《完璧曹司が、なぜか私にだけ意地悪をしてきます》弁當戦線、異常あり
花園にお弁當を渡すようになってから、幾日かが過ぎた。一緒に食べる日もあれば、彼はお弁當だけもらってどこぞへと仕事へ向かってしまう事もある。今日なんか、書を名乗る男がお晝時に訪ねてきて、わざわざお弁當を預かっていった。
「たしかにお預かりしました。ありがとうございます、中野様」
背は高いが、どこか親しみやすい雰囲気の人だったので、郁は微笑んで頭を下げた。
「こんなもののためにご足労をかけまして、すみません」
「いえいえ、とんでもないです。このところ、ぼっちゃ……彰さんは、晝食が唯一の楽しみのようで」
そんなに忙しいのだろうか。いけ好かない奴だが、郁はし心配になった。
「そうですか……。ならあの、無理してこんなお弁當で、我慢しなくとも」
郁がそう言うと、書さんはちょっと目をまるくしたあと、苦笑した。
「そうそう、こちらをお渡しするようにと彰さんに言われていたんだった。材料費だそうです」
差し出された分厚い封筒を見て、郁は首を振って固辭した。
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「いえいえ、大丈夫です! もともとついでなので、そんなに費用はかかっていません」
すると彼は困ったように言った。
「貰っていただけないと、私が彰さんに叱られてしまいますので……どうか」
郁はし迷ったのち、封筒から一枚だけお札を貰った。
「これくらいで、十分です。花園さんには、そうお伝えください」
すると彼も、それ以上は勧めなかった。
「わかりました。では中野様、失禮いたしました。午後もお仕事、頑張ってください」
「は、はぁ……」
颯爽と去っていく彼をぼんやり見送る郁の後ろから、かつ、かつ、とハイヒールの音がした。振り返ると、いかにもノーブルな、ツイードのスーツを著こなしたが立ってこちらをじっと見ていた。
(おお、マヌカン様だ)
彼の邪魔になる前に、郁はさっとロッカールームのり口からどいた。彼がってから、自分は出ればいい。
(あれ、けどマヌカン様がこんな所に何の用かな)
彼らは、選ばれしアパレル店員だ。郁のように百貨店に雇われ売り場に配屬される店員とは違い、マヌカンは高級ブランド専屬の店員で、各ブランドから百貨店店舗に派遣されている。ブランドを知し、裕福な顧客を相手に莫大なノルマを売り上げるのが仕事の彼らは、しいだけではなく、そのブランドを著こなすセンスや、イメージを損なわない気品ある接客が求められる。
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――ので、同じ職場に勤める同僚とはいえ、郁や加奈からすると、とても気軽に挨拶できるような相手ではなかった。彼らとは休憩室もロッカーも別だ。し不思議に思いつつ、そそくさと郁は出て行った。
その背中をマヌカンがじっと見つめているのに、郁は気が付かなかった。
休憩から戻ると、加奈が小走りで郁のもとへと來た。
「ん? 何かあった?」
郁はちらりと店を見回したが、お客は誰もいない。加奈は何かうずうずしているようだった。
「郁さん……私今日、マヌカン様のボスとご飯いってきたんですっ」
その言葉に、郁は目を丸くした。マヌカンの中のボスとは、さっきロッカー室ですれ違ったツイードの彼その人だ。
「それで聞かれたんですよ、中野さんのことっ」
「え、私!? な、なにを聞かれたの?」
予想もしていなかった発言に、郁は驚いた。何かしでかしてしまっただろうか。背中がし寒くなる。
「それが、褒めてたんです。中野さんってやり手なんでしょうって。中野さんがってから、ここ、売り上げびてるのよね?って……」
「いや……それは、私じゃなくて主任や三浦さんみんなの力だと思うけど…」
いまいち話が見えないなと思いつつ、郁は加奈の話に耳を傾けた。
「それで、獨なのかとか、人はいるのか、とか聞かれて……彼氏はわかんないけど、結婚はしてないって言っちゃいました。中野さんのプライベートを、ゴメンなさい。すっごく聞かれて……」
