《ロング・ロング・ラブ・ストーリーズ 4度目のさようなら that had occurred during the 172 years》序章 1947年 マイナス16 - 始まりの16年前

終戦から二年後、東京の外れで一人のが、広島からやっ

てきたヤクザと出會い、そして……。

昭和二十二年九月、カスリーンと名付けられた臺風が近づきつつあった。

そのせいで強い雨が降り続き、そんな中、がひとり、布製の洋傘を差し歩いていた。

見れば飲み子を背負い、薄汚れたねんねこを羽織っている。そして時折立ち止まり、赤ん坊の頭に手を近づける。濡れていないかを確かめるのだろう。大丈夫だとわかると、また赤ん坊の頭までねんねこを引っ張り上げて、再びトボトボと歩き出した。

終戦からすでに二年が経っている。しかし戦前の平穏が噓だったかのように、日本中のあちこちで混が未だ続いていた。

特に東京は百六回もの空襲をけ、破壊し盡くされた影響が濃く殘っている。

そしてそれらは建築に限ったことではなく、日本人のアイデンティティにまで深く染み渡っていた。

米兵が集まるところに娼婦が立ち、それを占領軍が見つけては連れ去っていく。

病の染防止を理由にしたパンパン狩りで、今から考えれば人権躙というべき行為だが、敗戦國である日本にはいかんせんどうすることもできなかった。

しかし東京の外れともなれば、狀況はずいぶんと違ってくる。赤ん坊を背負ったのような存在でも、特に危険をじることなく普通に歩けた。

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雨腳はどんどん強くなるが、さりとてに帰るところなどない。彼には家もなく、頼るべき寄りさえなかったのだ。

この時代、東京中に溢れていたそんな者たちの中には、よりい子供たちも多かった。

もあと三つ四つ年若であれば、こんな東京の外れを歩かずに済んだろう。さらに幸か不幸か、はあまりに可らしく、目を引くほどにしかった。そんなしいがどうして、このような日に飲み子を背負い歩いているか? 誰もが気にする余裕などなく、時折すれ違う者もチラッと視線を向けるだけ。そこは、多川の土手沿いで、このまま行けば狛江、さらには府中へと続く荒れ果てた道だった。

――確か、この辺……。

なんとなく、この辺りに見覚えがある。ふと、そう思った時だ。

「パン!」という音が響き渡って、は慌てて振り返った。するとバタバタっと足音、そしていきなり視界に二つの影が飛び込んでくる。

影はの目の前を走り抜け、そのまま左手にある土手を駆け上がった。

反対側を見れば、二人を追っているらしい姿もある。その右手には拳銃が握られ、

――さっきのは、ピストルの音だったの……?

はやっとそう思うのだ。

この瞬間、ソ連の軍用拳銃トカレフが二人の男を撃ち抜こうと、あるいは追っ手の方が返り討ちに遭っても、無論には関係のない出來事のはずだった。

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しかし関係ないままでは済まないと、次の數秒でにもすぐわかった。

再び銃聲が響いて、先に斜面を駆け上がった男が唸り聲を上げたのだ。

次の瞬間、男はバランスを崩しての足元まで転がり落ちる。剝き出しの足首からが噴き出し、添えられた手の甲もまみれだ。

それでも男は飛び退くように起き上がった。そしてあっという間に、背後からを羽い締めにしてしまう。

途端にきできなくなって、男のきに合わせ、の洋傘がユラユラ揺れた。

するともう一方も、慌てて土手を駆け下りてくるのだ。

どう見たって二人は堅気じゃない。

さらにを巻き込んだ方は、きっとまだ十代だろう……。それでもはだけたシャツから、年齢に似合わぬ古風な彫りを覗かせている。

ところが彫りとは裏腹、その顔は怯えて震え、の背後にを隠すことで一杯だ。そしてそんな年若を庇うかのように、もう一方がそいつを己の背後に押しやった。

そのままサッと腰を屈め、の肩口に右腕をのせる。

それから追っ手に向けて、十四年式の銃口を差し向けた。

この時、赤ん坊と男の顔は、十センチと離れていない。はただただ赤ん坊の無事を祈り、直立不勢を必死になって取り続けた。

そこそこの距離から、土手を駆け上がる足首を撃ち抜いた腕だ。

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構えているまま引き金を引けば、きっと十四年式拳銃など吹き飛んでいただろう。

當然、そうなればだって無傷では済まない。ところが追ってきた方は、一向に引き金を引こうとはしないのだ。

無論それは一瞬のことで、ひと呼吸の躊躇とでもいうじだ。

そしてその一時を逃さなかったのは、を盾に取った方のヤクザだった。

突然、耳が吹き飛んだような衝撃を右側にじる。続いて地響きのような轟音が頭の中で鳴り響いて、はそのまま気を失いそうになった。

ところがよろけるを、ヤクザが再び押し戻すのだ。

――しっかり、盾になっていろ!

