「応接室にご案します、ルーファス殿下」

醫療スタッフの青年が言う。ルーファスは穏やかな顔で「ああ、頼む」とうなずいた。しかしミネルバの目には、さっきの彼の張した表がくっきりと焼き付いていた。

ミネルバはに手を當てた。手のひらの下で心臓が激しく鼓している。不安で心がかきされているが、自制心を失ってはならないと己に言い聞かせる。落ち著いて、何が起きているのか把握しなければならない。

青年に案されて、ミネルバたちは応接室の中にった。ルーファスと並んで、テーブルの上座の椅子に腰を下ろす。

全員が席に著くと、ルーファスが口を開いた。

「私とロアン、そしてアイアスと爺様たちは、気を靜め、混した頭を整理する必要がある。ミネルバたちは、あれこれ疑問を持っていることだろう。まずは聖の伝説について研究しているアイアスから、ひと通り説明してもらいたい」

「は、はい。わかりました」

アイアスが素早く立ち上がる。目元は眼鏡で見えないが、震えた聲から揺がまだ収まっていないことが伝わってきた。

「すみません、信じられないという気持ちがどんどん強くなっていて。皆さんに詳しく説明しているうちに、落ち著いてくると思いますので」

アイアスが眼鏡を外し、強張った顔で無理やり笑った。

「異世界人召喚に関する書は書ですから、普通の人々にとっては『純聖』も『召喚聖』も伝説や神話の類になっています。突発的に異世界の住人が降ってくる現象も非常に稀です。だからグレイリングの勢力圏で、異世界人の能力を當てにする者など皆無に等しいわけですが……」

ミネルバは偽のレノックス男爵のことを思い出した。

彼はアシュラン王家を破滅させるために、書を求めて二十年近く放浪生活を送っていた。彼の未な召喚に応じた唯一の異世界人が、ミネルバから王太子妃の座を奪ったセリカだったのだ。

「まずは『純聖』ですが、これはかなり古い話になります。グレイリング帝國の建國よりもずっと昔、國という概念や世界秩序が確立する前のことです。人々を教え導くために、神がひとりのを遣わしました。彼は神の寵をけており、類まれなる特殊能力を備えていました。神と心を繋げることができ、魔を退ける浄化能力があり、結界を作って人々を災いから守ることができた。おまけに膨大な知識を惜しげもなく披して、人々に助言を授けたんです。いつしか人々は、彼のことを『聖』と呼んで崇めるようになりました」

アイアスがふうと息を吐く。幾分落ち著きを取り戻したようだ。彼は眼鏡をかけると、さらに言葉を続けた。

「聖と共に幾多の困難を乗り越えた人々は、平和でかな聖との暮らしがさらに続くと信じて疑いませんでした。しかし神は人々に自立を求めた。そして聖がある日突然消えてしまったのです。それこそ神隠しにあったみたいに。もちろん人々は混狀態に陥りました」

ロアンのように魔を清める能力を持ち、ミネルバのような力があり、ルーファスのように結界を作ることができた聖。自分たちよりももっと力が強かったはずで、人々にはまさに神そのものに見えたに違いない。

「神が聖を隠した理由は、人々が張りになったからだと言われています。しかし神は殘された人々が困らないように、贈りを授けていました。聖自が力を込めたもいくつか殘された。それらがこの世界で最初のです。だが人々は、神のみである自立とは違う目標のためにを使うようになってしまった」

アイアスが口元を歪め、眼鏡のブリッジを指で押し上げた。

「人々はを使って、天の國に帰ったと思われる聖に接を試みたんです。しかし功した者はひとりもいなかった。人々はいつまでも聖がいた時代の記憶から抜け出せず──とうとう異世界の神に接し、その神から祝福された娘を呼び出してしまいました。一度だけではなく、何度も何度も……それ以降、この世界の神が遣わしたを『純聖』、異世界の神の加護をけた娘たちを『召喚聖』と區別して呼んでいます。ここまででご質問はありますか？」

