金屬のように質かつ艶やかな黒いには棘が生え、は茨でおおわれている。

黒の霊は、崩れかけた神殿で、靜かにたたずんでいた。

契約の解除、この地は解放された。

それが先ほどの咆哮の意味。

そこへ、人の足音が響いてきた。どうやら、瘴気の強さをものともせず、近寄ってきた強者がいるらしい。黒の霊はし興味を惹かれ視線を向ける。すると一人の青年が立っていた。

人の個識別は難しい。金髪と青い瞳はこの地の代々の契約者であるように見えるが、似て非なるもの。これは呪われた側の人間。その呪いも、すでにこの地の王に帰された。

契約者は滅んだ。だから契約解除を知らせるために黒の霊が降り立った。契約を結ぶ時と同じように再び依り代となる聖の中に降りた。

ルードヴィヒは、無機質な視線を向けてくる異形に近づく。霊は不思議そうに闇の瞳で見つめ返してくるだけで、攻撃しようとはしない。

霊とは本來そういうものだ。かかわらなければ、たたらない。

――次の契約者はおまえか――

「契約？」

ルードヴィヒの頭の中に男でもでもない無機質な聲が響く。

――ここを不可侵の地とし、治める契約は必要か――

「なるほど、アリエデはそうやって契約したのだな。護國聖は霊の依り代」

――魔を北へ封じ込め、お前もこの地を治める王となるのか――

「いや、結構だ。契約はしない」

黒翼の霊が不思議そうに首をかしげる。

「何もいらない。リアを返してくれ」

――この地の魔を鎮めなくともよいのか――

「ここはもともと魔の住む地だったのだろう？　それを人が契約により奪った」

――そうだ――

黒の霊は契約の不履行を怒ったわけではなかったのだ。もともと人のようなはないのだろう。ニコライのに起きたことは契約の不履行の代償。霊は粛々と契約の解除に向けていただけだ。

「お前は魔を呼びよせたのではなく、契約の解除に伴い、結界を解き、この地の開放を魔に知らしめた」

――そうだ――

「ならば、お前の用はすんだだろう。リアを返してくれないか？」

本來、契約さえしなければ、黒の霊は無害な存在なのだ。ただそこにあるだけ。強大な力を持っているが、かかわらなければ人を攻撃してくることはない。ましてや魔をけしかけたりなどしないのだ。あり方が人とは違う。

ルードヴィヒはその事実にし安堵した。リアを救えるかもしれない。

魔が王都を躙しているのではなく、ここがもともと彼らの住む地だったのだ。だから、契約の解除とともに戻ってきた。ただそれだけの事。

アリエデの初代王は聖のに黒の霊を降ろし契約をした。聖はただの依り代。

この地の契約が解除されれば自由なはずだ。

――リアの魂は、憂いも苦しみもなく、微睡んでいる――

（を理解し、霊がリアに執著している？）

ルードヴィヒは微かに不安を覚えた。

「再度いう。リアを返してくれ」

黒の霊が不思議そうにルードヴィヒを見る。

ルードヴィヒは、一歩一歩、霊の元に近づいていく。が沈みこみそうな強烈な瘴気をあびながら、黒い聖の目の前で足を止める。艶やかな漆黒のにかすかに弧を描く。はリアであるはずなのに、彼の清らかなしさを一片も伝えていない。それがひどく悲しい。

――なぜ？――

霊の疑問符。本當に不思議にじているようだが、「否」とは言わない。

「リアのだ。彼に返してくれ」

――リアはそれをんでいない――

無機質な聲が紡ぐ、を引き裂くような殘酷な言葉にルードヴィヒの瞳が悲しみにくれる。彼は落ちつくためにいったん息をつく。それから、気を取り直し説得を始める。絶対に彼を諦めない。

「リアはこの國の崩壊をまない。きっと今の狀況を見て彼は悲しむ」

――それは、新たな契約か？――

がなく、冷ややかな黒々とした瞳がルードヴィヒを見つめる。彼は首をふりそれを否定する。

リアは霊が自分のを使って魔を呼びよせたと思うだろう。きっと彼は自分を責める。

霊に話しかけても無駄だと悟った。これは人ではない存在。人と人との繋がり、を理解しない。

だが、諦めるわけにはいかない。

「リア、聞こえるか？　私だ。迎えに來たよ」

直接リアに話しかける。また一歩近づき、質な霊をらかく抱きしめた。茨に覆われた彼のはルードヴィヒのらかい皮を刺す。ぷつぷつと白いが裂け、の開いたシャツにがにじむ。黒の霊が宿る人のはまるで氷のように冷たい。

