會計を済ませたあと、花園はタクシーを止めた。

「來いよ。今夜は帰るなんて言うなよ」

「……どこへ？」

「どっか行きたい所ある？」

そんな事を聞かれても、何も思い浮かばない。郁は首を振った。

「あっそ……」

タクシーに乗り込んだ花園は、聞いた事もない橫文字を告げてそのままシートにふんぞり返った。

「………」

運転手も、花園も、郁も黙りこくって、車を沈黙が支配した。

しかし花園は時折様子を窺うように、ちら、ちら、と郁に視線を送る。そうして目があうと、なんとも言えずきまずい。

（普通の雑談というか……世間話できるようなじじゃないし……）

それでも一応禮儀として、郁は聲をかけた。

「きょ……今日はどこにいらしてたんですか」

「グループの會議で赤坂」

「そ、そうですか……お疲れ様です」

「別に。座ってるだけで何もしてないし」

ぶっきらぼうだけれど、郁が何か聞き返すのを待っている。花園はそんなじだった。

「でも……大変ですね。あちこち行かなきゃいけなくて」

「……噓ばっか」

「え」

「俺が大変だなんて思ってないだろ。彼氏いないとか一人で食べるとかも。あんたはいつも噓ばっかだ。」

「そういうわけじゃ……」

郁は肩を落とした。そう、何を言ってもつっかかってくるのが彼なのだ。今もどこで地雷を踏んだかわからない。

（……話してると、つかれる）

もういいや、黙ってよう。郁は窓の外を見た。夕方の込み合う大通りを、タクシーはのろのろ走っていく。そのうちあたりがひらけてきて、ビルの合間に海と埠頭が見えた。

（……お臺場か）

白く聳え立つ建の前で、タクシーはとまった。降りたとたんに、海風が郁の髪を揺らした。

（こんなとこ來るの、久々だな）

前お臺場に來たのは、たしかまだ弟が小學生だったとき。海沿いに作られた大きなロボットを見に行きたいとせがまれたので、郁はお小遣いをはたいてゆりかもめにのり、一緒にそれを見に來たのだった。

（……まだあるのかな、あのロボット）

郁は後ろに続く桟橋をふと振り返った。が、夕闇に浮かび上がるのは海とビルばかり。

「おい、何見てんだよ」

花園が機嫌の悪い聲を出したので、郁はあわてて歩き出した。

「ごめんなさい。景が……きれいで」

すると花園の顔がふと緩んだ。

「そうか」

前回と同じようにエレベーターに即座に乗り込むと、花園は落ち著かないようにちらっと郁を見て言った。

「今日の部屋は……前よりちゃんとしたとこ、だから」

「はぁ……」

「景もいい」

「そうですか」

機嫌を損ねないように、郁はあいまいにうなずいた。さっさとエレベーターを降り廊下を歩く花園についていった部屋は――たしかに郁の度肝を抜いた。

（ひ、広い……）

ほのかな照明に照らされた部屋にはシックなソファセットが並んでおり、窓の外には海との夜景が広がっていた。瑞々しい甘い匂いがさりげなく漂っている。中央のガラステーブルに飾られている花の香りだろうか。

り口で固まってしまった郁を、花園は伺うように見た。

「……気にらない？」

郁は震えるように首を振った。

「豪華すぎて……」

すると花園の顔がはっきりと緩んだのがわかった。

「なんだよ、遠慮なんてしなくていいのに。ほら、來いよ。奧はもっと広いから」

リビングルームを抜けた先の部屋はバルコニーにつながっており、ガラス窓の外、夜景をバックにしたテラスでは何かが揺らめいてっていた。

「……あれは一？」

「ジャグジー」

言うが早いが、花園は服をぎ始めた。

「一緒にるぞ。それに著替えろ」

指さした籠の中には、タオル一式と水著がっていた。

「えぇ……」

「命令。これも借金返済に含まれる」

そういわれて、郁は仕方なく水著を取り洗面所へと向かった。ぴらっとそれを指でつまみ上げて、郁はため息をつきたくなった。

（黒のビキニて……）

ほぼ裝飾のないシンプルなものだったが、それだけにそのものが強調される。に著けた自らのを見下ろして、郁は思わず顔を赤らめた。

（なんか、だらしないし、いやらしい……）

中背中、はそこそこ。太っても痩せてもいないが、平均重で全的に緩んでいる。そんなにこのシャープな水著は明らかにミスマッチだった。

（こういうのって、モデルとかが著ないと様にならないやつだよ……）

大判のタオルをに巻きつけ、郁は先ほどの部屋に戻った。花園はすでにジャグジーに浸かっていた。

「遅いぞ」

「ごめんなさい」

「ほら、來いよ」

花園のじっとりとした視線をじる中、郁は俯きながらタオルを取った。思わず前かがみになってを隠してしまう。すると花園は楽しそうに言った。

「何？恥ずかしがってんの？昨日あんなことしたのに」

「……あまり見ないでください」

そう言いながら、郁は白い浴槽をまたぎジャグジーにった。ゆるりとしたお湯が、にまとわりつく。水面に浮いた花びらがゆらゆらと揺れた。

「はっ。見るなだって。お高くとまってんな」

「あまり綺麗なじゃないので」

「ふぅん？」

花園は前髪をかき上げ、冷たい調子で言った。高級スーツを著こなすだけあって、若いそのには厚みがある。筋も腕も引き締まって逞しい。何かで鍛えているのは間違いないだろう。そのを浴槽の中にぞんざいに投げ出して、花園は郁をじっと見つめていた。

