《沒落令嬢、貧乏騎士のメイドになります》第二十三話 スコーンとホット蜂レモンと

偽アニエスの逮捕劇は社界に大きな衝撃をもたらした。

週刊誌は大きく取り上げ、またしても彼は時の人になってしまう。

「――まあでも、以前よりはマシになったんじゃないか?」

ラザールは雑誌を片手に呆れた表を浮かべつつ話す。

良かったことと言えば、アニエスの悪い噂の全ては偽アニエスの所業で、本のアニエス本人は全く悪くないと報じられている點だった。孤児院の修道の証言も載っていた。孤児院での長年にも及ぶ活に、控えめで謙虛な人柄など、書かれている容に噓はないように見えた。

「だが、本のアニエス嬢が行方不明扱いなのはいただけない」

「そうですね……」

偽アニエス事件について書かれた雑誌が飛ぶように売れているらしく、記者が本のアニエスの行方を捜しているのは容易に想像出來た。

「そういえば、移住の件は聞いてみたか?」

「いえ、まだです」

「家の問題は?」

「片付きました。夜に聞いてみます」

「ああ、頼む」

今、王都周辺で暮らすのは危険だと思った。

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ベルナールの家は郊外にあるとはいえ、多人の出りがある。全く誰も來ない場所ではなかった。隠し通すのも難しくなるだろうと考えている。

「ま、そういうわけだ。話は以上。あとは任せてくれ」

「はい。ありがとうございます」

本日は半休を取るようにと、命じられていた。

ここ數日、事件の後処理などで息つく間もないほど忙しい毎日だったので、配慮をしてくれたのだ。

事件はすでにベルナール達の元から離れた場所にある。やっと落ち著くことが出來るのだ。

ベルナールは私服に著替え、街に出る。

賑やかな街の風景を見渡していれば、ふと思い出した。

アニエスに婚約者役のお禮を渡していなかったと。母親が帰る日に何か買って帰ろうと思っていたが、偽アニエス事件に巻き込まれてすっかり忘れていた。

焼き菓子でも買おうと周囲を見渡せば、白い兎の看板が目に付く。

『白うさぎ喫茶店』

キャロルとセリアが熱を上げていた、焼き菓子を出す店だった。

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結局、偽アニエスから貰った焼き菓子は証拠品の一つとして提出することになった。

雙子は口にすることが出來なかったのだ。

店先には長い列が出來ている。うんざりするような長さだった。

よくよく見てみれば、列は二手に分かれていた。

片方はお店へ、もう片方は店にある小さな小窓から何かをけ取っている。

どうやら焼き菓子の持ち帰りを販売しているようだった。その列は店にる客よりも多い。

ベルナールは眉間に皺を寄せて、列を眺める。

に至るまで、大変な思いをすることは見て分かった。

だが、の喜ぶものなんて分からない。あれだけ雙子が食べたがっていたものだから、アニエスも好きだろうとそう思い、ベルナールは焼き菓子の持ち帰り販売待機列に加わることになった。

