《不用なし方》第27話
亜は時間があると陸上部の練習を覗きにいくようになった。とはいえ堂々と見る勇気はなく、建の影やグラウンドを見下ろすことができる場所からこっそりと眺めるのがせいぜいである。今日も空き教室から練習風景を眺めていた。
寒い季節に外で見學などしたくないと花が言ったからだ。
「なんか、中學校の頃に好きな男子の様子を覗き見てたのを思い出すなぁ……」
亜の様子を眺めながら花が苦笑する。佳山はその言葉に小さく笑った。
「岸さんにもそんな時代があったんだ?」
「そりゃそうよ、子ですもの。でもまぁ……こんなふうに毎日何時間もストーキングすることはなかったけどね」
「ストーキングって……特定の誰かを見てるってわけでもないのにその言い方はちょっと……どうなのかな」
「似たようなもんだと思うけど」
言い方はどうであれ、花も佳山も亜の行を止めようとは思っていない。二人が彼に口を酸っぱくして言うのは"できるだけ単で行しないこと"ただそれだけ。
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亜が素直に頷いてくれたので、花はできる限り付き合うつもりでいる。
亜の事故以降アルバイトを休んでばかりだけれど、友はプライスレス。アルバイトの代わりはいくらでもいるけれど、友達に代わりはいない。
退院直後、亜の母にバイト代を出すから亜のそばにいてほしいと頼まれたことがあったけれど、それはその場で拒否した。當然だ。そんなアルバイトはあり得ない。
亜の母に対して激しい怒りを覚え、一週間ほど避けていたら、彼の方から謝罪してきた。亜が大學での出來事をあまり語らないので、報を得るためには謝罪するしかなかったのだろう。
亜の母の謝罪で主導権を握った花は、チャンスとばかりに亜の行や帰宅時間に口を出さないことを約束させた。
しかし、相手は大人。ただでは折れてくれない。花に領収証かレシートを持ってくるように言ってきたのだ。口は出さない代わりに証拠を出せ、ということらしい。
娘やその友人をそこまで信用できないのかと再度腹を立て、佳山を捉まえて不満を吐き出したけれど  佳山は"それで自由を得られるのならば渡せばいい"とあっさり言い放った。
最初の頃は佳山が亜の母にレシートの提出と一日の報告をしていた。その際に"レシートの金額を返されたのでありがたく頂いた"と平然と言われて、佳山の腹部に拳を叩き込んだのは二人だけのだ。
アルバイトをしないで出掛けていれば財布の中が寂しくなるのは當然のことだ、という佳山の言葉は言われなくても分かっている。それを亜の母が補ってくれるのであれば斷る理由はない、と彼は言った。
それでは以前持ち掛けられたアルバイトの話と同じだと言うと、佳山は過剰な金額はけ取っていないのだから違うと否定した。
納得できなくて言い返したけれど、逆に弁の立つ佳山に論破されてしまった。そのせいで、モヤモヤを抱えたままレシート分の金額をけ取ってしまっている。正直、本當にこれでいいのか? と疑問に思う毎日だ。
花は両親に亜の狀況を話していてアルバイトを休んでいることも報告していた。両親も友達のために時間を使うことに賛してくれて、小遣いまで渡してくれる。ありがたいけれど申し訳ない気持ちもないわけではなく……できるならば、出費は抑えたい。
亜の母はそういうところまでお見通しなのだろう。……大人は怖い。
正直、亜の母にそんなことを頼まれなくても、友人としてできる範囲で亜に付き合うつもりでいた。むしろ當然のことだと思っている。
ただ、なにも教えてあげられない歯さを抱きながら亜の背中を見守るのは、考えていた以上にしんどいものだった。 
花が小さく息を吐いたとき、連するように練習風景を眺めていた背中が小さな溜め息を吐いた。
どうやら気が済んだらしい。
「今日はもうおしまい?」
花が亜に尋ねる。
「うん」
花の言葉に亜が頷く。
「焦らないのはいいことだよ」
記憶を失ってから、亜は度々非常勤醫師の大沼の許を訪れていた。そこで言われたのが"焦らないこと"である。
大沼は、失った記憶を取り戻すよりも、先ずは曖昧な記憶をはっきりさせることを優先させた方がいいと言った。確かなことがないと自分自のことすら信用できなくなってしまうから、と。
氏名や生年月日、住所や家族構……大沼に訊かれて答えると、彼は"それは確かな記憶で、疑う必要がないもの"だと言った。自分の名前すら分からない人の不安は計り知れない。それに比べたら、家族や友人のことを覚えている自分は幸せなのだ、と思えるようになった。
気になることをノートに書き留めていくことを勧めたのも大沼である。答えが分かったときはそれもノートに書き込むように言われた。正解だと思ったものが本當に正解なのかはすぐにわからないからだという。
実際にいくつもの答えが書かれている項目があるのも確かだ。その疑問の答えはまだ見つかっていない。どれも正解だと思えなかったのだ。どうしてなのかは分からないけれど。
「じゃあ、帰ろうか」
「そうだね」
佳山の聲に花が立ち上がる。
「あ」
 フィールドに眼を向けた亜が、なにかに気付いたように聲を上げた。花と佳山の肩が小さく震える。
「あの人……」
亜の呟きに、二人は優希のことだとすぐに気付いた。
亜が陸上部を観察していることは既に本人に報告してある。その翌日から優希は帽子を被って練習に參加していたのだけれど……今日は珍しく被っていない。
「どうかしたの?」
花が探るように問い掛ける。
「あの人……どこかで見たことがある気がして……」
どこで見たのかは思い出せない。事故から一ヶ月くらいの記憶はかなり曖昧なので、その頃のことかもしれない。
「どんな人に會ったのか知らないけど、まぁ……陸上に限らず、スポーツしてればどこかしら故障はするよね。陸上だとやっぱり足かな?」
花は悩みながら慎重に言葉を選んで口にする。
「そっか……そうだよね」
間違った印象を與えることは言わないと二人は決めている。今の花の切り返しも、誤魔化しているわけではない。彼なりに"足の故障"というヒントを與えたつもりだった。
亜の母は、亜の攜帯電話からなんらかの報を得てしまい、優希を近付けたくないのだと花は思っている。もしかしたら、二人の関係を怪しんでいるのかもしれない。
 亜のことが心配なのは理解できるし、自分も同じような気持ちだ。
思い出したら辛いこともあるだろう。辛すぎて記憶を閉じ込めてしまったのならば、忘れたままの方が幸せかもしれない。そう思ったことはある。
しかし、辛い過去を思い出して苦しむとしても、彼が思い出したいと頑張っているのだから、友人として支えてあげることが正解なのだと結論付けた。
エゴだと言われればそうかもしれない。けれど、亜の思い出したいという言葉を疑っていたらなにもできなくなってしまう。
花は友人として、ただの傍観者ではいたくなかった。
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