やっとの事で家に帰りつき、し寢てから土日の家事や買いルーティンを済ますと――あっという間に月曜日になってしまった。

（あーあ……気が重いなぁ……）

きっと花園は、帰ってしまった郁に対して怒っているに違いない。金曜日は強気に出てしまったが、郁はこれからも彼に『返済』をしなければならないのだ。あまり喧嘩腰になるのではなく、やはりあそこでは我慢して、下手に出るべきだった。

……理不盡ではあるが、顔を合わせたら先手を打って自分の方から謝罪しよう。

はぁ、と憂鬱なため息をつきながら、郁は自分と淳司の分のお弁當を包んだ。午前中は調子の悪い淳司のために、郁は起きたらすぐに食べれるように毎日お弁當を用意していた。いつものテーブルのうえに包みを置いたあと、ベランダの鉢たちに水をやった。こんな日でも、花たちは元気だ。春の朝の気のなか、咲きかけの薔薇の蕾がほころんでいる。その健やかな様子を見て、郁の心はしなごんだ。どんなときでも、花は綺麗に咲こうとしていて、郁を元気付けてくれる。ベランダの小さな花たちは、郁のささやかな楽しみだった。

「いくちゃん……大丈夫？」

音に気が付いたのか、橫になっている弟が心配そうに聲をかける。淳司は朝はいつも、調子がよくない。

「大丈夫、なんでもないよ」

「ごめんね……あの」

「あっくんが謝る事なんてひとつもないよ」

すると弟はちょっと気まずそうに笑った。

「そうじゃなくて、今日……俺、出掛けるかもって、伝え忘れてた。だから、お弁當……」

「えっ、そうなの？」

「うん。昔の友達が、連絡くれてさ。ご飯行くことになったんだ」

「そう……」

心持ち不安げな郁に、安心させるように弟はいった。

「ほら、拓海って覚えてる？　小學校一緒だった」

「ああ……あの背の高い眼鏡の子ね？ わかった」

相手がわかってしほっとした郁は、晝食代を置いて出社した。

「おはようございます、中野さんっ」

「おはよう」

いつも変わらず元気な加奈の顔をみると、しほっとする。花園になんか負けないぞ、と郁は心で拳を握り、今日も週初めの売り場へと足を踏みれた。

週初めに新しく荷した商品を検品したあと、加奈と一緒にディスプレイに陳列する。一番客の目を引くショーウインドウには、目玉となるイチオシのネクタイにぱりっとしたシャツ、そして春用のトレンチコートを配置した。店の外から見て映えるように、間接照明のライトを微妙に調整する。それを見て、加奈がウキウキと言った。

「このトレンチ、マダムけ、よさそう！……先輩のショーウインドーで、今度はいくつ売れますかねぇ」

意外な事かもしれないが、こうした紳士服店はの來店の方が多い。皆、夫の服を買いに來ているのだ。だから時には『男け』よりも『け』を意識したものをディスプレイする。

私は加奈に、笑って肩をすくめた。

「いっぱい売れるといいんだけど」

そんなやり取りをしている間に、あっと言う間に開店の時間になり、店の前で他の従業員とともに立つ。朝いちばんのお客様に挨拶をするためだ。さっそく、年配のが數人店舗へ足を踏みれた。

「いらっしゃいませ」

郁は心をこめてお辭儀した。加奈と手分けして、お客様のご案につく。ちらちらと店員を探すようなそぶりのご婦人に、郁は聲をかけた。

「何かお探しですか」

郁が呼びかけると、ご婦人は息子の夏のスーツを新調したいの、と言ってり口を振り返った。いかにもフレッシュな、二十歳前後の若者がってくる所だった。

「涼しい素材のものがいいわ。この子、冬しか持っていなくてね……」

ご婦人の要を聞きながら、郁はちらっと青年の裄丈をチェックした。

（中背中、長は百七十三センチ……ってところか。サイズもデザインも、ちょうどいいのがある）

「でしたら、ちょうどこの季節にぴったりのものがございます。こちら、し羽織ってみてはいかがでしょう」

涼しい素材の紺のジャケットを郁はラックから外した。このジーンズにも似た紺の細のスーツは、若い人にしか似合わないデザインと言っていい。目の前の青年には、まさにあつらえ向きだ。しかし、ご婦人は首をかしげた。