逆に郁は彼との接を避けるように、じっと固まって育座りをしていた。

「はぁ。中野さん、その態度なんなの」

「……すみません」

「世の中舐めてない？10萬の仕事がそれでいいと思ってんの？」

そういわれると、反論できない。うつむく郁に、花園はため息がちに愚癡った。

「場末のソープ嬢だってもっと想いいぞ」

「そうなんですか」

未知の領域なので、ちっとも想像がつかない。ここは素直に教えを乞うしかないだろう。

「どう……するものなんですか？プロの、１０萬円のセックスって」

「な……そんなん俺に聞くなよ」

「花園さんはきっとご存じでしょう？よかったら教えてもらえませんか」

「っ……まずはその呼び方、ダメだ」

「ええと……あきら、さん？ですか」

「さんはつけるなって言っただろ。昨日の事なのにもう忘れたわけ？」

「……すみません」

「どうでもいい事で謝るなよな。あと敬語も止。もっと親し気に、想よくしろ」

「わかり……わかった」

とはいっても、そんなガラリと態度を変えられるわけがない。ひきつった作り笑いを浮かべた郁に、花園はさらに過酷な指令を出した。

「お前から來て、俺に奉仕するんだ。――人みたいに、いやらしく」

郁が固まるのを、花園はにやにや面白そうに見ていた。その視線をけて、郁の中に逆に反骨心がむらっと沸き起こった。

（この人――私が困って、慘めなのを見て、楽しんでるんだ……）

本當に、何て意地が悪いんだろう。それなら、絶対楽しませてなんてやるもんか。郁は立ち上がった。どうせ見られるのだ。恥じらいなんて、さっさと捨てた方が楽に決まっている。

すると花園は、じっと食いるように郁のを見つめた。にらみつける郁の目と、その目がバチリと合う。すると彼は、慌てたように目をそらした。

「ふぅ……ん……？　結構、に、似合ってんじゃん。……らせろよ？」

いつまでも、やられっぱなしと思うな――。

そんな聲が、郁の頭のどこかで響く。怒りにを任せ、郁は花園の両肩に手をかけ、顔を近づけた。

られる前に、こっちからってやるんだ。

「んぅ！？」

ぷに、とをくっつけると、花園が呆けたような聲を出した。優位に立ったような満足が、郁のをくすぐった。

「……っ、は、お前、キス……ッ」

「嫌ですか？」

郁が聞くと、彼はふっと目を閉じた。長い睫が、白い瞼に伏せるその様は、男というよりまるで恥じらう乙のようだった。

その表に目を奪われていると、今度は花園が郁の肩を摑み、くあっと食らいつかれた。

「ふ……っぁ」

さきほどとはまるで違う、捕食されるようなキス。肩を摑まれ、きもかなわず、郁はただ自分の口の中で獰猛に暴れる彼の舌を、耐え忍んだ。

「ん……なぁ、」

息をつきながらを離すと同時に、花園がを押し付けてきた。見なくても、彼の下半が熱くなっているのがわかる。

「くっ……俺、もう」

郁の耳元で、花園が余裕のない聲でそう囁く。さきほどはあんなに偉そうにしていたのに、この落差はなんだろう。

し意地悪な気持ちになって、郁の頬に笑みが上る。

（ふぅん……今日はちょっと、仕返ししてやろうかな）

ほんのし、をかす。花園の切羽詰まった聲が、耳元でする。

夜空に浮かぶわずかな星と、海面に反するビル群のライト。その間を駆け抜ける風が、二人の濡れた髪を揺らす。

二人の不用なコミュニケーションを、東京の夜空は何も言わずに見下ろしていた。

（あっくんに連絡、しなきゃ）

夜半。郁はぎゅうぎゅうにを抱きしめる花園の腕の中からそっと抜けて、スマホを取り出した。思ったとおり、弟からの著信でホーム畫面が埋まっていた。きっと心配しているはずだ。郁は連絡できなかった詫びと、會社で終電を逃したと言う事だけメッセージをし、鞄にスマホをしまった。