すこししょぼんとする彼に、郁は首を振った。
「いいよそれは。別に隠しているわけでもないし……」
すると加奈は、奧歯にものが詰まったように言いよどんだ。
「その……あの……中野さん、花園さんと付き合ってるって、本當なんですか?」
それを聞いて、郁はマヌカン様が加奈に聞きたかった事を察した。どこまで知られているのかはわからないが、彼は郁と花園の仲を疑っているのだ。
(お弁當を渡していたの……誰かに見られていたのかな)
けれど、斷じて付き合っているという関係ではない。ここははっきり否定しておいた方がいいだろう。
花園は、あくまでも外面はいい。その上、若くて顔が綺麗で、曹司なのだ。この百貨店にいる全員に、大なり小なりよく思われている事は事実だった。
(もし、マヌカン様が花園を狙っている……とかだったとしたら)
考えなくても、面倒な事になると言う事がわかる。
「ううん、付き合ってるわけがないじゃない。とんでもないよ」
「えっ、そうなんですか……?」
だが、こうなってしまった以上、お弁當の事は下手に隠さないほうがいいだろう。
「そう。ただ、頼まれてお弁當を作ってはいる。なんでもマーケティングのために、庶民の味を研究したいんですって。仕事として、ちゃんと費用ももらっているの」
「ええ?! お弁當を? それって……」
「でもいつも一緒に食べてるわけじゃないから、本當にあの人が食べてるのかわからないんだよね。食品企畫の部署に回されてるのかも……」
あくまでも仕事で、私的に親しいわけではないのだと郁は強調した。
「へぇ……そ、そうなんですね」
郁の説明に押されたのか、加奈は納得したようだった。郁はさらにダメ押しした。
「ほんとをいうと、ちょっと大変なんだよね。誰か料理上手な人に代わってほしいくらい」
「中野さんも、大変ですね。私、お料理とかぜんぜんだからなぁ……」
すっかりいつもの調子に戻った加奈にほっとしながら、二人は午後の業務に取り掛かり始めた。もくもくとガラスを磨きながら、郁は心穏やかではなかった。
百貨店は、が多い職場だ。噂は一瞬で広がると思ったほうがいい。
(もし、私と花園さんが付き合ってる、なんて噂、皆が知ったら……)
もう、面倒な気配しかない。いや、実際マヌカンの彼に勘ぐられて、面倒な事になりはじめているのだ。
(……冗談じゃないよ)
自分は、仕事をするために來ているのだ。付き合うだのなんだの沙汰で、仕事に支障が出てはかなわない。なぜなら郁は、二人きりとはいえ、一家の大黒柱なのだから。郁が稼げなくなっては、弟も自分も生活していけなくなる。
(……もうお弁當、やめたいな)
しかし、花園は郁の言い分など聞いてくれないだろう。ガラスケースを磨き続けながら、郁はどうすればいいか考えた。
が、いい方法は思いつかないおかげでガラスケースは、いつも以上にすっかりピカピカになってしまった。
しかし、思わぬ方向で郁の悩みは解決される事となった。あくる日こそこそとお弁當を隠し持って休憩室に向かったら、そこには先客が悠々と座っていたのだ。
(あっ、マヌカン様……)
今日はパンツスーツではなく、いくらかフェミニンでモードなワンピースを著ていた。彼はアイラインが完璧に惹かれた麗しい目を、ちらりと郁にくれた。その冷たい目は、言葉よりも雄弁だった。
(何してるの? さっさと出て行ってちょうだい)
そのまなざし一つで、郁は高貴な彼の部屋に無遠慮にも勝手に立ちった泥棒のような、恐れ多い気持ちになった。さすがはマヌカン様、だ。
彼の前には、きちんと包まれた重箱らしきものがどんとおいてあった。大きな箱をつつむアイボリーのその布は、ひと目であのブランドのものとわかるシックなものだった。きっと中も、さぞ豪華なのだろう。
それを見て、さすがの郁も彼の意図を察した。彼が郁を追い出す言葉を口にする間でもなく、郁は軽く會釈をして休憩室から退出したのだった。
(ふぅ……なるほど。が自ら、お弁當を持って現れるなんて……)
花園はつくづく、いい分だ。そう思いながら休憩室のドアをしめると、ふと曲がり角の向こうから誰かの足音がした。
(まずい! もしや花園さん……!?)