最後尾に並べば、絶すら覚えてしまう。それほどの行列だった。

吹く風もを刺すような冷たさである。

ここ數日、バタバタしていて家に帰れない日もあった。寢不足のに、北風が沁みる。

知らないうちに疲労を溜めていたのだと、今になって気付いた。

それから二時間後、やっとの思いで購することが出來た。

寒空の下に立ち盡くしていたので、は冷え切ってしまった。

がイガイガと違和を覚え、激しく咳き込む。

小脇に抱えたお菓子は焼きたてで、とても溫かかった。焼き菓子で暖を取りつつ、早く帰って押し付けようと、やって來た出発間際の馬車に走って乗り込む。

屋敷に辿り著くころには、ふらふらな狀態になっていた。

扉を開き、玄関にれば、早すぎる帰宅に驚いた顔をするアニエスの姿があった。

どうやら床掃除をしていたようで、手には箒を握っている。

「お、おかえりなさいませ、ご主人様」

「ああ、ただいま帰った」

寒かったのでカフェオレを用意するかと聞いてくるアニエスに、ベルナールは首を振る。渇きは覚えていたが、が痛くてそれどころではなかった。

とりあえず、お菓子を渡す。

「……これ」

アニエスはきょとんとした顔で、焼き菓子のった箱をけ取る。

「……食べろ」

「こちらは、わたくしに?」

お菓子はアニエスのために買って來た。

それで間違いないのに、異を贈った経験がないベルナールは恥ずかしく思ってしまう。

その結果、口から出てきたのは、照れ隠しの言葉だった。

「――か、勘違いをするな。お前のために買って來たわけではない。キャロルとセリアが食べたがっていたもので、だから、皆で分けて、食べろ」

「さ、左様でございましたか。ありがとうございます」

買って來た焼き菓子は全部で十個。

アニエスが他の人にも分けられるように、多めに買ってきていた。それを素直に言えなかった自分に嫌気が差す。

熱でぼんやりとした頭では、事を冷靜に考えることが出來ない。

の痛みも増し、咳も止まらなくなっていた。

部屋で休めば治る。

そう思って、まっすぐ寢室に向かった。

途中で會ったエリックには、しばらく休むので部屋にらないように言っておく。

主人に忠実な執事は、頭こうべを下げて見送った。

上著をいで椅子に掛け、タイを雑に外す。シャツのボタンを外したところで力盡きる。

寢間著に著替える元気も無かった。水差しの中の水を半分ほど一気に飲み、そのまま布団に潛り込んだ。

それから數時間、ぐっすりと眠っていた。

ひやりとした、額からの冷たさをじて目を覚ます。手を當てれば、誰かの手にれた。

添えてあった手を、意味もなくギュッと握る。

それは熱を帯びたベルナールの手には、心地よい冷たさだった。

握った手はすべすべとしていて、らかい。

手の中の冷たさにれているうちに、だんだんとぼんやりしていた思考がはっきりしていく。

握った手は自分のものではなく、間違いなく他人の手。

キャロルやセリアの小さな手ではなく、ジジルの水仕事などで荒れた手でなく、ドミニクのごつごつした手でもない。

匙より重たいものを持ったことがないような綺麗な手。なのに、手の腹はしだけ皮が厚くなっていて、まめが出來ていた。それは、大きな違和でもある。

――貴族の令嬢のようなきめ細やかなにまめ?

「う、うわ!」

慌てて手を離し、瞼を開く。

周囲を見渡せば、困った顔をしているアニエスの姿があった。

「な、お前!」

「はい」

「何故、ここに?」

した頭で問いかける。

アニエスは優しい聲で答えた。

「その、ご主人様のお世話を」

「せ、世話? どうして?」

「お醫者様は、風邪だと」

「か、ぜ?」

「はい」

言われてみれば頭がズキズキと鈍痛を訴え、は腫れているのか酷く痛む。

酷く咳き込んでいたような気もする。

は渇いていませんか?」

「ああ、まあ」

「では、蜂レモンを準備します」

アニエスは暖爐から湯沸ゆわかし鍋を取って、寢臺脇に置いてある機へとやって來る。鍋敷きの上に置き、カップの中に材料をれる。乾燥レモン、蜂、砂糖。それらをれて、湯を注ぐだけの簡単なものだった。くるくるとカップの中を匙でかき混ぜる様子を、ぼんやりと眺めていた。

手渡されたそれは、ふんわりと甘い香りが漂っている。

口にすれば、甘酸っぱい飲みだと分かる。

ホッとするような優しい味で、を刺激するものでもない。

冷めるのをまちつつ、ゆっくりと飲み干していく。

それから、手渡された薬を飲む。

薬を飲み終えたのと同時に、エリックが著替えを持って來た。夕食について聞いてきたが、食がなかったので、首を橫に振って必要ないと言っておく。

アニエスが部屋を辭すれば、汗を掻いた服から寢間著に著替えて、再び眠ることになった。

◇◇◇

翌日。

日の出前に目を覚ます。

薬が効いたのか、の痛みも頭痛もすっかりなくなっていた。

お腹がぐうと鳴り、昨晩夕食を食べ損ねたことを思い出す。

寢臺の近くにあった機には誰かが看病してくれた痕跡があった。

それを見ながら、風邪を引いたのなんて十數年ぶりだなと、しみじみ思う。

ばし、深呼吸をした。はすっかり軽くなっており、健康そのものであった。

エリックを呼び、湯を用意するように命じた。

を綺麗に拭いて、食堂に移する。

ベルナールの姿を見て驚いたのはジジルだった。

「旦那様、風邪、治ったみたいですね」

「ああ、すっかり良くなった」

「もしかして、お仕事に行かれるのでしょうか?」

「當たり前だ」

「一日くらいゆっくりお休みをされては?」

「そんなにやわじゃない」

「左様でございましたか」

食卓に並べられた料理を、ベルナールは次々と平らげていく。

その様子を見て、ジジルは心配いらないと思った。

「そうだ、旦那様」

「なんだ?」

「旦那様を朝方までずっと看病をしていたのは、アニエスさんです。――あ、別にお禮を言ってしいとかではなく、事実を報告すべきかなと思いまして」

「そう、だったのか」

おぼろげな意識の中で飲んだ蜂レモンは夢ではなかった。それから、握ってしまった細くらかな手のことも。

記憶を蘇らせ、恥心に襲われることになった。

「ああ、あと、スコーン。ありがとうございました。娘達も喜んでいました」

「……」

雙子の言っていたスコーンのお蔭でベルナールは風邪を引いてしまった。若干の憎らしさをじてしまう。スコーンを食べたアニエスはどういう様子だったのか。なんとなく気になっていたが、聞くのも癪だと思う。

ジジルに見られていることも気付かずに、一人で百面相するベルナール。

そんな彼から、衝撃の一言が発せされる。

「昨日は特に冷えていましたから、行列に並ぶのも大変だったでしょう?」

「――は、はあ!?」

「白うさぎ喫茶店のスコーン、毎日數時間待ちだという噂です。大変な思いをして買って來て下さるなんて」

「お、お前、それ、他の人に、言っていないだろうな!」

「ええ、もちろんです」

「も、もしも、言ったら」

「言ったら?」

どんな罰を與えようかと思ったが、何も浮かんでこない。

とりあえず、「言ったらただじゃおかないからな!」と宣言しておいた。

それにしてもと考えながら、眉間に皺を深く刻む。

せっかくアニエスへお禮をして、気が晴れたと思っていたのに、また借りを作ってしまった。

また、何かお禮をしなければならない。

どうしてこうなったと、頭を抱えることになった。

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