（はぁ……どうしよ）

ため息が口をつく。ベッドサイドの時計は、午前4時を示していた。変な時に目が覚めてしまったものだ。

（この時間じゃ、電車も止まって帰れないし、かといって朝までいたら……）

起きてきた花園を前にして、どんな顔をすればいいのか、気が重い。

（何でこの人……最中だけは、あんな顔するの……？）

ついさっきの、花園のうわずった聲が頭によみがえる。必死に名前を呼ぶ聲、郁のにしがみつく腕。指先。

（はぁ……もう……）

先ほどよりも深いため息には、困も混ざっていた。

郁にだけ、意地悪で自分勝手な、この同僚。逆らえない、嫌な男。

彼には嫌われている。そう思っていたし、それは今でもおそらくその通りなのに。

（なのに、なんであんな抱き方、するんだろう…）

彼が郁に真剣な気持ちを抱いている可能など1パーセントもないのに、あんな態度を取られると、こちらも無駄に揺してしまう。

（ほんと、わからない……）

わからないなりに、郁は理由を考えてみた。そう、きっと、金持ちの道楽なのだ。蟲の好かないに、金で言う事をきかせる。そういう遊びなのだ。行為中の言葉だって表だって、きっと遊びだからあけすけになる。それだけの事だ。本命の前では、男はもっと恰好をつけ、余裕を裝うものだろう。

明日の朝になっても、またその道楽に付き合わされるのはたまらない。今の花園と郁の関係は、會社では曹司と平店員だし、この場に至っては金貸しと債務者だ。貴重な休日まで、わがままで傍若無人な花園の顔を伺ってきりきり過ごすなんてごめんだ。

郁はそっと立ち上がった。

（いいや、もう今出ちゃおう。もうやる事はやったはず。）

電車がくまで、駅前で時間を潰そう。そう決心して、郁はドアに手をかけた。その時、ぱっと部屋の電気がついた。

「……どこ行くんだよ」

郁の背後に、半の花園が立っていた。

「ひっ……お、起きたんですか」

郁はびくっと振り返った。

「お前が勝手に起きたから、起きた。彼氏に連絡してたわけ？」

ずっと見られていたのか。郁はを噛んだが、別になにも悪い事なんてしていないし、逐一報告する義理もない。郁は顔を上げてはっきりと言った。

「誰にも連絡してません」

すると、花園はぐっと詰まったような顔をしたあと、を不快気に歪ませた。

「また噓。お前って噓ばっかで……最低だな」

「っ……」

その言い草に、さすがの郁もカッとしそうになったが、ぐっとこらえた。相手はこちらよりもはるかに上の立場の人間なのだ。そんな相手に対して、的になった時點でこちらが不利だ。

今までだって、理不盡なお客様の対応は山ほどしてきた。郁はその時の事を思い出して、冷靜に頭を下げた。

「気を悪くされたのなら、申し訳ありません。これ以上ご不快にさせるのも心苦しいので、帰らせていただきます」

そう言って郁は再びドアを開けた。が、肩を摑まれる。

「帰れなんて、俺は一言も言ってないだろ！」

こんな所で喧嘩なんて、見苦しい。誰かに見られでもしたらどうするつもりだろう。郁はそっと彼の手をつかみ、自分の肩から外した。

「もう遅いので。花園さんはゆっくりしていってください」

きっぱりと冷靜に郁がそう言い切ったのを見て、花園は力を失ったようにうなだれた。

「わかったよ……じゃあ、勝手にしろ……ッ」

下ろされたその手は、小刻みに震えている。それを見て、郁はまたため息をつきたくなった。

（……私にどうしろって言うんだろう、このわがまま曹司は）

せっかく手にれたおもちゃが、思い通りにならないから怒っているのだろうか。玄関先で、途方に暮れる。

「……花園さん。」

「な……なんだよ」

「純粋な疑問なのですが、花園さんは、私と一緒にいて、楽しいですか？」

すると、花園はうろたえた。

「な、なんだよ突然……っ」

「私には至らない部分がたくさんありますので、きっと不快なはず。だっていつも、私といるときは不愉快な顔をしてらっしゃいますから」

「それは、それはお前がっ」

「私が？　なんですか？」

郁はしっかりと花園の目を見據えて聞いた。なくとも自分は、花園の害になるような行をした覚えはなかった。

「おっしゃってください。何かしてしまったのなら、直すよう努力いたしますので」

「う……」

すると、花園はぐっと詰まった。どうやら、返す言葉がないようだ。そんな彼の顔をみて、郁はしだけ溜飲が下がった。頭の中で、小さい聲がささやく。

ここで意地を張って帰らないほうがいい。腹立ちをおさめていったん彼のわがままに付き合ったほうが、來週の仕事に支障が出ない……。郁の理はそう囁いたが、早く帰りたい気持ちの方がまさっていた。

郁は軽く肩をすくめて、今度こそドアを開けた。

「では、失禮いたします」

郁は早足でエレベーターへと向かった。幸い、彼は追ってはこなかった。