平間が熊に視線を移すと、その目はギラリと輝き、四肢には野の力が満ちていた。

まさに駆け出そうとしているところだ。

やはり好奇心で付いてきているのではなかった、機會を狙っていたのだと平間は確信する。

「沙和さん、後ろです！」

平間がそうぶのと、熊が走り出すのは同時だった。

沙和は今、丸腰だ。

そのことに気付いた平間は、とっさに懐ふところの短刀を沙和に放り投げる。

「これで、鼻を狙ってください！」

「なんで鼻なのよ！？ ああもう、こうなったら気合だ！！」

短刀をけ取った沙和は素早い作でそれを一気に抜くと、でたらめに振り回した。

平間の「鼻を狙え」という注進は、完全に無視されている。

しかし幸い、熊は沙和の不利回す短刀に怯み、速度を落とした。

そこへ、それはほんの偶然に、繰り返される沙和の無秩序な斬撃の一つが、熊の鼻先をかすめた。

その深さは、一寸(三センチメートル)の半分にも満たない程度だろう。

だが、それで十分だった。

一般に熊の鼻先の覚は、犬の嗅覚や兎の聴覚などのように、特に鋭敏だとされる。

そして、かの若い熊も他の個同様に、野生の世界では圧倒的に強い。

それゆえ、今まで鼻先に傷を負ったことなど無かったのだろう。きっと沙和のつけた刀傷は、この熊にとっては初めての顔面への傷だ。

生まれ持った覚の鋭さと、未知の痛覚への恐怖。

その二つが合わさって、一瞬だが熊をたじろがせ、後退をった。

結果、この熊の至った場所は、これも偶然にも、平間のいる位置の真下だった。

「今だ、今しかない」

平間はそう自分に言い聞かせると、カレヤギを下に向け、竹棒に括り付けておいたタスキに片足をかける。

そして意を決し、跳んだ。

臓をふわりと浮かすこそばゆい覚が、平間を襲う。

そんな浮遊を楽しむ間もなく、眼下の枯茶の獣がぐんぐん近付いてくる。が、平間の頭は意外にも冷靜だった。

熊の背にカレヤギの鉄球部分がれるところで、平間はタスキにかけた方の足に、思いっきり力を込める。

短いながらも太く、鋭い五本の鋼が、大型獣特有のいを抜け、分厚い表皮と、その下の真皮を切り裂いた。先端は背筋に達したあたりか。

「やったか……？」

平間の呟きの後、しばしの靜寂が勝未の森に訪れる。

その靜粛を、猛烈な咆哮が吹き飛ばした。

カレヤギを背中に突き立てられた熊がうねるように震える。

周囲の木々を軒並みざわつかせるように猛々(たけだけ)しく吼ほえるその姿は、この巨軀の獣が森の王者であることを知らしめるに十分なものだった。

「やっぱりダメだ！ 壱子、全然効いてなさそうに見えるんだけど！？」

ぶように言う平間を振り落とさんとするように、熊はそのを大きく揺らした。

やはりカレヤギは、熊には効かないのか。

そもそも、あの歯が短すぎる。あの長さでは熊の分厚い皮を破って臓を傷つけることが出來ないし、それゆえ五本も付いている意味など無い。

頭に刺されば脳にまで至ることが出來たかもしれないが、今となってはもう遅い。

完全に失敗だ。

平間は、自分の顔からの気が引くのをじた。

こんな覚が、こうもハッキリと分かるものなのか。

「早まるな平間！」

そう言うのは、ようやく立ち上がれたらしい壱子だった。

傍らには、抜きの短刀を持ってオロオロする沙和の姿もある。

何やら小さな紙片を手にしている壱子が、さらに聲を張り上げた。

「良いか、そのままじゃ！ そのままカレヤギの柄を絶対に離してはならぬ！」

「離すなって言われても、どうして！」

「どうしてもじゃ！」

壱子がそういう一方で、熊はなおも平間を振り落とさんと二足で立ち上がり、一層激しくをゆする。

その遠心力で飛ばされそうになりながらも、平間は壱子の言うとおり、なんとかカレヤギの柄にしがみ付いていた。

返しの付いた刃の構造ゆえか、カレヤギが抜けることは無さそうだったが、それでも平間には手を離さずにいるのが一杯だ。

平間が延々と振り回される、そんな狀態がしばらく続いたが、その均衡もついに破れた。

熊が一層強くをよじったその時、柄の接合部からいヤスリの削れるような音が響いたかと思うと、平間が必死で摑んでいたカレヤギの柄は、元からスッポリ抜けてしまったのだ。

「うっそだろ！？」

さっきは「よく出來ている」と言ったが、前言撤回だ。

と心で毒づいた瞬間、平間は背中から木の幹に叩きつけられる。

肺腑から空気が無理やり押し出され、その一瞬後に、後頭部に衝撃が走る。

彼の脳の間に火花が弾はじけた。

「痛いっつつ……」

うずくまる平間の顔に、森の冷気に混ざって、暖かくった風が當たった。

まさか、と思い、平間が霞む目を恐る恐る開くと、目の前には低く唸うなり聲をあげる熊の、大きな顔があった。

平間に覆いかぶさった熊は、背の傷の恨みを晴らそうとしているのか、その目を爛々とした怒りので輝かせていた。

「あー、こりゃ詰んだかな」

そう呟くと、平間は諦観じみた笑いを浮かべる。

「いや、詰んでおらぬ。それで良い」

平間の迫した狀況とは対照的に、鷹揚おうように言う聲の主は壱子だ。

良いわけ無いだろ、どう見ても詰んでいるじゃないか。

そう言い返そうとしたとき、平間にのしかかる熊のの中で、何かがぜた。

何かの焦げた臭いが、あたりに漂う。

熊は口から焦げた煙を吐くと、平間の上にバッタリと崩れ落ち、そしてかなくなった。

「……え？」

突然の出來事に、平間は熊の下敷きになりながら絶句する。

何が起きた？ この臭いは一……あと重い。

様々に雑な思考が平間の頭を錯する。

「怪我は無いか、平間！」

いつの間にか近くにいた壱子が平間の顔を覗き込み、心配そうに言った。

「無いと思う。頭をぶつけたけど……それより重い。こいつをどけてくれ」

「分かった、すぐにどけるから待っておれ。沙和、手伝ってくれ」

「了解！」

平間の重の三倍はあろうかという巨を、壱子と沙和で押しのけて、ようやく平間は解放された。

しばらくぶりの新鮮な空気を堪能した平間は、熊のに耳を當てている壱子に、脳裏で渦巻く疑問をぶつけた。

「なあ壱子、あの熊は……死んでいるのか？」

「うむ、心音が聞こえぬから、おそらくは」

「でも、どうして急に……」

「それは、ほれ、あの鉄球のおかげじゃな」

「鉄球？」

平間が壱子の指す方に視線をやると、その先には熊の背に突き刺さったままの半球が見えた。

抜けてしまったカレヤギの先端部。鉄で出來ていて、爪のような刃が付いていた、あの半球だ。

「どうしてこれが……あっつ！」

不思議に思った平間が鉄球に手をれると、その予想外の熱さに悲鳴を上げる。

焼け石のように熱された鉄球は、柄の挿さっていたから白煙を上げていた。