遡ること一週間前、ベルナールは大変な危機に瀕していた。

風呂にり、すっきりした狀態で寢臺に橫たわり、うとうとしていると、誰かが部屋にやって來る。

夕食は済ませたし、寢酒も要らないと言っておいた。いったい誰がと、薄目を開ける。

「ベルナール様……」

「うわ！」

枕元に立っていたのは、角燈を持った寢間著姿のアニエスだった。

薄い絹のドレスで、首元から足首まですっぽりと覆われている。出は一切なかったが、の線に沿った意匠で艶めかしく、ついつい視線は元や細い腰にいってしまう。

角燈が照らす薄明りが、余計にそういう風に見せているのかもしれないと思う。

アニエスは現在、ベルナールの母親と寢所を共にしていると聞いていた。いったい、何をしに來たのかと、上った聲で問いかける。

「お、お前、いきなり、なん」

「お薬をお持ちしました」

「薬……？」

「はい」

アニエスが就寢後の寢室にやって來た理由とは、盛大に揺したのが恥ずかしくなるくらいの、なんてことのないものであった。

それと同時に、他人の接近に気付かないまま寢ようとしていたことも、地味に落ち込む要因となる。改めて、修業が必要だと考えていた。

「散剤こなぐすりは平気ですか？」

「ガキじゃないんだから」

そう言いながら薬包紙に包まれた薬をけ取り、口に含んで水を飲む。

苦い味が口の中に広がり、思わず顔を顰めてしまった。

「はい、では、どうぞ」

「は？」

続けてアニエスが何かを差し出してくる。それは、匙一杯の蜂であった。しかも、口元へと近づけている。

「な、なんだ！？」

「お口直しと、夕刻より聲が枯れているようにじましたので。蜂は、にいいと聞きました」

「……そうかい」

匙を寄こすようにと言いかけた瞬間に、口の中に甘い味が広がる。仕事が早いアニエスは、さっさと口の中に匙を運んでいた。

「飴のように、ゆっくり舐めて下さいね」

ベルナールの激しい揺をよそに、アニエスは淡々とした様子で看護を続けていた。

薬が載った盆の上を整えていたので、薬の時間は終わりと思いきや、ここからが本番だった。

「では、次にお薬の塗布を」

「と、塗布、だと？」

アニエスはベルナールの刺し傷に膏を塗ると言う。

「いや、それはいい！　自分でする！」

「ですが、用量や塗布方法など、お醫者様からご教示賜りましたので」

「そういえば聞いていたな！」

妙に熱心に聞いていたことを、その時のベルナールはなんの疑問も抱いていなかったのだ。

「では、下履きを――」

「がん！」

「では、捲りますか？」

「こ、斷る！」

「大丈夫ですよ、沁みるお薬ではないと、先生もおっしゃっていましたから」

「そういうことじゃない！」

晝間の診察の時はアニエスが居たにもかかわらず、何も思わずにズボンをいだ。

だが今は、それを激しく拒絶していた。

夜の薄明りの中であっても、腳をさらすのは酷く恥ずかしいような気がしたのだ。

「ベルナール様、お願いいたします。どうか、わたくしにお任せください」

アニエスは床に膝を突き、乞うように願った。

眉を下げ、憂いに満ちた表でベルナールを見上げている。

こういう行為をされてしまえば、斷れるわけもない。

結局、膏の塗布を頼むことになった。

半ば、なげやりな様子で寢間著の下をぎ、足を放り出す。

「では、しひやりとすると思いますが」

アニエスは指先で薬を掬い、ベルナールの負傷した左の腳に近づく。

傷口にれようとしたその時、手首を握って行を制した。

「ち、ちょっと待て！」

「はい？」

「はい、じゃねえ！」

アニエスが必要以上に接近していたので、ベルナールは焦っていた。そして今になって気付く。彼が眼鏡をかけていないことに。

「おい、眼鏡はどうした？」

「お部屋に置いてきてしまいました」

「～～～～！」

一度アニエスの肩を押して元の位置に戻す。耐えきれない狀況から思わず額を押さえた。

