《不用なし方》第24話

優希が陸上部の練習に顔を出しているという噂はすぐに広まり、花の耳にもってきた。

ラウンジにいても優希の名前があちこちから聞こえてくるので、花と佳山はキャンパス外のカフェに亜を連れ出すようにしている。

怪我をしてからの優希が陸上に関わることをやめていたことは勿論知っている。あれほどに避けていた陸上を、どうして今になって再びやろうと思ったのか……それだけが疑問だった。

花は高校時代の同級生から彼が真面目に練習に參加していると聞かされ、どうしても信じられなくて陸上部の練習を覗きにきてしまった。

フィールドでは優希が笑顔で走っている。今まで避けていたとは思えないくらいにびとしていた。部員たちとも気さくに話をして笑い合っている。

今、目の前で見ている景は夢なのではないだろうか?

そんな気さえした。

岸?」

優希が花を見つけて近付いてくる。隠れていたわけではないので気付かれても仕方がない。

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「陸上……また始めたんだ?」

先程まで部員と談笑していた優希の笑顔を思い出すと花の心にモヤモヤしたものが生まれる。

「まだまだ本調子じゃねぇけどな」

本調子ではないと言いつつもその表は明るい。

と知り合った頃の優希を思い出す。あの頃に戻ったかのように生き生きとした瞳をしている。

は苦しみの真っ只中にいるというのに……。

優希が再び陸上を始めたことは喜ばしいと思うけれど、素直に喜んで応援したいという気持ちにはなれない。

「なんで……また走ろうって思ったの?」

「お節介な男のせい……かもな」

お節介な男? ではなく?

花は怪訝そうな顔を優希に向ける。の間違いではないのか? とその瞳は語っていた。 

「松澤、隨分と余裕だな」

「ちげぇよ、馬鹿。ただの近況報告だ」

花はやってきた男に軽く會釈して、優希に説明を促す視線を送る。

「コイツのことだよ」

「お節介な男……?」

「そ」

花は口にしてからハッとして手で口を覆ったけれど、飛び出した言葉は回収できるはずもない。気まずさをじて、なんとなく視線を泳がせる。

「あぁ……あの猛ダッシュの日、松澤と一緒にいた子だよね? あの走りを見たら陸上にうのは當然だと思わない? 案の定、この短期間でそこそこのタイム出してるし。真面目にやれば部でも三本指にはれると思うんだよね」

目の前の男が、優希をからかっているわけでも馬鹿にしているわけでもないというのは花にも分かった。

「相変わらず馬鹿正直だな、岡部」

「お世辭は嫌いだからな」

「……亜の、友達だ」

気まずそうに優希が呟いた。

「「え?」」

岡部と花の聲が重なる。

優希が亜の名を花との前以外で口にするのは久しぶりだ。

「そうか、彼の……」

なんとも言えない複雑そうな表で額を掻く岡部を見て、優希が彼にある程度のことを話しているのだと花はじた。

「あ、陸上競技部男子短距離ブロック、ブロック長の岡部です」

岸……花です」

「いきなりですが、彼の様子……伺っても?」

岡部の言葉に優希の顔が強張る。

「おいっ」

「話せる範囲で構わないので」

「記憶のことでしたら、頑張って思い出そうとしてます。……けど」

花は続けようとした言葉を躊躇ったのちに呑み込んだ。

の母が記憶を取り戻す妨げとなっていることに優希は気付いている。だから、敢えて部外者の前で口にする必要はないと思ったのだ。

「走ることが、ほんのしでも思い出すきっかけになればいいな」

岡部は亜の名を出すことなく、勵ますように優希の背中を軽く叩いた。 

「え?」

岡部の言葉に花が目を丸くする。予想外の言葉だったからだ。

「ってことで、サボった罰として五周してこい」

「はぁ?!」

「許可なく練習を離れたのはお前だろうが。さっさと行け」

「クソがっ!」

優希は本當に真面目に部活に參加しているようだ。文句を垂れながらも、しっかりと足をかして二人から離れていく。

「……ありがとうございます」

優希の背中を眺めながら、花は小さな聲で禮を言った。

優希が再び走ることを決めたのは、亜の記憶を取り戻すキッカケになるかもしれないと思ったからだと、岡部の言葉で理解したからだ。

「え?」

「アイツを……陸上に引っ張ってくれて、ありがとうございます」

自分では優希をもう一度走らせることなどできなかったと花は思う。

「だって、勿ないでしょ? あんなに走るのが楽しいって顔してるのに走らないなんて。……この間、偶然アイツが全速力で走ってるのを見て、なんで走るのをやめたんだろう? って思ったんだ。確かに、あの頃の記録は出ないかもしれないし、ジレンマに陥るかもしれない。……それでも、アイツに腐ってほしくなかった。年下とはいえ、アイツは……ずっと俺の目標だったから。……な~んて、まぁアイツには絶対に口が裂けても言ってやらないけど」

優希に視線を向けたままの獨白に、花はやるせない気持ちになった。

たった一人の怪我が、たくさんの人を巻き込んで……たくさんの人の人生を変えてしまったのだと嫌でも思い知らされる。

優希の怪我でレギュラーの座を手にれた男子部員やライバルと言われていた選手たち、そして優希の家族や亜と亜の家族。

優希の怪我でレギュラーに格上げされた男子部員は、心ない言葉やプレッシャーに耐えきれずに陸上をやめてしまったらしい。

家族仲の良かった優希自も、事故後の問題行が火種となって一人暮らしをさせられることになったと亜から聞いた。

「正直……亜が幸せになれるなら、記憶が戻っても戻らなくてもどちらでもいいって思ってるんです、私は」

高校時代の優希の事故は亜のせいではない。その場にいた全員はそう思っている。

しかし、亜は自分を責めた。

自分が通り掛からなければ足をらせることはなかったのだと。それならば、優希たちの帰る時間がもうし早かったり遅かったりすれば、あの事故に鉢合わせすることもなかったのだとも言える。

このような"たられば話"を語るだけならば誰にでもできるのだ。

優希が亜を呼ばなかったら……亜の存在に気付かずに足をらしていたら良かったのに、とさえ思った。

しかし、起こった事実は変わらない。

陸上を諦めた優希が荒れて、家族や亜との関係が悪化してしまったことも事実だ。

する気がないわけではないけれど……亜の持っていた診察券と薬の存在を思い出すと怒りが同心を軽く上回ってしまう。あんなものを彼が自ら進んで処方してもらうことはないと言い切れる。だからこそ簡単に優希を許すことができない。

とはいえ、亜の記憶を取り戻すために必要な人だということも分かっている。

花は走る優希を睨みながらを噛みしめた。

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