ここで三者が鉢合わせたら、確実に面倒な事になる。郁はとっさに再びドアを開けて、休憩室の手前のロッカールームに逃げ込んだ。部屋の隅の、カーテンがわだかまる窓際のにさっとを隠す。
ドアを開けてってきたのは、案の定花園だった。
(うわ、ニアミス……まぁ、ここで待ち合わせしてるんだからあたり前か)
頃合いをみて、そっと外に逃げればいい。そう思いつつ、郁は息を殺した。花園がロッカールームを抜けて、休憩室にっていく。聲がれ聞こえた。
「中野さ……って、あれ?」
さきほど郁には一言も発さなかった彼が、あでやかな聲で答えた。
「お久しぶりね、彰さん」
すると、花園はくだけた聲で答えた。
「ああ、千鶴さんか。同じ場所に勤めてるのに、めったに會わないですね」
どうやら二人は、名前で呼び合う仲のようだった。マヌカン様こと千鶴は、し拗ねたように言った。
「だってあなた、五階にばっかりいるんですもの。私の居る二階になんて、ぜんぜん來なくて」
「まぁ、一応紳士服フロアに配屬された事になってるんでね。ところで、中野さん來なかったですか?」
「ここには誰も來なかったけど」
「そっか……邪魔してすみません、じゃ」
(わっ、こっちくるっ)
花園が休憩室を出て行こうとしたので、郁は逃げる機會を逸した。しかし、千鶴がそれを黙って見送るはずもない。
「あら、彰さん……。私の目の前にあるお弁當、気が付かないの?」
「えらく気合がっていますね。千鶴さんも、自炊とかされるんですね」
郁の前にいるときとは対照的に、彼は落ち著いた敬語で彼に対応した。まるで、常識的な大人みたいに。
「今日はたまたま……ね。でも、作り過ぎちゃって。よかったら一緒に味見してもらえないかしら」
とても直接的ない文句だ。花園は、どう答えるのだろう。一瞬自分が隠れている事も忘れて、郁は聞き耳を立てた。
「申し訳ないですが、今日は先約があって。失禮させていただきますね」
穏やかで冷靜な聲で彼が斷わったのを見て、郁は驚いた。
(えっ、噓。なんで。あんな人のい……)
すると、千鶴の聲のトーンが変わった。
「ふぅーん。あの中野さんって人のお弁當を、け取りにいくのね」
場の溫度が、すっと下がったような気がする。しかし花園は屈託なく肯定した。
「そう。わざわざ作ってもらう約束だったものを、直前になってドタキャンするなんて心無い事はできないですから」
「それなら、明日ならいいの?」
「いや、実はずっと、彼に頼んでいるんです」
苛立つ千鶴に対して、花園は悠然としている。郁はだんだんハラハラしてきた。
「……なぜ、彼なのかしら? 実は料理の腕がすごいとか?」
「いや、ごく普通ですよ。俺は……普通の食事、ってやつに興味がありまして」
「あなたほどの男の人でも――ああいう普通の、ぱっとしないタイプのと遊びたくなる時があるのね。気を張らなくて癒される、っていうのかしら?」
彼の言葉は、郁に対する棘でいっぱいだった。
「でも、あまりあの人に親切にしすぎるのもどうかと思うわ? 本気にしたら、可哀想じゃない」
すると花園は笑った。
「いいんですよ、別にそれで」
「あら、彰さんって悪い人ね。そうやってアラサーをもてあそんで。彼にとっては、貴重な時間よ?」
「そんなつもりはありませんが」
彼が立ち上がって、こちらに來る足音がする。どうやら出て行くようだ。郁はを固くしたが、彼は気が付かず花園に言った。
「思い通りになる彼が楽しいの? つまらない遊びをしているのね。それに、あなたが遊びだと知った時の彼が、お気の毒だわ」
彼の言いたい事が、その言葉の裏にけていた。
――言いなりになるつまらないなんかじゃなくて、この私の方があなたにふさわしいでしょう……?
その聲は、楽し気ですらあった。しかし花園は、慇懃に返した。その聲はなんのもこもっていない、冷たいものだった。
「繰り返しになりますが、そんなつもりは全くありませんよ。では失禮」
つかつかと花園が出て行った事がわかった。それをけて、マヌカンの彼も一拍遅れて出て行った。苛立つハイヒールの足音が遠ざかったのを確認して、郁はおそるおそるカーテンのから出た。
(な……何か、とんでもない誤解が生まれていたような)
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