まさにそんなじで肩口をつかみ上げ、再びをしっかり立たせる。

そうしてやっと我に返って、は目だけをキョロキョロとかした。

見ればかなり近くにまで迫っている男の顔が、知らぬ間に真っ赤に染まり歪んでいる。

そんな苦悶を知って初めて、響いたのが銃聲だったとは悟った。さらに次の瞬間、を盾にしていた男が躍り出る。そして前方に向けもう一発を打ち込んだのだ。

両手を添えて打ち出された弾丸は、男の腹辺りに見事著弾。すでに左耳を撃ち抜かれていた男は、両腳を後方に引っ張られたようにして一気に地面に突っ伏した。

それから暫し、雨音だけの靜寂が続いた。

そしてそれを破ったのは、後ろで震えていた若造の一言だった。

「やったのか? おい、やったのかって……」

「もう大丈夫ですよ。しかしまったく、なんなんだあいつは……?」

「いきなり俺を撃ってきやがって……くそっ……」

そう言って、若い方のヤクザがの後方から姿を見せた。

「とにかく、どこの組のもんだか突き止めて、きっちり方をつけさせますよ」

年若に答える男の方は、なくとも彼より十歳以上は年上に見える。しかしその序列は年若の方が上らしく、常にそのけ答えは丁寧だ。

二人はのことを忘れたように、うつ伏せに倒れた男に目を向けている。さらにその時、がそおっと後ずさり、踵を返して走り出そうとした時だった。

「おっと、逃げなくたっていいじゃねえか!」

あっという間に年若が駆け寄り、の前に立ちふさがった。

「好裕さん、いい加減にしてください……」

「いいじゃねえか金子……見てみなって、けっこうな上玉だってこいつ……」

さっきまで泣きそうだった好裕という名の年若が、まさに下卑た笑いを見せていた。

一方、金子と呼ばれた方は、年若の聲には答えないまま、8×22mm南部弾をぶち込んだ男へ近づいていく。年若もそれを見て、の腕を引っぱりその後を追った。

いよいよ本降りとなった雨の中、三人並んで倒れ込んだ男を見下ろしている。

一目見て、死んでいるとじる。

そのくらい大量のが、雨水と混じり合って辺り一面に広がっていた。すると年若の口角がニュッと上がり、片足を男の肩口まで持っていく。「このやろう……」と呟いて、男の後頭部を蹴り上げようとしたのだろう。

殘った腳を後ろに反らし、一気に前方へと突き出した。

そうして足先が円を描き、まさに男の頭にれようかという時だ。

天を向いていた男の後頭部がクルッといた。

同時に首から下も、スッと地べたから浮き上がる。

一気に腹の銃創が上を向き、雨水にまみれた顔がになった。となれば當然、年若の足先は空を切り、そのまま真後ろにひっくり返る。

その瞬間、もう一方のきは素早かった。

瞬時に銃のスライドを引いて、同時に指先がトリガーにれる。

ところが銃を振り上げようとした時だ。倒れ込んでいく年若の足が、男の腕を蹴り上げてしまった。「パン」という音が響き渡って、天空を向いた十四年式拳銃から蒸気のような白煙が上がった。

そんな一瞬の隙を突き、仰向けになった男が反撃に出る。

その目がカッと開かれ、握られたままだったトカレフが宙に浮き、きっかり二回火を噴いた。

が我に返った時には、三人ともが倒れている。

仰向けになったトカレフの男も、き一つしないままだ。さらに後から倒れ込んだ二人が今にもき出しそうで、は恐怖にくことさえできないでいた。

それでも、あと何秒間か何事もなければ、きっと走り出していただろうと思う。

ところがそうなる寸前、トカレフを手にした男が咳き込んだ。と同時に真っ赤な鮮がほとばしる。男は苦しげにを吐き出して、引き攣るような呼吸音を響かせた。

「大丈夫……ですか?」

思わず聲にしてしまった自分に驚き、慌ててヤクザの方に視線を送った。しかしく気配はまるでなく、二人は降り注ぐ雨粒をただけ止めている。

しホッとして、再び仰向けになった男の方へ視線を向けた。

するとうっすら目を開けていて、雨粒が當たるたび眉間にシワを寄せ、目を瞬かせて辛そうな顔をする。

は恐る恐る近寄って、握りしめていた傘を男の頭上に持っていった。そのままその場にしゃがみ込み、再びおんなじ言葉を聲にする。

「大丈夫、ですか……?」

その途端、男の顔に揺が走った。左右の瞳がパッと開かれ、途端にその目がを捉える。

ところがそんな視線も一時で、すぐに外れて上向いてしまうのだ。

その時、は何を思ったか、いきなり男の腕を取り、そのまま引っ張り起こそうとする。

「ちょっと……待て」

苦痛に顔を歪ませながら、

「俺を、殺す気か……?」

男はなんとかそう聲にした。

「違います。このままだと、あなたは本當に死んでしまいますから……」

「どっちにしても、もう助からん……だから、放っといてくれ……」

掠れるような聲の合間に、ピーピーという呼吸音がいちいち響いた。

ところが男の言葉にも、はそのきを止めようとはしなかった。

もしもあの時、この男がためらいなく引き金を引けば、雨に打たれていたのは自分の方かもしれない。

――この人はなぜ、あの時、すぐに撃たなかったの?

