《不用なし方》第13話

遠くで誰かが呼んでいる。

 ……だ。涙聲でただ亜という人の名前を繰り返し呼んでいる。

「ん……」

聲に導かれるように重い瞼をゆっくりと持ち上げた。目の前に広がるのは真っ白な世界。目を閉じていたときと同じだ。自分が目を開けているのか閉じているのかも分からない。

「亜っ!」

大きな聲に驚いて大きく目を見開くと、徐々に視界がクリアになっていく。

そして、涙で頬を濡らした中年の姿を捉えた。

「……」

この人は何故泣いているのだろう? なによりも……誰?

頭の中が深い霧で覆われているようになにも分からない。……けれど、手前の方の霧は徐々に薄らいでいく。それと同時に自分の手をしっかりと握り締めて泣き笑いしている人が自分の母親であることを思い出していく。

「お……かあ、さん?」

「そう、お母さんよ! 分かるのね? あなた一週間も眠り続けていたのよ。どうしてか、覚えてる?」

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母はナースコールをしながら聲を掛けてくる。

 しかし、亜の頭の中はまだ大部分が真っ白で思い出せない。

「私……ど……したの?」

「どうしたのって……あなた、トラックに跳ねられたのよ。優希くんから連絡を貰ったときは生きた心地がしなかったわよ」

「……ゆうき、くん?」

は當たり前のように名を紡いだけれど、亜にはそれが誰なのか分からなかった。

その名を口にしてもどんな容姿の人なのか思い出せない。

「あぁ、心配してたから教えてあげないとっ」

母は慌てた様子で病室を出ていく。その背中を見送りながら亜は小さく首を傾げた。

ゆっくりとかすと至るところに痛みがあって、つい顔を顰めてしまう。

起き上がることを斷念して窓の外へと視線を向ける。そこには綺麗な青空が広がっていた。

ボーッとしていると、やがて落ち著いた足音が近付いてきて、彼の病室の前で止まる。 

「栗林さん、目が覚めたんですね」

小さなノックのあと扉が開き、白の男が病室へとってきた。後ろには看護師らしきもいる。

「あ……はい」

「自分の名前は分かりますか?」

醫師は基本的なことを尋ねてきた。名前や生年月日、住所や電話番號、そして通っている大學の名前。

はゆっくりした口調でそれに答え、醫師と看護師がほっとした表を浮かべたときだった。

慌てたような足音が聞こえてきて、病室の扉が暴に開け放たれる。

「病院を走らないでくださいね」

看護師の厳しい視線を無視するように、その人は亜に歩み寄ってきた。

「こっの、馬鹿がっ!」

苛立ったような顔で怒鳴り付けられて、亜は大きくを震わせる。

「松澤くん、目を覚ましたばかりの人にそれはないでしょう」

苦笑する醫師はその人を知っているようだ。

驚きで聲を発せずにいる亜を見て醫師は優しく頭をでた。

「松澤くん、ずっと君のことを心配していたんですよ」

「……?」

覚えのない名前と顔に困の表を浮かべる亜の様子に醫師の表が一変する。

「栗林さん、この人が誰なのか分かりますか?」

じっと男の顔を見上げるけれど、なにも思い浮かばない。初対面だと思う。

「えっと……」

分かりますか? と訊かれたのだから、知り合いなのだろう。そうは思うものの、亜の記憶の中に當てはまる人はいない。

「お母さんにアルバムを持ってきてもらいましょう。記憶が欠如している可能があります」

記憶が、欠如している……? 醫師の言葉になるほどと納得してしまうのは、うまく言葉にできないけれど、自分の頭の中の異変に気付いているからだ。脳を白く深い霧が覆っているようなじだった。見つけたい記憶はおそらく濃霧の向こう側にある。

優希は、醫師の言葉に頷く亜を愕然とした表で見下ろしていた。

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