「申し訳ありません、すぐ済みますので、どうか、そのままの狀態で」

「……」

ベルナールが大人しくなったので、アニエスは膏の塗布を再開させる。

「ヒリヒリしたり、痛かったりしたら言って下さい」

「……」

アニエスは細くらかな指の腹で、丁寧に膏の塗布を始めていた。

ベルナールは、彼の父親の顔を思い出しながら、この場を耐える。

に指先が這う覚はなんとも言えない。

だが、それ以上に気になることと言えば、怪我をしていない右の腳にじるらかなだった。

を屈め、膏を塗布するアニエスのが、思いっきり腳に押しつけられていた。

必死に、アニエスの父シェラードの激し過ぎる追及を記憶の中から蘇らせ、この場を耐え忍んでいた。

塗布を終えたアニエスは、満足げな顔でふうと息を吐く。

「これで終わりです。あとは、ゆっくりと休んでくださいね」

おやすみなさいと言って、アニエスは寢室から出て行く。

一人になったベルナールは、「このまま眠れるかよ」と吐き捨てるような獨り言を呟いてしまった。

一週間後。

ついに、醫者から傷口の完治が言い渡される。もう、膏の塗布も必要ないとも。

「ですがまだ、激しい運は厳ですぞ」

「激しい運……」

思わず、醫師の言葉を復唱するベルナール。

穏やかではない治療の時を振り返れば、白目を剝いてしまいそうになった。

一日三回と、膏を塗る頻度も高かったのだ。

一週間、アニエスの手厚すぎる看護を必死になって耐えた。結果、刺し傷は早々に完治したのだ。診察を見守るアニエスも、嬉しそうにしている。

怪我の完治という達に満たされたベルナールは、心からのお禮を言った。

「先生、今までありがとうございました」

「ええ、どうかお大事に」

アニエスは深々と頭を下げ、醫師を見送る。

これで、ゆっくりと眠れる――そう思っていたのに、想定外の出來事が起こったのだ。

夜、またしてもアニエスがベルナールの寢室にやって來た。

もう慣れたもので、堂々と迎える。

「どうした？」

その問いかけに対する答えは、ベルナールを絶の淵へと突き落とすものであった。

「腳の按を先生に教示いただきました。これを行えば、合もよろしくなるかと」

「はあ、按だと！？」

蒸しタオルで溫め、腳をみ解せば、快方に向かうと醫師が教えてくれたとアニエスは話す。

「短期で治ることは難しいかもしれませんが、継続して行えば――」

「しかも、今度は長期治療！？」

期間の長さに、さらなる絶を覚える。

ベルナールは、わなわなと震え、ついに涙目になった。

「ベルナール様、心配はいりません。わたくしが、お付き合いしますので」

「うっ……」

あまりに辛い所業に、思わず嗚咽をらした。

神は殘酷な使いを寄こしてくれたと、目頭を熱くする。

そんなベルナールにアニエスは、慈に満ちた言葉をかけた。

「何か、わたくしに出來ることがあれば、なんなりと申して下さ――」

「うわああああ！」

ベルナールはアニエスのを引き寄せると、そのまま寢臺に転がして上に覆い被さった。

下腹をでながら、白い首筋にを寄せる。

指先が部にれる前に、ぴたりと行を止めたが、アニエスは聲をあげることもなく、じっとしていた。

薄明りの中、目が合う二人。

アニエスは、靜かに瞼を閉じる。

「――だ、だからお前、ちょっとは抵抗しろよおおおお！」

ベルナールはび、アニエスの上から退いて壁際に転がって行く。

――悪魔だ、悪魔が居る！！

ずっと、天使のような娘だと思っていたが、今日ばかりは彼がとんでもない悪魔に見えた。

激しい運は厳、激しい運は厳と、醫師から言われた言葉を呪いのように繰り返しながら、必死になってこの狀況に耐えていた。

「あの、ベルナール様、按は？」

「こ、こんな狀況になって尚、まだ治療を行うと言うのか！？」

むよりませろという本心は、口から出る前に呑み込んだ。

「その、すぐに終わりますので」

「～～～～！」

――こうして、ベルナールの新たな戦いが今、始まろうとしていた。