そう思うの脳裏に、さっきのシーンがあっという間に蘇った。

あれは……まさに困ったという顔だった。脳裏に浮かんだ男の顔は、「參った!」と言わんばかりに歪んでいる。

――この人は、わたしがいたから撃てなかった……いえ、撃たなかったんだわ……。

だからなんとしても助けたい。そんなことを勝手に思って、何を言われようが男を捨て置こうとはしなかった。

やがて、その懸命さが伝わったのか……男は視線を左右にかし、たどたどしくもへ告げた。

「俺を、土手の向こうへ……連れてって、くれ……」

「土手の向こうって、川の方ってこと?」

「そうだ……だから、ちょっと、待て……」

彼はそう言うと、懸命に左半を浮かそうとする。もすぐにその意図を理解して、腕を離して彼の背中に手を差しれた。

そんなの助けもあって、男はそう苦労することなくうつ伏せになる。さらにしずつ肘と膝を折り曲げていき、を丸め、程なく立ち上がることにも功した。

「どうして、土手なんかに上がるんですか?」

そんなことはやめて、このまま醫者のところに向かうべきだ。

何度そう聲にしても、男はまるで聞く耳を持たない。腰を辛そうに折り曲げ、ゼイゼイ言いながら、土手斜面を必死になって上っていくのだ。

最初は見守っていたも、やがて洋傘を彼の頭上にかざし、一緒になって上り始める。そうしてなんとか上り切り、そこからはの肩を借りて、さらに川っぺりまで下りていった。

ここ數日の雨で水流は荒々しく、多川はいつもよりずいぶんその川幅を広げている。

「ここで……いい……」

男がそう呟いたのは、茶い濁流がすぐ目の前まで迫っているところでだ。

「こんなところで、いったいどうする気ですか?」

そんなの問いには答えず、男は草むらに倒れ込むように寢っ転がった。さらにその手をゆっくり上げて、ヒラヒラと振って見せるのだ。

もういい、どこかへ消えてくれ……。きっとそう言っている。すぐわかったが、「はいそうですか」と言えるくらいなら、こんなところにいやしない。

「それじゃあ、わたしもここで休憩にします。ああ、疲れた!」

「馬鹿なことを言うな……おい、何してる……おい……」

辛そうな聲を無視して、は男の隣にしゃがみ込んだ。

「ここで、何をするつもりなのか教えてください。じゃないと、ここを離れるわけにはいきませんから……」

濁流を見つめながらのそんな聲は、テコでもかないという強い意志がじられる。

はもともと、死に行く場所を求めていたも同然だった。

寄りもなく、知り合いだってない。住んでいた借家も、今頃は取り壊されているはずだ。だから彼に帰るところはないし、進むべき道なども當然ない。

しかしとにかく、彼は命を救われたのだ。風前の燈火だった命が救われ、代わりに男が死に行こうとしている。

きっと、もう助けることなどできやしない。

それでも何か、すべきことがあるはずだろう。そう思って、は男といたのだった。

そうしてきっと、彼の必死さに負けしたのか……表もいくぶん和らぎ、彼は落ち著いた聲でポツリと言った。

「俺は、もう助からん……明日の朝、どころか、日暮れまでだって……」

途切れ途切れは変わらずだが、その口調はずいぶん優しげになっている。

彼は広島から來た刺客で、組の命令でこんなところまで來たはいいが、肝心の組長には逃げられてしまった。そんな狀態のまま帰れるはずもなく……、

「もともとピカドンで……そう長くはない命、だった、からな……」

だからこのまま死んでいくと、彼はそこで初めて弱々しい笑顔をに向けた。

それから十分ほどが経った頃、いくら話しかけても言葉が返ってこなくなった。

は洋傘を男の上半に被せるように置いて、肩をすぼめながら立ち上がる。

するとそこで、まるで気を失ったように靜かだった赤ん坊が、突然火がついたように泣き聲を上げた。慌ててずり落ちたねんねこを引っ張り上げ、二、三度を上下にゆする。そしては目を閉じて、掌を顔の前でしっかり合わせた。

今、彼の懐には、布製の長財布が収まっている。

長丁場に備えて、それなりの金がっているからと告げて、

「死人が、持っていても……使いようがない、からな……」

け取れないと返すに、男はそう言って優しい笑顔を見せたのだった。

財布には、この時代なら數ヶ月は暮らせる大金と、不思議なくらいピンとした名刺が一枚だけっていた。

「〝みょうい〟って、言うんだ……きっとこの辺じゃ、そんな名前……」

ありゃしない――きっとそんなじを口にしかけて、そこで息が続かなくなった。

「俺の分まで……生き抜いて、くれ……」

見ず知らずのに、そう言って死んでいった男の名は〝名井良明〟。

そんな変わった苗字と名が、真っ新な名刺にポツンと印字されていた。

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