像から抜き出した畫像や見たもの、じたことを細かく丁寧に記録してきた。どのような人々と出會ったのか、どのようなを抱えた人々だったのか。カケラの、虹のの並び、どの場所から見たのか、誰かと共に見たのか。
ニジノタビビトはひんやりとした床に素足を下ろしてその本棚の橫を通り過ぎ、窓際まで歩いていった。
ニジノタビビトは、初めて無事に虹が作れたときにこの虹を忘れるかもしれないことが怖くて仕方がなかった。この先この虹の景が記憶から薄れることはないという確信を持ちながらしかし、忘れないという確証は得られなかった。だって既にニジノタビビトは一度、記憶喪失になっているのだ。
自分が記憶喪失だと自覚を持ったときに覚えていたのは、虹のつくり方と宇宙船の扱い方、そして生活に困らない程度の一般常識だけだった。の名稱や使い方、価値なんかが分かってもそれらがどうしてここにあるのか、誰が置いたものなのか、自分はどこから來たのかが分からない。
この虹をつくるために存在しているであろう宇宙船の中で目が覚めたということは、虹をつくる方法を知っていた言うことは、カケラの生や虹をつくった実験記録が殘っているということは、ほぼ確実に自分はつくられた虹を見たことがあるはずなのに、それを覚えていなかった。つまり、自分が様々な人々とつくり上げてきた虹の記憶を失ってしまう可能があるということだった。
ニジノタビビトはそれが恐ろしくて仕方がなくて、もし萬が一にそうなってしまってもこの虹が空に彩やかに架かっていたという事実を知ることができるようにするために記録をつけていた。だから今ニジノタビビトがまとめられたノートを見返したところで、こんなこともあったという想にはならない。それは今もなお、全ての虹を、虹をつくった人々のことを鮮明に覚えて忘れられないからであった。
「ルー、ルルルルー、ルー……」
気がつけばニジノタビビトは朝焼けの歌を口ずさんでいた。キラと出會うよりも前にある星で出會った雙子の子供に教えてもらった悲しい時や寂しい時に元気を出すため、あるいはこれから何かに挑むときに勇気をもらうために歌うおまじないの歌。今までこの歌を口ずさむ時は虹をつくる日の朝がほとんどで、勇気を貰いながら上手くいきますようにという願いを込めて歌っていた。
しかし今日は違った。今日は、勇気を貰うためではなく、元気を出すために歌っていた。
本日、星時間にして晝前に星メカニカに著陸予定である。
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