「ちょっと……スーツにしては、派手じゃないかしら。もっと地味なものはないかしら？」

し及び腰のご婦人の前に、郁はオーソドックスなものを中心に、いくつかのハンガーを並べて見せた。青年は気恥ずかしいのかやや俯きがちに、言われるがままに姿見の前でスーツを羽織っていく。最後に紺のスーツを纏った時、ご婦人も本人も、し顔が変わった。

「あら……著てみると、悪くないわね」

おとなしいグレーや黒よりも、鮮やかな紺の方が斷然、青年の顔を明るく見せ、すっきりと細い仕立ては若さをより引き立てている。

「俺、これがいいな。でも、ちょっと肩のところがゆるいかも」

青年がそう言ったので、郁はすかさずうなずいた。

「お客様のサイズですと、もう一つ下のサイズをお召しになるより、こちらの肩を半インチお直しなさった方がぴったりで著ていただけると思います」

「あら、測ってもいないのにすごいわね」

郁はにっこりわらって頭を下げた。

「恐れります」

採寸をしなくても、服の上からでも、つきをし見れば、ぴったりのサイズがわかる。故に、その人に似合うものをズバリと差し出せる。社以來、このフロア一筋で接客に勵んできた郁の、ささやかな強みだった。

しかし、『似合う服』と『しい服』は違っていたりするものだ。どうせ買うのならば、後者の方に軍配が上がるし、また両者をごっちゃにしているお客さんも多い。

もちろんお店である以上、お客様がしがるものを提供するのは當たり前だ。しかしどうせならば、長くして、著続けてもらえるような賢い選択をしてほしい。その方が、お店の信頼度やリピーターにもつながるはずだ。郁はそう思って日々接客に勵んでいた。

「毎度ありがとうございました」

お直しの手配を整え、郁は頭を下げてお客様を見送った。よかった。今日は幸先がいい。チラリと橫目で見ると、加奈の方もお買い上げとなったようだった。

「あのトレンチ、さっそく売れましたねぇ」

晝休憩の前、加奈が嬉し気にバックヤードで言う。郁も思わずつられて微笑んでしまう。

「三浦さんの接客のおかげね」

「いーえいえ、あのディスプレイのおかげですよ、やっぱり。じゃ、休憩ってきまーす」

にこにこと出ていった加奈を見送ったその時。れ替わりのように花園が來た。何か別の會合でもあったのだろうか、今出勤したといった風だ。郁の顔に浮かんでいた笑顔が、が引いたように消え失せる。