しかし、構わずルードヴィヒはしいをぎゅっと抱きしめ、漆黒の髪をなで、優しく語りかける。冷え切った彼のがしでも溫まるように。

「リア、戻っておいで。一緒にヴァーデンの森へ帰ろう。そしてまた二人で暮らそう」

冷たく固い棘のを持つを、更に強く抱きしめた。

背から生えた漆黒の翼がふるりと震える。不思議とその翼だけはらかく、溫かだった。

リアはそのとき暗く、らかく溫かい場所で、を丸めまどろんでいた。ここから出たくない。何も見たくない。聞きたくない。

「リア………」

懐かしい聲を聞いた気がして、じろいだ。しかし、もう起き上がるのもおっくうだ。このまま闇に揺っていたい。

「リア」

今度は力強い聲がはっきりと聞こえた。

リアは眠い目をこすり起き上がる。

「誰？」

周りを見回すが闇ばかり。

「リア、一緒に帰ろう」

今度ははっきり聞こえた。やわらかな聲のする方向に、一筋のが弱々しく差しこむ。

「あの聲はルードヴィヒ様？」

リアはの見える方向へ目を向け、立ち上がる。

――リアが、いってしまう――

――こころなど、すててしまえばいい――

――こちらへおいで……いとしごよ――

男ともともつかない聲が、さわさわと心地の良いリズムでリアの耳元に囁きかける。それらは個をもたず、爭わない。ここで永遠に生き、微睡めとう。

「リア、私の元に戻っておいで！」

はっきりと聞こえる大切な人の聲。彼が呼んでいる。求めてくれている。

「ルードヴィヒ様」

リアは今度こそ一歩を踏み出した。

だが、ここは溫かくて気持ちいい。何にも煩わされず、誰にも傷つけられることもなく、誰かを傷つけることもない。踏み出すことを躊躇した。

「リア！」

切実な聲が響く。悲しくて苦しくて、そんな心のが聲に滲む……魂の慟哭。

（あの人が呼んでいる。悲しんでいる。私に會いたがっている）

そう気付いた瞬間リアは自分が凍えていることに気付いた。ここはなんて寒いの。すごく寒い。寒くて暗くて寂しくて……そう、寂しくてたまらない。

「一緒に帰ろう」

熱のこもった聲がさっきより、ずっと近くで響いた。

♢

ふと目を覚ますとリアは、の痛みとなま溫かいものがしたたるのをじた。誰かかがリアをぎゅっと抱きしめている。苦しい。

ゆっくりと目を開くと艶かな金髪に、懐かしい匂い。誰かの溫かい腕の中。

見上げると白いに整った顔、しかし、その切れ長な目は閉じていて。

「ルードヴィヒ様！」

彼の長いまつげがふわりとき、サファイヤの目が開く。

「リア、お帰り」

掠れた聲が耳朶に響く。がっしりとリアを抱きしめていたルードヴィヒのがぐらりとゆらぐ。リアは慌てて彼を支える。

彼のシャツは破れだらけだった。リアのにれる生溫かいものは彼の。

「いやーー！　ルードヴィヒ様」

驚いたリアはルードヴィヒのを支え、び聲を上げる。

「大丈夫だ。リア、心配するな。久しぶりにをかしたから、し疲れただけだよ」

意外にしっかりとしたルードヴィヒの聲にリアもなんとか落ち著きを取り戻す。

見ると傷は淺いし、顔も悪くないし、熱もだしていない。しかし、は棘で刺されたようで。

「ルードヴィヒ様！　拷問でもされたのですか」

「ただのり傷だ」

取りして必死の形相で言うリアを見て、ルードヴィヒがクスリと笑う。

「ルードヴィヒ様、なぜ、笑っているのです。彼らに何をされたのですか？」

リアのアメジストの瞳に苦悩のがありありと浮かぶ。

「何も。大丈夫。君を害する奴らは強い霊が皆やっつけてくれたよ」

彼を安心させるようにルードヴィヒは優しく背中をさする。黒翼の名殘の黒い羽がふわりとあたり一面に舞う。リアは狀況が把握できず、きょとんとする。

彼は黒い羽の中で淡くらかいを放っていた。

表かで、的にぶリア。何よりも今の彼は抱きしめると溫かくてやわらかい。それがたまらなく、嬉しくて、ルードヴィヒは笑い出す。

彼のは白く戻り、銀糸の髪はほのかにを放つ。瞳は青紫、夜明けのに澄んでいる。

微笑む傷だらけのルードヴィヒを見て、リアの瞳に涙が膨れ上がった。

「そんなにけがをして何がおかしいのですか。だらけじゃないですか。私にはもうあなたを癒す力はないのですよ！」

耐え切れずリアは泣き出した。彼はまだ混の中にいる。

「リアは、忙しいな。怒ったり、泣いたり。傷なら心配ないよ。

何も出來なくていい。何もしなくていい。リアはただ私のそばにいるだけでいい。それだけで私は救われる。

私達は助かったんだ。そしてまた一緒に暮らせる。ここは笑うところだよ」

そう言ってルードヴィヒは、もう一度、溫かくらかいリアを抱きしめた。

ゆっくりと何が起こったかを話していけばいい。呪いも契約も消えたのだから。