ミネルバは「あの」と右手を挙げた。アイアスが「どうぞ」と答える。

「召喚聖たちは、セリカと同じように自らの意志でこちらの世界に來たのですか？」

「私の知る限りではそうです。セリカのように元の世界で辛い思いをしていたり、病気や事故で死ぬ間際であったり。彼たちに共通していたのは、こちらの世界で生き直したいという強い気持ちです」

ミネルバは「ありがとうございます」と小さく頭を下げた。召喚聖たちが無理やり呼び出されたのではないと知って、ほんのし安堵していた。それでも古代の人々が愚かであったことに変わりはないのだが。

今度はジャスティンが「はい」と手を挙げた。

「アシュランの元王太子フィルバートはセリカを召喚した事実を隠し、彼は天から降ってきたのだと主張していました。実際にそういった現象は世界各地で見られるそうですが、彼らは召喚聖とはまったくの別ですか？」

「最初にも言いましたが、異世界人が降ってくるのも稀な話です。彼らは召喚聖とは明確に違います。召喚が頻繁に行われていた時代に、異世界との繋ぎ目に『』が開いたようなんですね。我々はから落ちてきた異世界人には、助けの手を差しべることにしています。彼らが悪意を持っていない限りは」

ジャスティンが頭を下げる。アイアスは全員を見回し、こほんと咳払いをした。

「では、他にないようなので話を続けます。異世界の神の加護を持つ召喚聖の力は、とても強かった。當時の人々が総力を挙げて呼びかけただけのことはありました。そのころには世界はいくつかの國に分かれていて、人々は彼たちの力を國の保護や作の穣のためだけでなく、軍事力にも使うようになりました。中には攻撃力や治癒力を持つ娘もいたそうなので。完全なる召喚聖依存です」

アイアスが小さく肩をすくめた。

「そういった國々がその後どうなったかというと、悲慘としか言いようのない滅び方をしました。王族は異世界人の力を自分たちの利益のためだけに使っていたので、召喚聖が壽命で亡くなった後に、のっぴきならない狀況に陥ったんです。彼たちが殘したがあったとしても、本人がいなくなると必ず朽ちる。儀式の訓練を積んだ王族や神職者などが、すぐに次の聖を召喚しましたが、誰が応じてくれるかは毎回予測がつかない。首尾よく功しても、道徳心のない娘が召喚に応じることもあるわけで」

ミネルバはごくりと息を呑んだ。超人的な力を持った、倫理観の欠如した娘──セリカよりももっと質が悪い。

「そういった娘は、天與の才能を自らののためだけに使いました。こちらの世界の特殊能力者は、人々を彼たちから守らなければならなくなった。まさに本末転倒です。彼らは純聖が殘したを持って戦いに挑み、勝利しました。召喚聖を擁していたいくつもの王家が途絶え、彼らがそれぞれの國を引き継いだ。そして過ちを繰り返さないために、召喚を封印したんです」

「ありがとうアイアス。純聖と召喚聖の違いが、皆よくわかったことだろう」

ルーファスが靜かに言う。

「召喚について記した古代の書は、間違った者の手に落ちれば危険極まりない。だからグレイリングの勢力圏では書になっている。偽のレノックス男爵の召喚陣が不完全だったように、現在では邪悪な目的で強い聖を召喚することはほぼ不可能だ。口頭で伝えられていた技は完全に失われているから、ガイアル陣営であっても難しいと思う」

ルーファスが口を閉ざして、指先で眉間をみほぐした。何かを考えているような仕草だ。そして再び口を開く。

「純聖のは、現在までに大半が失われた。召喚聖との戦いで壊れてしまったんだ。そして召喚聖のが人知れずどこかに眠っているということは、基本的にはあり得ない。この世界が異世界人をけれても、異は異だ。召喚聖がいなくなれば、殘したは數か月で朽ち果てる」

ロアンが両手を握りしめ、テーブルの上にを乗り出した。

「でも、アイアスさんと爺様が調査した結果はどれもこれも、ロバートが召喚聖のをに使ってるって告げてるんですよ。まさしく予想外で、本當だとしたら事態が一段と厄介になります。どう考えてもまずいんです」

かつてないほど真剣なロアンの聲を聞いて、マーカスがごくりと息を呑んだのがわかった。