「おい……」

彼が何か口にする前に、郁はすっと頭を下げた。

「先日は、申し訳ありませんでした。」

すると花園は、舌打ちせんばかりの聲で言った。

「なにそれ……本當に悪いなんて、思ってないくせに」

「いいえ。手前勝手な行をして、花園さんにご迷をおかけしました」

チッ。今度こそ、鋭い舌打ちが響いた。

「本當にそう思ってるならさぁ……口先だけじゃなくてもっと『誠意』見せろよ」

「誠意、ですか……」

郁は考え込んだ。お客様がこの言葉を口にした場合の答えは、何種類も用意してある。しかし花園相手だと、何を差し出せば機嫌が直るのか、わからない。

（だってすでに、関係が……あるんだし）

何かものをあげるにしても、郁はすでに500萬を借りけているであり、曹司である花園が喜びそうなものなど、庶民の自分に用意できるはずもない。

土下座でも、するか。そう思った時、フロアにお客さんが足を踏みれた。

「すみません。後で対応させていただきます。私の晝休みまで待ってもらえますか」

「わかった。楽しみにしてるからな」

花園は尊大にうなずいて、去った。

（はぁ……どうしよう）

お客さんをお辭儀で見送りながら、郁はの中でため息をついた。しばらくして加奈が戻ってきてしまったので、重い気持ちで休憩を代する。

（もし土下座したとして、それで済めばいいんだけど……）

何かもっと、激しい要求をされたらどうしよう。嫌な想像をしながら、郁はロッカーから自分のバッグを取り出した。お弁當が2つっているので、いつもより重い。

（今日は、食べる暇ないかもな……）

腐らせては、と淳司の分も持ってきたのに。そう思う郁の後ろに、花園が立った。

「さて、どう詫びてくれるのかな、中野さん」

目をらんらんとらせて見下ろしてくる花園。郁はとりあえずバッグを床に置いた。土下座するためだ。

「このたびは……」

郁は土下座のフォームにりかけたが、その前に花園が脇に置いた郁のバッグを取り上げた。

「ふうん。これが中野さんの『誠意』？」

「えっ」

さすがにバッグはあげられない。お財布やスマホがってるのだから。というかそんなもの、しがるのもおかしいだろう。花園の行に困する郁だったが、彼がバッグからお弁當の巾著を取り出したのを見て、はっとした。

「2個あんじゃん？　俺のために作ってきたってわけ？」

こちらを見下しながら、花園の口の端はにっと上がっていた。馬鹿にしたような笑いだ。でも、郁はとりあえずそういう事にした。

「は、はい。こんなもので申し訳ありません。お口に合わなかったら遠慮なく捨ててください」

「俺は、出されたものはちゃんと食べる。たとえどんなに不味くてもな」

相変わらず、高慢ちきな言い草だ。しかし言葉とは裏腹に、花園は休憩室に移して、座っていそいそと弁當箱を開き始めた。中はいつもと代わり映えのしない、卵焼きにウインナーに、焼鮭だ。またちくちく嫌味を言われるのだろうと構えた郁に、花園は手招きした。

「ほら、隣に座れ」

誰か他の社員がいてくれれば、と思うが、みな外へランチへ行く人ばかりで、休憩室には郁と花園だけだった。仕方なく、郁は言う通りにした。

「……いただきます」

すっと花園が背筋をばして、手を合わせる。當たり前の行なのに、その所作は一本筋が通ったように綺麗だった。箸をる手も、最小限のきなのにどこか優雅で、彼の育ちの良さを否が応でもじさせた。

（ふうん……てっきり文句を言うのかと思ったけど）

そう言えば、彼と食事を共にするのは初めてだ。とりあえず何も文句を言われなかったので、郁はほっとした。ちらっと花園を盜み見ると、卵焼きを頬張った彼は、なぜか嬉し気に頬を緩ませていた。

（卵焼き……好きなのかな？）

意外だ。そんな庶民的なものを、彼が好き好んでいるとは。

（普通にしてれば……可げがないことも、ないのに。）

しかし悲しいかな、彼の格はねじ曲がっている。外面だけはいいが。

「何みてんの？」

花園がいきなり郁の方を向いたので、郁はあわてて目をそらして言い訳した。

「いえ！　末なものなので、お口にあうかし心配で」

「まぁな。でもまぁ、食べれないこともない」

明らかにけなされているが、花園のその聲はやはり、どこか嬉し気だった。

「……それはどうも」

郁より先に食べ終わった彼は、弁當を包みなおして郁にずいと返した。立ち上がった後、花園は上から居丈高に命令した。

「よし。これから毎日、俺に弁當つくってこい」

「え！？　な、なんでですか。こんな普通のお弁當をわざわざ……」

いくらだって、外に味しいものを食べに行けばいいのに。舌のえているだろう花園に、毎日弁當を作っていくなんて荷が重すぎる。

「それは……ええと、研究だよ、庶民のっ。だから別に、いつものでいいから」

花園がまくしたてるようにそう言ったので、郁はしぶしぶうなずいた。

「そうですか……わかりました」

「明日も同じ時間に、ここで待ってるから」

そう言って、花園は休憩室を出て行った。彼も暇ではないはずだ。郁は首をかしげながら、空になった2つのお弁當をロッカーにしまった。わがままなのか、ただの好きなのか。

（庶民の研究、ねぇ……）

いくらそう言われても、彼を相手に、今までのように適當なお弁當を作っていく気にはなれない。しパターンを増やしたり、おかずを豪華にしないと。

（帰り、スーパー寄ろうかな……）

面倒でないといえば、噓になる。しかし、機嫌を直してくれたのでよしとしよう。郁はふうとため息をついて、パタンとロッカーを閉めた。午後も仕事だ。