《不用なし方》第30話
飲みを差し出しているのは若い男だ。優しそうな雰囲気は若干佳山に似ているかもしれない。
「あの……?」
「あぁ、ごめん。急に聲を掛けられてビックリしたよね?」
急に聲を掛けられたことにも驚いたけれど、亜が最も驚いたのはそこではない。
「あの……なんで、久しぶりって……?」
「だって、久しぶりでしょ?」
「そ……そうです、けど……」
どうしてそれを知っているのかを尋ねているつもりなのに、目の前の人は笑顔でかわしてしまう。きっと、ワザとだ……。
「事故に遭ったって聞いたけど、は大丈夫なの?」
「あ、はい……」
  亜が事故に遭ったことまで知っているのだから知り合いなのだろう。しかし、目の前の人に対する記憶が彼にはない。
「警戒されても仕方ないけど、警戒しないでほしいな。別に、亜さんに危害を加えようと思てるわけじゃないから。むしろ、守りたいくらいだし」
警戒しないでくれと言われても安心できる要素はなにもない。
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「あ……そっか。覚えてないんだから自己紹介が必要だよね。俺、のぞむっていいます」
ア……ソッカ、オボエテナインダカラジコショウカイガヒツヨウダヨネ。
彼は亜の記憶の一部が欠如しているしていることも知っていた。さらに、自分が忘れられていることまで分かっている。
やはり、記憶から消えてしまった人なのだ……。
亜はを見上げて申し訳ない気持ちになった。
「ごめんなさい……私……」
「無理に思い出そうとしなくていいから」
「でも……」
「ときどきね、俺もここで走ってるんだ。今日は亜さんがいてビックリしちゃった。本當は聲を掛けない方がいいって分かってたんだけど……なんかムキになって走ってるみたいに見えたから気になって」
聲を掛けない方がいい……? どうして?
亜の眼は口よりも素直に問い掛けていた。
「だって、俺の記憶がないこと知ってるから。ま、こうして聲掛けて警戒されて困させてるくせになに言ってんだか、ってじだけどね」
亜の記憶から消えていることを自ら話して苦笑するは悪人には見えない。
「なくなった記憶ってさ、亜さんにとって必要ないものだったんじゃないかな、って思ったりもしたし」
「そんなことない」
の言葉を即座に否定した。どうしてかは分からない。けれど"違う"と思った。
「亜さん?」
「要らない記憶があると思うのは……記憶を失ったことがない人だからです、きっと」
記憶を失った不安を経験しないと理解できない覚なのかもしれない。
「さん……は、どうして私を知ってるんですか?」
「さん、か。できれば"くん"の方がありがたいな。さん付けは聞き慣れなくてむずいや。それと俺の方が年下だし敬語もいらないよ」
は恥ずかしそうに鼻の下を指でった。
どうしてこの人を忘れてしまったのか? この人はどうして自分の記憶が失われていると知っているのか?
「どうしてとか、なんでとか言われても、俺は亜さんじゃないから答えられないよ。それに……誤魔化すわけじゃないけど、心つく頃にはもう亜さんは當たり前のようにそこにいたんだよね」
は困ったように言葉を紡ぐ。
年下だという彼との接點はなんなのだろう?
「あ、ここで俺に會ったとか話したとかってことは亜さんの親には言わないでほしいな」
「え?」
「亜さんのお母さん、失った記憶に関わる人との接を嫌がってるみたいだから」
彼の言葉はすんなりと亜の中にってくる。母の日々の様子を見る限り、彼の言葉は正しいと思えたからだ。
「分かった」
亜は頷きながら、引っ掛かるものをじた。
は母のことに詳しいようだ。それは自分の家族と近しい存在だったということではないだろうか? 思い出せないけれど。
「あ、れ? そういえば……どこかで……」
この聲……この顔……どこかで見たような気がする……どこでだろう?
亜は額に手を當てながら記憶を遡っていく。
「駅」
「え?」
顔を上げるとが優しく微笑みながら亜を見下ろしていた。
「どこかで俺に會ったような気がしたんじゃない?」
「そう、そうなのっ」
「お友達と一緒にいるときに、一度だけ駅で聲を掛けたことがあるよ」
「あ」
花と一緒にいるときに聲を掛けられたことを思い出す。ハッキリと覚えてはいないけれど、彼だと言われればそうかもしれないと思える。
「あの、ときの……?」
駅前で聲を掛けてきた人は思い出さない方が幸せだと言った気がする。
「あの頃よりも楽しそうに笑う亜さんを見てると、やっぱり記憶がない方が幸せなんじゃないかなって思っちゃうよね」
楽しそうに笑う? 心が空っぽなのに……?
「楽しくないわけじゃないけど……なにか違うの」
「え?」
「心にが開いてるみたいなの。なにかが足りてなくて……なにかがなんなのか分からないけど、足りてないってことだけは分かるの」
「分かるような、分からないような……」
「退院して、大學に通うようになってから……お母さんが"最近は帰りが早いのね"って言ったことがあるの」
亜の言葉にの眉がピクリと小さく反応した。
「アルバイトもしてないし、毎日遊んで帰ってたわけでもないのに……どこでなにをしてたんだろう、って……」
花にも佳山にも話せなかったのに、には話せてしまうことが 不思議だけれど……きっと、この人が忘れられた當事者だからだと思う。
亜自も誰かに話したかった。誰でもいいわけではない。理解してくれる人にただ聞いてほしかった。
「あ……ごめんね。なに言ってるのか分からないよね」
は亜の言葉には答えず、空を見上げた。雲ひとつない空には丸くなりかけた月だけが浮かんでいた。 
亜が走り始めたときは赤みを帯びていた空は、暗闇に包まれそうになっている。
「人って、夜は素直になれるらしいよ。宇宙と空のが同じだからなのかな? ……いいんじゃない? 好きなだけ吐き出せば。俺は聞くことしかできないけど」
「……ありがと」
は再びスポーツドリンクを差し出した。亜は素直にそれをけ取ってもう一度禮を述べる。
「多分二~三年、亜さんの笑顔見てなかった」
「え?」
「見掛けたとき、亜さん……いつも泣きそうな顔してた。だから、記憶がない方が幸せなんじゃないかって思ったんだ」
の言葉は、隠すばかりの母や、心配して言葉を慎重に選ぶ花とは違っていて、素直なが伝わってくる。
「……二~三年……」
なんとなく、彼の口から飛び出した"二~三年"という期間にヒントがありそうな気がした。
「多分、さ……亜さんの記憶がな失くなったことにも意味があると思うんだ。だから、急いで焦って無理して間違った報で間違った記憶を刷り込まないでね。噂とか周囲の言葉を信じすぎないでほしいんだ」
記憶を失くす意味?
「そろそろ帰らないとおばさんが心配するんじゃない?」
が攜帯電話の畫面を彼に向ける。亜が家を出てから一時間以上が経過していた。
「あ」
「大通りまで送るよ」
と亜は並んで大通り沿いの公園のり口までやってくると足を止めた。
「じゃ、ここで俺にあったことは緒だよ?」
「うん。……さよなら」
「またね、冷やさないようにね」
亜は気になりつつ帰路に就いた。 
「……歪みを直すチャンスを、神さまが二人に與えたんだって思いたいんだ、俺は」
彼の背中を見送りながら、は小さく呟いた。
もしも変わってしまうなら
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